L・マイトナーさんの歩みに影響した人物(14) オスカル・クラインさん

マイトナーさん、前回からの続き。

1938年、ベルリンからスウェーデンに脱出したマイトナーさんは、マンネ・シーグバーンさんが長を務めるスウェーデン王国科学アカデミー・ノーベル研究所の所属になる。この研究所では実験装置を使えず、スタッフもなく、疎外された状態が続く。
1939年、WWIIが始まる。
1943年にイギリスの科学者から原爆開発の協力を打診され、断る。
1945年、広島・長崎に原爆が投下される。マイトナーさんのもとに取材が殺到。第二次大戦が終わる。
1945-48年、ボーアさんとクラインさんがマイトナーさんをノーベル賞候補に推薦し続ける。
1946年、共同研究者のオットー・ハーンさんがノーベル化学賞を単独受賞。

クラインさんのご専門は?
理論物理学。通常の.3次元に時間を加え4次元にしさらに新しい次元を加えるような理論。

どんな関係?
ボーアさんと同じく、マイトナーさんを高く評価していた。
マイトナーさんを自分の研究所に受け入れたいと考えていた。また、マイトナーさんをノーベル賞に推薦した。しかし、マンネ・シーグバーンさんとは競争的な立ち位置。1946年のノーベル賞選考委員5人のうちの3人がシーグバーンさんのグループ。マイトナーさんの受賞は叶わなかった。

どんな人生?
WWIとWWIIの両方を経験したユダヤ人学者。学生時代、指導を受けた先生方がノーベル賞学者や当代一流の学者。理論物理学の立場から、マイトナーさんの研究を理解、応援していた。

オスカル・クライン Oskar Klein 1894-1977 理論物理学者

1894年、スウェーデンのストックホルム郊外の町で生まれる。父はラビ。
教育
ノーベル物理学研究所でスヴァンテ・アレニウス先生(1903年ノーベル化学賞)に学ぶ。
パリ高等師範学校のジャン・ペラン先生(1926年ノーベル物理学賞)に学ぶ。
1914年(20才)WWI。兵役に就く。
1917年(23才)コペンハーゲン大学のニールス・ボーアさん(1922年ノーベル物理学賞)の下で研究。
1918年(24才)WWI終戦
1921年(27才)ストックホルム大学で博士。
活動
1923年(29才)アメリカのミシガン大学で講師。
1925年(31才)コペンハーゲンに戻る。オランダのライデン大学でポール・エーレンフェスト先生(理論物理学)と研究。
1926年才)ルンド大学で講師。カルツァ=クライン理論やクライン-ゴルドン方程式を発表。
1928年(34才)コペンハーゲン大学ボーア研究室の研究員・仁科芳雄さんとクライン=仁科の公式を発表。
1930年(36才)ストックホルム大学で教授(物理学)。
1938年(44才)ドイツから逃れたマイトナーさん(60才)がシーグバーンさんの研究所に入る。ボソン交換モデルを発表。
1939年(45才)WWII
1945年(51才)WWII終戦クラインさんはボーアさんと共にマイトナーさんを45年から48年までノーベル賞に推薦
1946年(52才)オットー・ハーンさんがノーベル化学賞を受賞
1961年(67才)ストックホルム大学を引退、名誉教授。
1977年(83才)死去。

https://en.wikipedia.org/wiki/Oskar_Klein
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3