L・マイトナーさんの歩みに影響した人物(5) フリッツ・シュトラスマンさん

前回からの続き。マイトナーさんの年表でみると:
1907-12年、ベルリン大学の木工作業所時代。
1912年(34才)カイザー・ヴィルヘルム研究所時代のはじまり。
1920年(42才)ハーンさんとの共同研究が終了、独立して研究を開始。
1933年(55才)ヒトラー政権になり、大学や研究機関からユダヤ人の追放が始まる。
1934年(56才)E・フェルミさんの核反応の論文に刺激を得て、実験結果を確かめるには化学者の協力が必要と考え、ハーンさん、シュトラスマンさんと3人で共同研究を開始

シュトラスマンさんのご専門は?
核物理学、核化学。マイトナーさん・ハーンさんとの共同研究が長かった。

どんな関係?
シュトラスマンから見るとマイトナーさんとハーンさんは24才年上で実績も格も違う存在。マイトナーさんはカイザー・ヴィルヘルム研究所の幹部になっていたので、反ナチスの立場を取ったため働き場を失ったシュトラスマンさんに救いの手を差し伸べてくれた。マイトナーさん・ハーンさんの共同研究の仲間に入れ、実験を任せ、給料も出してくれた。マイトナーさんはナチスから逃れるためドイツを脱出し、ハーンさんは管理業務に追われていたため、ひとりで継続的に実験を続けた。ハーンさんのノーベル化学賞は、シュトラスマンさん、マイトナーさんの力があってこそ。第二次世界大戦が終わってから、マイトナーさんにドイツに戻ってこないかと声をかける。しかし、マイトナーさんは結局、ドイツには戻らないまま。

どんな人生?
反ナチスの立場を取りブラックリストに載ったため、働き場所を失いかけた。しかし、マイトナーさんがハーンさんとの共同研究の仲間に入れ、給料も出してもらった。自分の放射化学の研究がヒトラーに使われて原子爆弾にでもなったら死んだほうがまし、と考えていた。

フリッツ・シュトラスマンFritz Strassmann 1902-1980  化学者、物理学者

1902年、ドイツ西部の都市ボッパルト生まれ。デュッセルドルフ育ち。
子供時代から化学に関心があり自宅で実験を行う。父親が死去して経済的にままならない状態になる。
1914年(12才)WWI
1918年(16才)WWI終戦
教育
1920年(18才)化学を学ぶためハノーバー技術大学に入学。学費はチュータをして賄う。
1924年(22才)同大学から科学技術者の修了証書diplomaを得る。
1929年(27才)同大学で博士(物理化学)。分析化学への志向が強まる。
1929年(27才)奨学金を得て カイザー・ヴィルヘルム化学研究所でオットー・ハーンさんと放射化学の研究を開始。
活動
1932年(30才)奨学金が切れたのでハーンさんの研究室で無給・費用負担なしの研究学生として残る。
1933年(31才)ヒトラー政権。ユダヤ人の追放が始まる。
1933年(31才)ドイツ化学者協会がナチスの管理になったため辞任。そのためブラックリストに登録される。以降、就職も大学での活動もできなくなる。
1933年(31才)マイトナーさんがシュトラスマンさんの窮状を救うためオットーさんに共同研究の仲間に入れて給与を支払うことにする。
1934年(32才)マイトナーさんがE・フェルミさんの論文に触発されハーンさんとシュトラスマンさん3人で共同研究を開始
1936年(34才)ウラン239を発見。
1938年(36才)マイトナーさんはドイツを脱出。ウランに中性子をぶつけるとバリウムが生じる。残った二人は理由が分からずマイトナーさんに手紙で相談。 その答えがハーンさんのノーベル化学賞につながる。
1939年(37才)WWII
1940年(38才)ナチスへの協力を妻と共に拒む。アパートにユダヤ人の音楽家をかくまいながら放射化学の研究を継続。
1944年(42才)ハーンさんが単独でノーベル化学賞を受賞。シュトラスマンさんは共同研究者として認知された。
1945年(43才)WWII終戦。成果が地質年代学にも貢献する。
1946年(44才)マインツ大学の教授(無機化学、核化学)。
1966年(64才)エンリコ・フェルミ賞を受賞。
1967年(65才)ドイツ連邦政府に働きかけ核化学研究所を設立。
1970年(68才)引退。
1980年(78才)死去。

https://en.wikipedia.org/wiki/Fritz_Strassmann
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%84%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%B3