マックス・プランクさんの関係者(4)博士論文の指導を受けた弟子:M・ラウエさん

▼リーゼ・マイトナーさんの歩みをたどるとき、心温まる灯になるのは、今回のラウエさんとJ・フランクさんだ。
人柄も仲も良い3人組。
▼ラウエさんの年表は2020年9月17日のブログにあるので、そちらを参照して頂くとして、今回は師匠・弟子・関係筋を紹介する。
▼師匠について。2人いる。理由は、学位論文の指導教員と大学で講義する資格を取得するときの指導教員がいるから。1900年代のドイツでは博士号の取得と授業の資格がしっかり区分されていた。日本でも博士後期課程の学生の授業には学内審査があり資格が必要である。さらに上位資格は博士論文指導資格。(書いてみて気づいたけど、当時のドイツでは学位論文<講義、日本では講義<学位論文と順序が逆だ)
▼弟子について。日本語・英語ともWikipediaでは2人だった。実際はもっと多いはず。
▼関係筋について。生年順に並べた。オットー・ハーンさんが同じ年生まれ。ほとんどの人がWWIとWWIIを経験している。ヨーロッパ、イギリスの関係が中心。アメリカは少ない。ここからも、WWIIの前まで物理化学の先端研究はヨーロッパとイギリスが進んでいたことが伺える。アメリカがぐっと出てくるのはWWIIが始まってからになる。

マックス・フォン・ラウエ Max von Laue 1879-1960
▼師匠・弟子・関係筋
師匠
■ マックス・プランク Max Planck 1858-1947 関係:ベルリン大学で博士号取得の指導教員。3年間(1906-1909)、助手を務めた。

■ アルノルト・ゾンマーフェルト(12月17日) Arnold Sommerfeld 1868-1951 関係:ミュンヘン大学で大学教員資格の指導教員。3年間(1909-1912)、助手を務めた。

弟子
■ レオ・シラード(10月9日) Leo Szilard 1898–1964 ユダヤ系物理学者。関係:ベルリン大学で論文指導。
□ フリッツ・ロンドン Fritz London 1900-1954 ドイツの物理学者。関係:ベルリン大学で論文指導。論文の共同執筆も行った。

関係筋
■ ヴィルヘルム・レントゲン(9月1日) Wilhelm Röntgen 1845–1923 X線の発見者。関係:WWII終戦後、イングランドでラウエさんが抑留されていたとき、ヘンリー・デール氏から「思い出を講演してもらえないか」という打診があった。ミュンヘン大学時代、二人が同僚だったから。ちなみに、レントゲンさんはフィリップ・レーナルトさんからレーナルト管を貰って実験した。しかし論文に謝辞を書かなかったのでレーナルトさんが怒ったという話が残っている。ラウエさんはレーナルトさんとユダヤ人政策の考え方が正反対。

□ ヴォルデマール・フォークト Woldemar Voigt 1850-1919 結晶学、熱力学、光学。関係:ゴッティンゲン大学で授業を聞いて刺激を受けた。

■ ダフィット・ヒルベルト David Hilbert 1862-1943 現代数学の父。関係:ゴッティンゲン大学で授業を聞いて刺激を受けた。

■ フィリップ・レーナルト(12月14日) Philipp Lenard 1862–1947 「ドイツ物理学」の立場。関係:ユダヤ人政策で考え方が反対。

□ ヴァルター・ネルンスト Walther Nernst 1864–1941 関係:ベルリン大学の同僚。「リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者シリーズ」の30回目でご登場いただく予定。

□ オットー・ルンメル Otto Lummer 1860–1925 ドイツの物理学者。関係:ベルリン大で熱放射と干渉分光学の講義を受けて博士論文の参考にした。

■ フリッツ・ハーバー Fritz Haber 1868-1934 ユダヤ人、化学兵器の父。関係:ベルリン大学の同僚。ハーバー追悼式典へナチスが反対する中で出席。

□ ヨハネス・シュタルク Johannes Stark 1874-1957 「ドイツ物理学」の立場。関係:ユダヤ人政策で考え方が反対。

■ マックス・アブラハム(1月8日) Max Abraham 1875-1922 関係:ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン時代に物理学を学ぶ。

□ ヘンリー・デール Henry Dale 1875-1968 イギリスの脳科学者。関係:WWII終戦後イングランドで抑留されていたラウエさんに講演を打診。

■ リーゼ・マイトナー Lise Meitner 1878-1968 ユダヤ人物理学者。関係:ベルリン大学でプランク先生の講義(1907)で知り合って以来の友人。水曜コロキウムの初回からの常連。

■ オットー・ハーン(1月1日) Otto Hahn 1879-1968 ドイツ人物理学者。

■ アルベルト・アインシュタイン(12月13日) Albert Einstein 1879-1955 関係:ベルリン大学で私講師をやっているとき(1906)に知り合い友達になる。カイザー・ヴィルヘルム物理学研究所で所長を引き継ぐ。

□ ヴァルター・マイスナー Walther Meissner 1882-1974 超伝導。関係:物理技術協会(PTR)でコンサルタントをしているとき知り合う。ラウエさんの伝記の執筆者。

■ ジェイムス・フランク(9月17日) James Franck 1882-1964 ユダヤ人物理学者。関係:ベルリン大学の同僚。

□ ピーター・デバイ Peter William Debye 1884-1966 カイザー・ヴィルヘルム物理学研究所所長。

■ ゲオルク・ド・ヘヴェシー(8月8日) George de Hevesy 1885-1966 ハンガリーの化学者。関係:ナチスから奪われないようにニールス・ボーア研究所が預かっていたラウエさんとフランクさんのノーベル賞の金メダルを王水に溶かして隠した。

□ パウル・エバルト Paul Ewald 1888-1985 X線回折法のパイオニア。関係:博士論文のテーマを聞いてヒントを得た(1912)、これが回折写真の「ラウエ法」に結実する。

■ ヴェルナー・ハイゼンベルク(12月19日) Werner Heisenberg 1901-1976 不確定性原理

□ サミュエル・ゴーズミット Samuel Goudsmit 1902-1978 ドイツ系アメリカ人物理学者。関係:WWIIが終わると核開発に関わったドイツの科学者を拘束するためラウエさんの自宅を訪れてイングランドに連行、抑留。

□ ハインツ・ロンドン Heinz London 1907-1970 フリッツ・ロンドンさんの弟。関係:低温物理学が専門。関係:ラウエさん、フリッツさんと三人で超伝導の論文を共同執筆した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%A8
https://en.wikipedia.org/wiki/Max_von_Laue

L・マイトナーさんと同時代の科学者(19) W・ハイゼンベルクさん

▼「L・マイトナーさんの歩みに影響した人物」は18回で一段落したので、これからはマイトナーさんと直接会ったかどうかは定かでないけれども、同時代を生きた科学者を見てゆく。
▼ハイゼンベルクさんはドイツ人。量子力学の開拓者のひとり。31才でノーベル物理学賞を受賞。ナチスの台頭にもかかわらず、不利な道を選び、実際不利になることがあってもへこたれず、嵐の後の晴天を経験できた才能と運と人に恵まれた理論物理学者。
▼マイトナーさん(1878-1968)との年齢差は23。
▼WWIIの間、ナチスSSからは「白いユダヤ人」と呼ばれ、反ユダヤ主義の物理学者から圧迫された。にもかかわらず、ドイツの原爆開発プロジェクトに組み込まれ、重水製造などを進める。そのため連合国から命を狙われる。資金不足、人材不足のため結果的にナチスが原爆を持つことはできなかった。核分裂はエネルギー確保のために利用するべきで爆弾にするべきではない、という考え方の持ち主。

ウェルナー・ハイゼンベルク Werner Karl Heisenberg 1901-1976
理論物理学者
1901年、ドイツのバイエルン州生まれ。
教育
1914年(13才)WWI
1916年(15才)10代後半はプラトンの『ティマイオス』をネタに友人や先生と哲学対話をする。ピアノ演奏に長じる。
1918年(17才)WWI終戦
1920年(19才)ミュンヘン大学で Arnold Sommerfeld先生と Wilhelm Wien先生に学ぶ。
ゴッチンゲン大学で マックス・ボルン先生に量子力学を、 J・フランク先生(9月17日)に物理を、D・ヒルベルト先生に数学を学ぶ。
1922年(21才)ハイゼンベルクさんの原子物理学への関心を知っていたSommerfeld先生はゴッチンゲンで開催されたニールス・ボーアの講演に参加させる。
1923年(22才)ミュンヘン大学で博士。指導教員は Sommerfeld先生。
1924年(23才)ゴッチンゲン大学で教授資格。指導教員は マックス・ボルン先生.
活動
1924年(23才)ゴッチンゲン大学でポスドク(27年まで)。
ロックフェラー奨学金を得てコペンハーゲン大学理論物理学研究所のボーア先生の元で研究。
1925年(24才)研究結果を論文にして発表。
1926年(25才)コペンハーゲン大学でボーア先生の助手。
1927年(26才)不確定性原理に取り組む。W・パウリ先生に原理を述べた報告を書く。
1928年(27才)ライプニッツ大学の教授(理論物理学)の就任講義を行う。物理学科の学科長を兼任。
1928年(27才)イギリスの数学物理学者Paul Diracさんが positrons陽電子 の概念を提唱。
1932年(31才)ノーベル物理学賞を受賞。James Chadwick さんがニュートロンを発見。アメリカの物理学者 Carl David Anderson さんが霧箱でpositronによる軌跡の写真撮影に成功。
1933年(32才)ナチスが力を持ち始める。反ユダヤ主義の物理学者やSSから「白いユダヤ人」と批判、Sommerfeld先生と共に圧迫を受ける。陽電子とディラクさんの論を発展させ量子力学の元になる論文を2本発表。
1938年(37才)ハーンさん、シュトラスマンさん、マイトナーさん(そしてフェリッシュさん)が核分裂の研究成果を出す。
1939年(38才)渡米しミシガン大学を訪問、 Samuel Goudsmitさんに移民を進められるも断る。WWII
1942年(41才)カイザー・ヴィルヘルム協会の研究所所長、教授になる。ドイツ軍備大臣に45年までに原子爆弾を製造するのは資金・人材不足の理由で困難とレポート。
1943年(42才)ベルリンフンボルト大学の理論物理学部長。ベルリン空爆が激しさを増すので郊外の森やポーランドに避難。
ドイツ軍がコペンハーゲンのN・ボーア研究所を接収。
1945年(44才)WWII終戦
1946年(45才)マックス・プランク物理学研究所の所長(70年まで)。
1953年(52才)欧州原子核研究機構CERNの創設に貢献。
1976年(75才)死去。

https://en.wikipedia.org/wiki/Werner_Heisenberg
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF

L・マイトナーさんの歩みに影響した人物(9) マックス・フォン・ラウエさん

前回からの続き。

28才のマイトナーさんは科学者としてのキャリアを切り拓くため、1907年に、拠点をウィーンからベルリンに移し、マックス・プランク先生に弟子入りする。
以来、1914-18年の第一次世界大戦を挟み、1933年にナチスから逃れるため、ベルリンを脱出するまでマイトナーさんはベルリンで研究生活を過ごす。

ラウエさんのご専門は?
物理学。1914年に、結晶によるX線回折現象の発見の功績でノーベル物理学賞を受賞。

どんな関係?
二人ともマックス・プランク先生の弟子であり、助手。年齢はラウエさんが1つ年下。ベルリン時代、ナチスから逃れてスウェーデンに移った後も情報交換を続けた。

どんな人生?
ナチスに振り回された。ナチスに異論を唱え主張を曲げないために損をすることも多々あった。WWIIの後、マイトナーさんと科学者の責任論で意見が食い違うこともあった。しかし、それで反目しあうこともなかった。敗戦国ドイツの学問の復興に力を注いだ外柔内剛の人。

マックス・テオドール・フェリックス・フォン・ラウエ Max Theodor Felix von Laue 1879- 1960 物理学者。
1879年、ドイツのコプレンツ生まれ。
教育
1898年(19才)高校卒業後、1年間、兵役につく。
1899年(20才)ストラスブルグ大学に入学。数学、物理、化学を学ぶ。ドイツでは他の大学の授業を受けられるので、ゴッチンゲン大学で数学のD・ヒルベルト先生、物理学のヴォルデマール・フォークト先生やマックス・アブラハム先生の影響を受ける。ミュンヘンのルードヴィヒ・マクシミリアン大学 (LMU)では1学期を過ごす。
1902年(23才)ベルリン大学で量子論に革命を起こしたM・プランク先生に師事
1903年(24才)ベルリン大学で博士号。
1903年(24才)ゴッチンゲン大学に所属。05年まで。
1906年(27才)LMUのアルノルト・ゾンマーフェルト先生の下で大学教員資格を取得。
活動
1906年(27才)ベルリン大学で私講師。プランク先生の助手になる(09年まで)。アインシュタインさんと出会って友達になる。
1907年(28才)マイトナーさんがベルリンに来てプランク先生に弟子入りし、友人になる
1909年(30才)LMUの理論物理学研究所でゾンマーフェルト先生の助手(12年まで)。
1911年(32才)X線を結晶に当てて回折写真をとる方法を開発、X線が電磁波だと示した。
1911年(32才)カイザー・ヴィルヘルム学術振興協会(後のマックス・プランク学術振興協会)が創設。
1912年(33才)ゾンマーフェルト先生が物理学会でラウエさんらによるX線回折現象の発見を報告。
1912年(33才)チューリッヒ大学の教授(物理学)。
1913年(34才)父が貴族になったのを機にマックス・フォン・ラウエと名乗る。
1914年(35才)ノーベル物理学賞を受賞。受賞理由は結晶によるX線回折現象の発見。
1914年(35才)カイザー・ヴィルヘルム物理学研究所 (KWIP) がベルリン郊外に創設、アインシュタインさんが所長。
1914年(35才)WWI
1914年(35才)フランクフルト大学の教授(理論物理学)。19年まで。
1916年(37才)ヴュルツブルク大学で軍用の真空管開発に携わる。
1917年(38才)KWIPの理事。22年まで。
1918年(39才)WWI終戦
1919年(40才)ベルリン大学の教授(理論物理学)。43年まで。同僚にハーバーさん、ジェイムス・フランクさんがいた。
1922年(43才)KWIPの副所長。マイトナーさんがベルリン大学の教授マイトナーさんはラウエさん主催の水曜コロキウムに最初から参加
1933年(54才)アインシュタインさんの亡命により、KWIPの所長職の代行や所長を務める。
ナチスと国家社会主義に反対の立場。ユダヤ人のドイツ脱出を援助。
1934年(55才)ナチスの禁止命令に関わらずハーバーさんの追悼式典へ出席。
1938年(59才)マイトナーさんがドイツを脱出
1939年(60才)WWII
1940年(61才)ナチスがデンマークに侵攻。ラウエさんとJ・フランクのノーベル賞の金メダルを預かっていたボーア研究所のヘヴェシーさんがナチスに盗まれないよう王水に溶かし研究室に隠す。
1945年(66才)WWII終戦
1946年(67才)KWIPの所長に復帰。KWIPがマックス・プランク物理学研究所に改称。ゲッティンゲン大学の準教授。
1946年(67才)ヘヴェシーさんがボーア研究所に戻り王水から金を抽出、ノーベル財団が金メダルを作り直して再贈呈。
1951年(72才)マックス・プランク物理化学研究所の所長。フリッツ・ハーバー研究所に改称。
1960年(81才)交通事故の後遺症のため死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%A8
https://en.wikipedia.org/wiki/Max_von_Laue

L・マイトナーさんの歩みに影響した人物(10) ジェイムズ・フランクさん

前回からの続き。
フランクさんはマイトナーさんと20代から共同研究を始め、死ぬまで交流が続く間柄。
マイトナーさんのベルリン時代は次。
1907-12年、ベルリン大学実験物理学研究所時代。この時から共同研究をスタート。
1912-38年、カイザー・ヴィルヘルム研究所時代。
1922-33年、ベルリン大学教授。33年、ナチス政権になり大学の職を追われる。
1934年、フランクさんがベルリンを脱出しアメリカへ。
1938年、マイトナーさんがベルリンを脱出。
・・・

フランクさんのご専門は?
原子や分子で起こるエネルギー変化の専門家。
原子と電子の衝突に関する研究でノーベル物理学賞を受賞した。
アメリカでマンハッタン計画に参加。

どんな関係?
マイトナーさんはフランクさんの4才年上。
同じ専門分野で共同研究相手。1907年からフランクさんはマイトナーさんと共同研究して論文を発表している。
同じユダヤ人でナチスから圧迫された経験を持つ者同士。WWI、WWIIを共に生き延びた仲間。
WWII後のドイツへの対応について見解が共有できる間柄。

どんな人生?
WWIでは勲章をいくつも授与される国への貢献者。しかしWWIIではナチス政権から迫害を受ける対象となる。渡米し、ナチスを倒しドイツを解放するためマンハッタン計画に参加、原爆に必要なプルトニウム生産に携わる。原爆の使い方について同じ考え方の科学者と共同して政府に提言するも採用されず。

ジェイムズ・フランク James Franck 1882-1964 物理学者

1882年、ドイツのハンブルグ生まれ。父親はユダヤ人の銀行家。
教育
1891年(9才)ウィルヘルム・ギムナジウムに入学。
1901年(19才)法学を学ぶためハイデルベルク大学に入学。科学の面白さに気づく。同級生のマックス・ボルンさんと友人になる。ボルンの助けもあり両親に専門を物理と化学に変更を許してもらう。
ハイデルベルク大学よりも物理や数学に強いベルリン大学に転学。マックス・プランク先生や Emil Warburg先生の講義に出席。
1906年(24才)ベルリン大学でDir. Phil. 指導教員は Emil Warburg先生。
1906年(24才)兵役につく。第一電信大隊。訓練中落馬事故を起こし退役。
活動
1907年(25才)フランクフルトの物理研究所でアシスタントを務めた後ベルリン大学に戻る。
ベルリン大学で大学教授資格を取るため研究と論文発表に集中。マイトナーさんと共同研究を行う。
1914年までに34本の論文を発表。その中にマイトナーさんとの共著論文がある。
1911年(29才)大学教授資格を得る。
1912年(30才)グスタフ・ヘルツさんと「フランク=ヘルツの実験」(14年まで)。原子に電子を照射する実験を行う。
1914年(32才)WWI。軍の招集で西部戦線に送られ副官として従軍。
1915年(33才)中尉になる。ハーバーさんの毒ガス開発プロジェクトに転任。O・ハーンさんと共に攻撃地を発見する任務を行い、勲章をもらう。
1916年(34才)ハンブルグ市から勲章をもらう。 胸膜炎で入院中も論文を執筆。ベルリン大学の assistant professor の指名を受ける。
1918年(36才)ロシア戦線に配属された後、赤痢になったため、毒ガス開発プロジェクトに戻りヘルツさんや若手研究者とガスマスクの開発に従事。勲章をもらい退役。
1918年(36才)WWI終戦
1918年(36才)カイザー・ヴィルヘルム研究所で研究活動を継続、活発に行う。
1920年(38才)ニールス・ボーアさんのベルリン来訪に合わせ、マイトナーさんと共同して研究所でボーアを囲む情報交換会を行う。
ボルンさんの誘いでゴッチンゲン大学の教授(実験物理)、第二実験物理学研究所の所長。世界有数の研究拠点にする(33年まで)。
1925年(43才)ヘルツさんと共にノーベル物理学賞を受賞。原子と電子の衝突に関する研究。
1933年(51才)ナチスが政権を取り、公職からユダヤ人を追放する法律が制定される。フランクさんは反対の声を上げる第一号になる。しかし政府も大学も動かなかった。
1934年(52才)ドイツを出てコペンハーゲンのニールス・ボーア研究所へ。
1935年(53才)渡米し、ジョンズ・ホプキンス大学の教授。予算が少なくスタッフを雇えない、ドイツにいる家族を呼び寄せられない。
1938年(56才)条件が良いシカゴ大学の教授に。結晶中の光化学を専門とするエドワード・テラーさんと最初の共著論文を発表。
1939年(57才)WWII
1942年(60才)マンハッタン計画に協力するためシカゴ大学が冶金研究所を新設。ドイツを台無しにするナチスを倒すため化学部門を率いる。原子爆弾のためのプルトニウムの製造が目的。
1941年(59才)アメリカ市民になる。
1945年(63才)WWII終戦
1946年(64才)妻が死去。化学者と再婚。マイトナーさんとの交流は続く。
1964年(82才)死去。

https://en.wikipedia.org/wiki/James_Franck
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF

ガリウムGa・サマリウムSm・ジスプロシウムDyの発見者 P・ボアボードランさん

コニャック製造を営む家に生まれる。家業を継いだ時期もあったようだが本質は実験物理化学者だ。キルヒホッフさんとブンゼンさんが分光手法を始めたという話に興味を持ち、同じ年のうちにマイ実験室を作って研究を始めている。それが21才の話。それから15年後に自分の手で分光学の専門書を出版している。時間がかかっても手がけたことを形にするまで続ける力がすごい。▼34才の時、メンデレーエフさんが周期表を発表する。それから3年後、メンデレーエフさんが予言したとおりガリウムを発見する。このときの手法が分光法。▼ガリウムの発見は、周期表と分光法をボアボードランさんが「新結合」した成果だ。新結合とは、すでにあるものを結合させて新しい価値を生み出すやり方。

ポール・ボアボードラン Paul Emile Lecoq de Boisbaudran 1838-1912
フランスの物理化学者。
1838年、フランスのコニャックで生まれる。実家はコニャックの酒造所。
1859年(21才)キルヒホフさん(7月10日)とブンゼンさん(7月9日)が分光学の研究を始める。パリで小さな私設実験室を作って分光実験を行う。
教育
1866年(28才)エコール・ポリテクニークで物理と化学を学ぶ。
活動
1872年(34才)メンデレーエフさん(8月31日)が周期表を元に「未知の元素」としてガリウムなどの存在を予言。
1874年(36才)分光学の研究書を発行。
1875年(37才)分光学の手法を使いメンデレーエフさんの予言通りガリウムGaを発見。周期表が評価されるきっかけとなる。フランスのラテン名ガリア Gallia にちなんで命名。
1880年(42才)サマリウムSm発見。名称はサマルスキー石から発見されたことに由来。
1886年(48才)ジスプロシウムDy発見。分離抽出するまでおそろしく手間がかかったため、ギリシア語の「近づき難い」を意味するdysprositosから命名。
1912年(74才)死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%82%A2%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3#:~:text=%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%82%A2%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3%EF%BC%88%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB,%E3%81%AF%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%8C%96%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%80%82
https://fr.wikipedia.org/wiki/Paul-%C3%89mile_Lecoq_de_Boisbaudran

ネプツニウムNpの発見者 P・アベルソンさん

優れた先生の影響と自分の関心分野を組み合わせて、高校~大学院時代で自分の専門を見つけ出した。高校時代は、化学に熱心な教師の影響で化学に興味を持つ。大学時代は、物理の教え方がうまい先生の影響で物理にも興味を持つ。大学の機械実験室で機械に親しむ。博士課程はサイクロトロンを発明したローレンス先生の下で修業。▼27才のとき、サイクロトロンを使った実験でマクミランさんと共にネプツニウムの発見者になる。WWIIから核エネルギーの軍事利用に関わり、核爆弾製造のカギになる技術を発明する。原子力潜水艦の構想を立てノーチラス号として現実化する。

フィリップ・ホーグ・アベルソン Philip Hauge Abelson 1913-2004
核物理学者。

1913年、ワシントン州タコマの生まれ。父は技術者。
教育
高校時代から熱心な化学教師の影響で化学に興味を持つ。
ワシントン州立大学で化学の学士号。大学の機械実験室で多くの機械に触れる。
ワシントン州立大学で物理学の修士号。
1935年(22才)E・ローレンスさんの講義を聞いてカリフォルニア大学バークレー校に入学。
活動
PhD(核物理学)を取得後、ローレンス先生の下で核分裂の研究を続ける。
1939年(26才)ワシントンDCのカーネギー研究所で物理学助手を務める。
1939年(26才)WWII
1940年(27才)マクラミンさんと共同でネプツニウムを発見
1941年(28才)カーネギー研究所を退任。海軍研究所に入り同位体の拡散分離法を発明。核爆弾製造上の重要な技術となる。
1945年(32才)WWII終戦
1946年(33才)カーネギー研究所に復帰。原子力エネルギーの潜水艦への応用を研究。
1953年(40才)カーネギー地球物理学研究所の理事。
1958年(45才)世界初の原子力潜水艦ノーチラス号(1980年退役)で実現。
1962年(49才)サイエンス誌の編集委員(84年まで)。
1971年(58才)カーネギー地球物理学研究所の代表。
1978年(65才)カーネギー地球物理学研究所の評議員。
科学ライターとして活躍。名言「並外れた主張には並外れた証拠が必要 extraordinary claims require extraordinary evidence」
2004年(91才)死去。

https://en.wikipedia.org/wiki/Philip_Abelson
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%B3

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%A9%E3%82%B9_(%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E6%BD%9C%E6%B0%B4%E8%89%A6)

インジウムInの発見者 F・ライヒさんとH・リヒターさん

25才違いのコンビネーションによる快挙。ライヒさんは視覚障害のため色の判別ができなかった。その弱みをリヒターさんがカバーするという役割分担。インジウムのスペクトルは鮮やかなインディゴ・ブルーを示すことから名付けられた。役割分担の勝利! 発見時の二人の喜びはさぞや、と思われる。

▼フェルディナント・ライヒ Ferdinand Reich 1799-1882 ドイツの化学者

1799年、ドイツのベルンブルク生まれ。
視覚障害(色盲もしくは白黒の判別だけ)があったので、リヒターさんと共同研究していた。
リヒターさんの役割は、実験で得た物質の色の確認だった。

発見
1863年(64才)フラインベルグ鉱山大学でリヒターさんと共にインジウムの単離に成功。

▼テオドール・リヒター Hieronymus Theodor Richter 1824-1898 ドイツの鉱物学者、化学者

1824年、ドイツのドレスデン生まれ。
1843年(19才)フライベルク鉱山大学で学ぶ。
1863年(39才)フライベルク鉱山大学の教授。
1875-96年(51-72才)フライベルク鉱山大学の学長。

発見
1863年(39才)F・ライヒさんと共同で亜鉛鉱石からインジウムの単離に成功。インジウムを発見。

名前の由来
鮮やかな濃い藍色(indigo)の発光スペクトルを示すことから。

https://en.wikipedia.org/wiki/Ferdinand_Reich
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%92
https://en.wikipedia.org/wiki/Hieronymous_Theodor_Richter