L・マイトナーさんの歩みに影響した人物(8) カール・ボッシュさん

前回からの続き(マイトナーさんの歩み)
▼マイトナーさんとボッシュさんの共通点は、カイザー・ヴィルヘルム研究所である。
ハーバーさんとボッシュさんは研究所が開設する1912年の前からハーバー・ボッシュ法でアンモニアを量産するのために協力関係があった。
▼1933年にヒトラーが政権を取り、ユダヤ人の追放が始まる。この年にハーバーさんは研究所の所長を辞し、翌年、死去。ボッシュさんが新所長になる。ボッシュさんは、この段階では外国籍ユダヤ人のマイトナーさんが研究所を追われる可能性は大きくないので、研究所に残るようアドバイス。
▼しかし、マイトナーさんの祖国オーストリアがドイツに併合されるとマイトナーさんも研究所から追放する対象になる。

ハーバーさんのご専門は?
化学者、同時に経営者。ハーバーさんが持ち込んだアンモニアの製造法を大規模化して工場生産を実現した。ハーバー・ボッシュ法として有名。

どんな関係?
ボッシュさんはマイトナーさんの実力を認めていた。ハーバーさんがカイザー・ヴィルヘルム研究所の所長を辞任した後、研究所長を引き継ぐ。マイトナーさんのドイツ脱出を手助けしようと尽力するも、ヒムラーに阻まれる。
結局、マイトナーさんはボーア研究所から救いに来たディルク・コスターさんと命からがらドイツを逃れる。

どんな人生?
化学者としての能力と経営者としての能力の両方に恵まれていた。社会課題を解決する科学技術や製造工場が戦争に使われる、個人的にヒトラーと対立していても事業ではナチスと協力関係、戦後手塩にかけた工場が閉鎖されそうになってもばん回したものの、その後大事故で多数の死者を出す、マイトナーさんを救おうとしてもナチスの壁に阻まれる、などなど思うようにいかないことだらけ。WWIIが始まった翌年、ナチスが勢いを増す最中に死去。

カール・ボッシュ Carl Bosch 1874-1940 化学者、経営者。

1874年、ドイツのケルン生まれ。実家はガス・配管会社を経営。叔父のロバート・ボッシュはエンジンのプラグでBoschを起業した人物。
教育
1893年(19才)高等実業学校を卒業。
1894年(20才)ベルリン工科大学に入学。冶金学と機械工学を学ぶ。化学の講義も受講。
1898年(24才)ライプツィヒ大学で博士(有機化学)。指導教員はヨハネス・ウィスリセヌス先生。
活動
1899年(25才)BASF社に入社。中央研究室で研修。
1900年(26才)製造工場に配属。上司のルドルフ・クニーツさんからヴィルヘルム・オストヴァルト氏が発明したアンモニア合成法の追試を命じられる。しかし、追試で再現できない。原因を発見。オストヴァルト氏は特許を撤回。仕事ぶりが評価を受ける。
1902年(28才)上司の信頼・支持がありBASF社の無水フタル酸工場の拡張計画を実現。工場内に実験室を持つ。経済的な固定窒素の研究に取り組む。
1909年(35才)ハーバーさん(カールスルーエ高等工業学校教授)がBASFに触媒を使った固定窒素製造法を持ってくる。 反対意見が出た中、ボッシュさんはハーバー法の実現可能性を支持。BASF経営者が開発を決定。
1911年(37才)仮工場で1日に2トン以上のアンモニアを生産。アンモニア生産の新工場計画の責任者になる。
1913年(39才)アンモニアの新工場が稼働開始、BASFの利益に貢献。すぐ生産能力の増強に着手。
1914年(40才)WWI
1914年(40才)軍が弾薬用の硝酸を必要とする。アンモニアから硝酸を作る方法を提案。
1915年(41才)硝酸製造のためオッパウ工場を設立、稼働開始。フランス軍から同地域が爆撃を受け、破壊のリスクが高まる。
1916年(42才)オッパウ工場の壊滅に備えロイナ工場の建設に着手。
1917年(43才)ロイナ工場が稼働開始。
1918年(44才)WWI終戦。ベルサイユでの和平交渉に参加。オッパウとロイナ両工場を閉鎖する方針の撤回にこぎ着ける。
1919年(45才)フランス国内にハーバー・ボッシュ法を使ったアンモニア工場を作る計画にBASFが技術援助する話がまとまる。BASFの取締役会長に就任。
1921年(47才)オッパウ大爆発事故が発生。561名が犠牲になる。すぐ現場を見る。人前に出なくなる。
1922年(48才)仕事に復帰。口数が減り、人と面会を避ける。
1923年(49才)ドイツが賠償金の支払いを延期したためフランス軍がオッパウ工場を一時占拠。のち撤退。
1924年(50才)ハーバー・ボッシュ法が一般化したため、BASFは新しい収益源としてエタノール由来のガソリン製造事業を目指す。
1925年(51才)大型投資に備え企業合同による新会社IGファルベンを設立。取締役会長に就任。
1931年(57才)ノーベル化学賞を受賞。受賞理由は、高圧化学的方法の発明と開発。
1932年(58才)ヒトラーが勢力を伸ばし始める。
1933年(59才)ナチスに献金を求められたIGファルベンは応じる。ヒトラーがユダヤ人を公職から追放する法律を実施。科学者には法律の適用はないと信じたボッシュさんはマイトナーさんに現職に留まるようアドバイス。 ヒトラーが経済諮問委員会を作り、ボッシュさんが委員になる。ボッシュさんはナチスのユダヤ人政策に不満を持っていたため口論。 IGファルベンは生産した石油を全てナチス政府が買い取る契約を結ぶ。
1934年(60才)カイザー・ヴィルヘルム研究所を辞めたハーバーさんが死去。ナチスがハーバーさんの葬儀式典への出席禁止命令を出す。ボッシュさんは無視して出席。
1935年(61才)取締役会長を退き監査役会長に就任。
1937年(63才)カイザー・ヴィルヘルム研究所の所長に就任。マイトナーさんを出国させるため国務大臣と交渉。しかしヒムラーが妨害。
1939年(65才)ドイツ博物館でナチスを批判。その後、心身とも病む。
1939年(65才)WWII
1940年(66才)死去。
1945年、WWII終戦。

https://en.wikipedia.org/wiki/Carl_Bosch
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5