L・マイトナーさんの歩みに影響した人物(7) フリッツ・ハーバーさん

前回からの続き。
▼1912年、44才のマイトナーさんは、ベルリン大学の地下木工作業所から、新設のカイザー・ヴィルヘルム研究所にハーンさんの客員研究員という立場で入る。この研究所の所長がフリッツ・ハーバーさん。ハーバーさんもマイトナーさんも共にユダヤ人。ハーバーさんは自分のアイデンティティはドイツ人(国に尽くす思いが毒ガス開発へ)。研究所のマネジメントは能力主義(ユダヤ人を差別しない)。
▼マイトナーさんが研究所に入ってから1年後の1913年からは正式な研究員になり、1918年からは核物理部を管理する立場になった。ハーバーさんが研究所を挙げて軍のために毒ガス開発をしている間も、マイトナーさんは参加せず、放射性物質の研究を続けることができた。他の研究者との交流も盛んだった。
▼この研究所の空気が一変するのは、1933年にヒトラーが政権を取り、研究所からユダヤ人の追放が始まってからだ。ハーバーさんは同年、所長を辞職。マイトナーさんは国籍がオーストリアだったため研究を続けられた。しかし38年にオーストリアがドイツに併合されてからは研究所にいられなくなる。

ハーバーさんのご専門は?
有機化学。空中の窒素からアンモニウムを合成するハーバー・ボッシュ法の生みの親。第一次大戦でドイツが使用した毒ガス兵器の開発者。戦争犯罪人になるかと思いきや、ノーベル化学賞を受賞。

どんな関係?
カイザー・ヴィルヘルム研究所の開設時から所長と所員の関係。共通項は同じユダヤ人。違いはハーバーさんはドイツ人、マイトナーさんはオーストリア人。

どんな人生?
化学者として国に尽くしたい、という強い思いで生きた人生。しかし、最後はナチスに国を追われる。同じ化学者の妻をもっと大事にできなかったのか。考えさせられることが多い人生を過ごされた人物である。
ハーバーさんを資金援助していた星一さん(1873-1951、星製薬社長)の招待で日本に2カ月滞在した時間は、二人にとってよきものであったろう。

フリッツ・ハーバー Fritz Haber 1868-1934 物理化学者。

1868年、ポーランドのヴロツワフ生まれ。裕福なユダヤ人の家庭。父は染料商人。生まれて3週間後に母が死去。
1874年(6才)父が再婚。父とは性格が合わず距離があった。しかし義理の母とは良い関係を築けた。
教育
1879年(11才)ギムナジウムに入学。文学、哲学、化学実験が好き。ユダヤ人としてよりもドイツ人としてのアイデンティティを持っていた。
1886年(18才)ベルリンにあるフンボルト大学に入学、冬学期の間、化学を学ぶ。しかし、期待外れだったので転学。
1887年(19才)ハイデルベルク大学で夏学期の間、ロベルト・ブンゼン先生に師事。
1888年(20才)ベルリン工科大学に入学。
1889年(21才)1年間の兵役につく。
1891年(23才)フンボルト大学で博士号。指導教員は有機化学のカール・リーバーマン先生。
活動
1892年(24才)博士になるとすぐ父親の染色事業を手伝う。しかし、両者の断絶が埋まらないことを父も認める。 イェーナ大学で1年半研究生活を送る。ジアセトコハク酸エステルに関する共同論文を発表。
1894年(26才)カールスルーエ大学の無給助手。大学の研究職に就くためユダヤ教からキリスト教に改宗。
1896年(28才)論文「炭化水素の分解の実験的研究」が評価され私講師になる。
1898年(30才)教科書『理論的基盤による技術的電気化学概論』が評価され助教授になる。
1904年(36才)窒素からアンモニアを合成する方法(ハーバー・ボッシュ法)の研究に着手。12年に化学メーカーのBASF社が実用化。
1906年(38才)カールスルーエ大学の教授。
1912年(44才)カイザー・ヴィルヘルム研究所の所長。マイトナーさんは客員研究員。
1914年(46才)WWI。従軍を志願し却下される。軍からはガソリン凍結防止用の添加剤の開発が命じられる。ドイツ軍用の毒ガス開発を命じられ着手。カイザー・ヴィルヘルム研究所を挙げて取り組む。O・ハーンさんが毒ガスの使用はハーグ条約に違反するのではないかと疑問を表出。妻のクララさんも研究に反対。
1915年(47才)第二次イーペルの戦いで毒ガス作戦を指揮。大きな成果をあげる。妻クララさんが自殺。
1916年(48才)マイトナーさんがオーストリア軍の従軍X線技師・看護婦の仕事を辞めて研究所に戻り、放射性物質の研究を継続。
1918年(50才)マイトナーさんがO・ハーンさんとプロトアクチニウムを発見。マイトナーさんが業績が認められカイザー・ヴィルヘルム研究所の核物理部を任される。
1918年(50才)WWI終戦。ドイツが敗戦したため、戦争犯罪人になるのを恐れ再婚した妻と息子を連れてスイスに逃れる。
1918年(50才)ノーベル化学賞を受賞。研究所の再編に取り組む。日本の星一さんが資金協力。
1919年(51才)ボルン・ハーバーサイクルを提唱。
1924年(56才)世界一周の旅に出る。星一さんの招待で日本に2か月滞在。
1933年(65才)ナチスが政権をとり研究所からユダヤ人の追放が始まる。所長職を辞職。
1934年(66才)死去。

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