L・マイトナーさんと同時代の科学者(29) L・シラードさん

▼シラードさんはマイトナーさんととても近い二人のよき人物と関係があった。
M・ラウエさん(9月17日)とJ・フランクさん(9月17日)だ。ラウエさんはシラードさんの指導教員だった。フランクさんは原爆が現実のものになったとき米政府がどのように扱うべきか化学者としての考えをまとめる役割を引き受けそのメンバーにシラードさんがいた。とにかく議論がまとまらない。シラードさんに対してラウエさんは次のように言ったという。「君は私よりcleverかもしれない。だが私の方がwiseだよ」。ここでcleverは論理的な正しさ、wiseは状況を鑑みて言葉を選ぶ知恵、という意味合いだろう。
▼シラードさんはものすごく先読み力が働く人だった。ナチスの危険性にもいち早く気づき、遠ざかっている。
▼ウィグナーさん(10月4日)はシラードさんのよき理解者だった。Wikipediaでシラードさんの記事を読んでいると敬遠したくなる。でもウィグナーさんのように深く温かい言葉で述懐してくれる人を得ていたのはうらやましい。

レオ・シラード Leo Szilard 1898–1964

1898年、ブダペスト生まれ。ユダヤ人。
教育
1908年(10才)技術系高等学校(16年まで)。
1914年(16才)WWI
1916年(18才)王立ヨージェフ工科大学に入学。
1917年(19才)徴兵され士官候補生に(18年まで)。
1918年(20才)WWI終戦
1919年(21才)オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊。半年ほどハンガリー共産党が政権。ハンガリー国新陸軍が政権を打倒。以後、反ユダヤ主義が盛んになる。ハンガリーを脱出。
活動
1920年(22才)ベルリン工科大学に入学。
1921年(23才)ベルリン大学に転学しラウエ先生に博士論文の指導を受ける。
1922年(24才)ベルリン大学で博士。指導教員はラウエ先生
1925年(27才)ラウエ先生の助手。
1927年(29才)ベルリン大学で私講師。マイトナーさんと実験核物理学の研究を模索(実現せず)。
1933年(35才)ナチスが政権を取る。ベルリンを脱出しウィーンへ脱出。
1934年(36才)オックスフォード大学クラレンドン研究所で常勤研究員。
1938年(40才)渡米しそのまま止まる。ハーンさんらの実験結果をマイトナーさんとフェリッシュさんが核分裂と名付けたニュースを知る。核爆弾の実現可能性とナチスに先を越される危機感を持つ。
1939年(41才)WWII。コロンビア大学でシラードさんとフェルミさんがウランの核分裂実験を行い、核爆弾製造の実現可能性を確認。アインシュタインさんと協力して大統領に核爆弾研究の必要を訴える手紙を送る。
1940年(42才)科学研究開発局(V・ブッシュさん委員長)から4万ドルの研究資金がコロンビア大学に出る。
1942年(44才)陸軍が原子爆弾の製造を目標にしたマンハッタン計画がスタート。シカゴ・パイル1号の完成に貢献。言動からマンハッタン計画の中で敵性外国人と見られるようになる。
1945年(47才)WWII終戦
1947年(49才)関心が分子生物学の研究に向かう。シカゴ大学社会科学科でアドバイザー。
1964年(66才)死去。

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