L・マイトナーさんの歩みに影響した人物(15) イレーヌ・キュリーさん

前回からの続き。マイトナーさんの時期:

1938年にマイトナーさんはベルリンを脱出。核分裂を発見(イレーヌさんの実験報告との関連が大きい)。
スウェーデンのストックホルムにあるマンネ・シーグバーンさんの研究所に入るも疎外感を味わいながら過ごす。
1945年、アメリカが広島・長崎に原爆を投下。マイトナーさんに取材が殺到する。第二次大戦が終わる。

イレーヌさんのご専門は?
原子物理学。

どんな関係?
マイトナーさんはイレーヌさんの母親マリー・キュリーさんを若いときから知っている。研究上のライバル。
1933年の学会発表でイレーヌさんの発表に対してマイトナーさんが反論する。
1938年にマイトナーさんがベルリンを脱出した後、ハーンさん、シュトラスマンさん(イレーヌさんの論文にピンと来て、研究を提案)と始めた実験のテーマはイレーヌさんの実験から出てきた謎の解明。これが核分裂の発見につながる。

どんな人生?
二度もノーベル賞を取る母親の娘なので、世界中の注目が集まる立場。ストレスもうまく受け流し、専門性を活かして自らもノーベル賞学者になった。母親と同じく放射線が原因で健康を損なう。

イレーヌ・ジョリオ=キュリー Irene Joliot-Curie 1897-1956 フランスの1897年、パリ生まれ。キュリー夫妻の長女。
教育
1903年(6才)両親がノーベル賞を受賞。
1906年(9 父ピエールが馬車に轢かれて死亡。
祖父で医師のウジェーヌさん(ピエールさんの父親)から教育を受ける。
1910年(13才)ウジェーヌさんが死去。
組合学校を卒業、セヴィーニ学院に入学。
1911年(14才)母マリーが二度目のノーベル賞を受賞。
1914年(17才)WWI。戦争中は、放射線治療やX線検査の技術を身に着けて奉仕。
1918年(21才)WWI終戦。ソルボンヌ大学に戻り学士(数学と物理)。母マリーの研究所の助手。
1925年(28才)ソルボンヌ大学で学位取得。ポロニウムのアルファ線についての研究。
活動
1925年(28才)母マリーの研究所にフレデリック・ジョリオさんが助手。
1926年(29才)フレデリック・ジョリオさんと結婚。体調不良が始まる。
1933年(36才)ソルベ会議で発表。これに対しマイトナーさん(55才)から反論。ニールス・ボーアさんから励ましを受ける。
1934年(37才)アルミニウム薄片にアルファ粒子を衝突させ、人工放射性物質を作る。母マリーさん死去。
1935年(38才)「人工放射性元素の研究」で夫のフレデリックさんと共にノーベル化学賞を受賞
1936年(39才)科学担当国務次官に期間限定で就任。パリ大学ソルボンヌ校の教授(母の後任)。
1937年(40才)ウランから新たな放射性物質を発見。マイトナーさんはこの報告に対し発見できないと反論。ハーンさんは無視。シュトラスマンさんが何かありそうと気づき3人で共同研究を進める。
1938年(41才)マイトナーさんがドイツを脱出。ハーンさんとシュトラスマンさんが実験を続ける。実験結果の謎をマイトナーさんとフリッシュさんが核分裂と見抜く。
1939年(42才)WWII。フランスでレジスタンスのメンバーになる。体調不良に苦しむ。
1945年(48才)WWII終戦。フランス原子力委員会の化学部門の責任者。
1946年(49才)ラジウム研究所の所長。
1950年(53才)フレデリックさんがソ連から第1回国際平和賞を受け、夫妻で会場のクレムリンに行く。
1956年(59才)白血病により死去。国葬。

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