L・マイトナーさんの歩みに影響した人物(6) エンリコ・フェルミさん

前回からの続き。

1934年、マイトナーさんはカイザー・ヴィルヘルム研究所で活躍して22年が経過。ドイツではナチスによるユダヤ人追放が始まり、不穏な状態になっている。
マイトナーさんはE・フェルミさん(8月15日)の核反応の論文に刺激を受ける。フェルミさんの論文の実験結果を確かめるには化学者の協力が必要と考え、ハーンさんに話を持ちかける。結果、シュトラスマンさんを加えた3人の共同研究が始まる。この研究はハーンさんのノーベル化学賞受賞につながる。今回は、そのきっかけになったE・フェルミさんをご紹介する。

フェルミさんのご専門は?
イタリアとアメリカで活躍した原子核物理学。イタリアにいた時代は、自然の元素に中性子を照射して人工の元素を作る手法を編み出し、多くの放射性元素を見つけ出して論文で発表。この論文をマイトナーさんが見て、自分たちでも実験を始める。イタリアがファシズムで危険になったためアメリカに渡ってからは、世界初の原子炉を作り、プルトニウムを抽出し、世界初の原爆の製造に貢献した。理論と実験の両方に通じる核物理の専門家。概算の名人でもあり、例えば「ニューヨーク市にピアノの調律師は何人いるか?」などのクイズの元になるフェルミ推定を提示。

どんな関係?
マイトナーさんとフェルミさんの共通項は、核物理学。違う点は、マイトナーさんは原爆に協力しない立場、フェルミさんは原爆を作る立場。アメリカに渡ったフェルミさんは、ハーンさんがドイツで核分裂の実験を成功させたニュースを知る。ナチスが原爆を持ったら大変なことになると危機感を持ち、アメリカでの原爆製造を急いだ。マイトナーさんは、1945年にアメリカが日本に原爆を落とすまでマンハッタン計画を知らなかった。原爆投下を報道するため取材がマイトナーさんに殺到したとき「ハーンも自分も全く関わりがない」と答えている。フェルミさんは第二次世界大戦後は、水爆の開発に反対の立場を取る。

どんな人生?
20代から40代が、ヨーロッパではドイツがナチズム、イタリアはファシズムが勢いづいた時期と重なる。ユダヤ人女性と結婚したため、迫害の対象になる。ノーベル賞の授賞式に出席するため夫妻でイタリアを出国した機会を使ってそのままアメリカに渡る。その翌年に第二次世界大戦が始まるので、脱出はぎりぎりのタイミングだった。アメリカでは引く手あまた。危機を共有する政府・軍の後押しを得てコロンビア大で大がかりな実験施設を建設、原爆を作るためにプルトニウムが必要となるためシカゴ大で施設を建設し専念する。科学上の発見が、戦争の勝敗を決める原爆製造の開発競争になり、猛スピードで実現、実行に至る。放射線を浴びたのが原因で53才で亡くなる。

エンリコ・フェルミ Enrico Fermi 1901–1954 物理学者
1901年、ローマ生まれ。
教育
1914年(13才)WWI
1918年(17才)WWI終戦
1918年(17才)ピサ高等師範学校(ピサ大学)に入学。物理学を学ぶ。
1922年(21才)ピサ高等師範学校(ピサ大学)で博士号を取得。物理学を学ぶ。同じ専攻のフランコ・ラゼッティと親友になる。ドイツのゲッティンゲン大学に留学。
1924年(23才)ロックフェラー財団の奨学金を得てオランダのライデン大学に留学。アインシュタインさんなどの学問仲間を増やす。
活動
1925年(24才)ローマ・ラ・サピエンツァ大学で講師(物理学)。フィレンツェ大学で臨時講師(数学物理と理論工学)。
1926年(25才)「フェルミ統計」を発表。ローマ・ラ・サピエンツァ大学の教授(理論物理学)。ラゼッティさんや若手と研究チーム「パニスペルナ通りの小僧たちVia Panisperna boys」を作る。
1928年(27才)ユダヤ人女性と結婚。
1930年(29才)フェルミのベータ崩壊の理論を完成。元素に中性子を照射し40種類以上の人工放射性同位元素を生成。
1934年(33才)マイトナーさんがフェルミさんの論文に刺激を受け、ハーンさん、シュトラスマンと3人で共同研究を開始。
1936年(35才)コロンビア大で夏期講習を行う。
1938年(37才)ムッソリーニのファシスト政権によりユダヤ人追放の動きが活発化。
1938年(37才)ノーベル物理学賞を受賞。ストックホルムで授賞式に出た後、夫妻でアメリカに移住。
1939年(38才)コロンビア大学の教授(物理学)。ドイツでO・ハーンさんが核分裂実験を成功させたニュースを知る。
1939年(38才)WWII
1942年(41才)シカゴ大学で世界最初の原子炉「シカゴ・パイル1号」を完成
原子核分裂の連鎖反応の制御に史上初めて成功。この原子炉で原子爆弾の材料プルトニウムを生産。
1944年(43才)マンハッタン計画に参加、原爆製造のけん引役。ロスアラモス国立研究所のアドバイザー。
1945年(44才)WWII終戦
1946年(45才)水素爆弾の開発に反対。シカゴ大学で宇宙線の研究。
1954年(53才)死去。

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https://en.wikipedia.org/wiki/Enrico_Fermi