リーゼ・マイトナーさんとキャヴェンディッシュ研究所の神々(13) 原子力エネルギーの社会実装を進めた:J・コッククロフトさん

▼初めて人工的に加速した陽子で原子核を破壊した物理学者。粒子の加速装置を建造するにあたり、イギリスとアメリカで経済力の差を目の当たりにした科学者のひとり。
▼WWII終戦後、マンハッタン計画のためにアメリカにいたリーゼ・マイトナーさんの甥のオットー・フリッシュさんにイギリスでの仕事を紹介した人。

ジョン・コッククロフト John Douglas Cockcroft 1897-1967 物理学者
1897年、イギリスのヨークシャー州生まれ。父は工場経営者。
教育
1901年(4才)Church of England school in Walsden(1908年まで)
1908年(11才)Todmorden Elementary School(1909年まで)
1909年(12才)Todmorden Secondary School(1914年まで)。Footballとcricketを楽しむ。
1914年(17才)WWI。奨学金を得て Victoria University of Manchesterに入学、数学を学ぶ。
1915年(18才)士官訓練部隊に入る。
1916年(19才)英国砲兵隊に入隊、信号手として訓練を受けた後、西部戦線に配属。ドイツ軍が築いたヒンデンブルク線の攻略作戦や第3イープル作戦(ドイツ軍が連合軍に対してマスタードガスを使用)に参加。
1918年(21才)志願して砲術訓練を受け英国砲兵隊の中尉になる。WWI終戦
1919年(22才)除隊。Victoria University of Manchesterに戻らず、電気工学を学ぶためManchester Municipal College of Technologyに入る。
1920年(23才)Manchester Municipal College of TechnologyでBSc。Metropolitan Vickers教授からMetropolitan Vickers社でのインターンシップを紹介され参加。
1922年(25才)Manchester Municipal College of TechnologyでMSc。”Harmonic Analysis for Alternating Currents”
1924年(27才)St. John’s College, CambridgeでBA。
1924年(27才)キャベンディッシュ研究所のラザフォード先生のもとで博士学生として研究。
1925年(28才)ケンブリッジ大学でPhD。”On phenomena occurring in the condensation of molecular streams on surfaces”
活動
1928年(31才)結婚。St. John’s Collegeのフェロー。アーネスト・ウォルトン氏と陽子の加速実験を開始。
1929年(32才)St John’s CollegeでSupervisor(機械科学)。
1932年(35才)コッククロフト・ウォルトン回路でリチウムに陽子を衝突させて原子核の変換に成功。元素を人工的に別の元素に変換させた最初の実験
1935年(38才)ラザフォード先生の指名でMond Laboratory の研究ディレクター。
1936年(39才)王立協会フェロー
1938年(41才)英国版サイクロトロンをキャベンディッシュ研究所に建設。
1939年(42才)WWII。英国供給省で科学研究のアシスタント・ディレクタとしてレーダーの研究。 Jacksonian Professor (自然哲学)。
1940年(43才)MAUD委員会の委員。英国はサイエンスでは米国より先んじていたものの経済力・産業力で米国の援助を必要としていたため、弱点を補完するTizard Missionのメンバーとして渡米。近接信管、ロケット、過給機、照準装置、潜水艦発見装置そして原子爆弾に関する情報を持ち帰る。ハンプシャーのAir Defence Research Development Establishment (ADRDE) の監督官。GL Mk. III レーダーを開発。
1942年(45才)米国では追尾型SCR-584 レーダーを開発、実戦配備。輸入してテストすると GL Mk. IIIレーダーより優秀だったため供給省ががっかりする。 Lend-Lease法に基づいてSCR-584の輸入を政府に進言し、ドイツから飛来するV1ロケットの対策に備えた。
1944年(47才)マンハッタン計画の一環でカナダのモントリオール研究所、チョーク・リバー研究所で所長
1945年(48才)WWII終戦。 チョークリバー研究所を離れられないため、オックスフォードのハーウェルで始まっている原子力エネルギー研究所Atomic Energy Research Establishment (AERE)の準備に行けない。そこでオットー・フリッシュさんらに準備を依頼。
1946年(49才)イギリスに戻りAEREの初代所長。
1951年(54才)ノーベル物理学賞(加速荷電粒子による原子核変換の研究)。ウォルトン氏と共同受賞。
1954年(57才)ロイヤル・メダル受賞。
1958年(61才)英米間で 1958 US–UK Mutual Defence Agreementが締結。
1959年(62才)ケンブリッジ大学チャーチル・カレッジ学長。
1961年(64才)オーストラリア国立大学総長(併任)
1967年(70才)心臓発作のためケンブリッジで死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%95%E3%83%88#:~:text=%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%95%E3%83%88%EF%BC%88Sir,%E3%81%AE%E7%89%A9%E7%90%86%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82
https://en.wikipedia.org/wiki/John_Cockcroft

リーゼ・マイトナーさんとキャヴェンディッシュ研究所の神々(12) 霧箱を使って電子に正と負があることを写真撮影して証明した物理学者:P・ブラケットさん

▼ブラケットさんは、大学生の時期とWWIのタイミングが同じになったため海軍入り。巡洋艦、駆逐艦、戦艦の3タイプの軍艦乗務を経験する。技術将校として数学と物理学の力不足を感じたのが戦後すぐ大学に進んだ動機である。
▼霧箱で電荷が正と負の電子が同時に出現した写真を撮るなど、原子の理解を推し進めた実験物理学者。
1933年、リーゼ・マイトナーさんの甥のオットー・フリッシュさんをイギリスに迎える手配をした。この時期はリーゼ・マイトナーさんはまだベルリンにいてナチス政権の圧迫感を感じながらオットー・ハーンさん(8月24日)やフリッツ・シュトラスマンさん(9月12日)と放射性物質を相手に実験を繰り返していたころ。WWIIが始まるとイギリスの原子爆弾製造計画MAUD委員会のメンバーを1年務めた。

パトリック・メイナード・ステュアート・ブラケット Patrick Maynard Stuart Blackett 1897–1974 物理学者
1897年、ロンドンのケンジントン生まれ。父は株式仲買人。
教育
preparatory schoolで2年過ごす。趣味は模型飛行機と鉱石ラジオ。
1914年(17才)WWI。海軍士官候補生になる。巡洋艦 HMS Carnarvon に乗務、フォークランド沖海戦に参戦。戦艦 HMS Barhamに乗務、ユトランド沖海戦に参戦。HMS Barhamで砲術装置の共同発明者になる。
1917年(20才)駆逐艦 HMS Sturgeonに乗務。
1918年(21才)中尉になる。WWI終戦
1919年(22才)除隊し数学と物理を学ぶためケンブリッジ大学マグダレン・カレッジに入学。
1921年(24才)ケンブリッジ大学マグダレン・カレッジを卒業。
活動
1921年(24才)キャヴェンディッシュ研究所でラザフォード先生の元で実験物理学の修業を開始。
1923年(26才)ケンブリッジ大学キングス・カレッジのフェロー(1933年まで)。
1924年(27才)ドイツのゴッチンゲン大学でJ・フランク先生と原子スペクトルの研究(1925年まで)。
1925年(28才)ラザフォード先生から与えられた課題で人工的な核変換実験を霧箱写真に収め発表。
1933年(36才)ロンドン大学バークベック校で教授(物理学)(4年間)。
1937年(40才)マンチェスター大学で教授。王立協会のフェロー。
1939年(42才)WWII。オペレーションズリサーチの視点から軍の作戦行動にアドバイス。
1940年(43才)MAUD委員会のメンバー(1941年まで)。ロイヤル・メダル受賞。
1945年(48才)WWII終戦
1948年(51才)ノーベル物理学賞(ウィルソンの霧箱による原子核物理学および宇宙線の分野における発見)
1953年(56才)インペリアル・カレッジ・ロンドンの物理学部長(1963年まで)。
1956年(59才)コプリ・メダルを受賞。
1965年(68才)王立協会の会長。
1969年(72才)男爵になる。
1974年(77才)死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88
https://en.wikipedia.org/wiki/Patrick_Blackett

リーゼ・マイトナーさんとキャヴェンディッシュ研究所の神々(11)直進する電波が丸い地球でも遠くに届く理由は電離層と証明した:E・アップルトンさん

▼アップルトンさんはBBC放送との共同研究で電離層の存在を証明した人物。電波を使って大気の研究をしたので、蓄積された知見はWWIIでレーダー開発に役立った。
▼アップルトンさんとリーゼ・マイトナーさんは4才違い。共にWWIとWWIIも経験した物理学者。WWIIで核物理学は原爆に、電波研究は軍用レーダーになった。

エドワード・アップルトン Edward Victor Appleton 1892-1965 物理学者
1892年、イングランドのブラッドフォード生まれ。
教育
ハンソン・グラマースクール。
ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジ
1909年(17才)ブラッドフォード大学研究所の技術者(1911年まで)
1911年(19才)奨学金を得てケンブリッジ大学セントジョンズカレッジに入学。
1913年(21才)セントジョンズカレッジでB.A.(Natural Science)。JJトムソン先生とラザフォード先生の指導を受ける。
1914年(22才)WWI。デューク・ウェリントン連隊に入隊。後に技術将校になって活発に貢献。
1918年(26才)WWI終戦。ケンブリッジ大学に戻り電波の研究を開始。
活動
1919年(27才)大気物理学を電波を使って研究する。
1920年(28才)キャベンディッシュ研究所で実験物理学のデモ助手。
1922年(30才)トリニティカレッジの副長になる。フリーメーソンに入る。sub-rector at Trinity College
1924年(32才)キングスカレッジ・ロンドンで教授(物理学)(1936年まで)。BBCと共同して電離層の存在を証明、電離層までの距離を測定。地表100kmにケネリー・ヘビサイド層(E層)を確認。この時に得た知見がWWIIのレーダー開発の基礎になる。
1926年(34才)地表2~300kmに電離層アップルトン層(F層)を確認。
1927年(35才)王立協会フェロー
1936年(44才)ケンブリッジ大学で教授(物理学)(1939年まで)。
1939年(47才)WWII。英国科学工学研究省で物理化学担当官(1949年まで)
1941年(49才)ナイトになる。
1945年(53才)WWII終戦
1947年(55才)ノーベル物理学賞(上層大気の物理的研究、特にアップルトン層の発見)。レーダーの開発に寄与。
1948年(56才)エディンバラ大学で学長と副学長(1965年まで)。
1950年(58才)ロイヤル・メダル受賞。
1965年(73才)死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B3
https://www.nobelprize.org/physics/laureates/1947/index.html

リーゼ・マイトナーさんとキャヴェンディッシュ研究所の神々(10)電子の粒子性と波動性を親子で発見、息子の:G・トムソンさん

▼父のJJトムソン先生(11月13日)が電子の粒子性を発見、息子のジョージさんが波動性を発見。親子でノーベル賞を受賞。
▼第二次大戦初期、核分裂を応用した原子爆弾の実現可能性についての研究はイギリスがアメリカをリードしていた。この時期、リーゼ・マイトナーさんはヨーロッパにいた。甥のフリッシュさん(9月18日)はバーミンガムにいて物理学者仲間と共同して原爆の実現可能性を指摘した報告書を英国政府に提出。MAUD委員会が設けられ、トムソンさんはその委員長。
▼MAUD報告書を作成したのはチャドウィックさん(11月21日)。その報告書がアメリカに行ってマンハッタン計画になる。チャドウィックさんはイギリス科学者チームの代表として奮闘。WWIIの後、イギリスとアメリカの国力の差が出てくる。

ジョージ・パジェット・トムソン George Paget Thomson 1892–1975 物理学者
1892年、ケンブリッジ生まれ。父はJJ・トムソンさん。
教育
The Perse Schoolで教育を受ける。
1906年(14才)父がノーベル物理学賞を受賞(気体の電気伝導に関する理論および実験的研究)。
ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学。数学と物理学を学ぶ。
1914年(22才)WWI。英国軍(当時の名前はQueen’s Royal West Surrey Regiment)に入隊。フランスで軍務につく。
1915年(23才)空軍(Royal Flying Corps)に配属。ファーンボロー空軍基地で戦闘機の空力面を担当。
1918年(26才)WWI終戦
1920年(28才)空軍将校に任ぜられる。
活動
ケンブリッジ大学のフェロー。アバディーン大学に移籍。
1924年(32才)結婚。
1927年(35才)電子の波動性を証明。
1929年(37才)米コーネル大学で非常勤講師。
1930年(38才)インペリアル・カレッジ・ロンドンで教授(Hugh Longbourne Callendar先生の後任)。王立協会フェロー。
1937年(45才)ノーベル物理学賞をクリントン・デイヴィソン氏と共同受賞(結晶による電子線回折現象の発見)。
1939年(47才)WWII
1940年(48才)MAUD委員会の委員長(1941年まで)。原子核物理の軍事利用の研究。父が死去。
1943年(51才)ナイトになる。
1945年(53才)WWII終戦
1949年(57才)王立協会が応用科学の分野で顕著な貢献をした科学者に贈るロイヤル・メダルを受賞。
1952年(60才)インペリアル・カレッジ・ロンドンを退任。コーパス・クライスト・カレッジの学長。
1975年(83才)死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%A0%E3%82%BD%E3%83%B3
https://en.wikipedia.org/wiki/George_Paget_Thomson

リーゼ・マイトナーさんとキャヴェンディッシュ研究所の神々(9) 中性子の発見者、原爆計画のキーパーソン:J・チャドウィックさん

▼チャドウィックさんは研究者仲間のリーゼ・マイトナーさんからポロニウムを貰い、中性子を発見してノーベル物理学賞を受賞する。リーゼ・マイトナーさんの甥のオットー・フリッシュさんもチャドウィックさんとリバプールとロスアラモスで同業者として仕事をする。
▼「物理学者、科学者外交官、善良、賢明、人情のある男 a physicist, a scientist-diplomat, and a good, wise, and humane manと言われる人生を送った人。マンハッタン計画にイギリス代表として関わり、「自分の発見が人の運命にどんな結果をもたらすのかを見た初めての人物 never before in history had any man lived to see his own discovery materialize itself with such telling effect on the destiny of man」と評された。

ジェームズ・チャドウィック James Chadwick 1891-1974
1891年、イングランド北部のチェシャー州生まれ。父は紡績職人。
教育
1895年(4才)両親がマンチェスターに転居。
Central Grammar School for Boysに通う。
1908年(17才)奨学金を得てマンチェスター・ビクトリア大学に入学。ラザフォード先生(11月14日)の指導を受ける。
1911年(20才)マンチェスター・ビクトリア大学を優等成績で卒業。
1912年(21才)マンチェスター・ビクトリア大学で修士(理学)(指導教員はラザフォード先生)。Beyer Fellowになる。最初の論文を発表(ラザフォード先生との共著)。
1913年(22才)奨学金を得てベルリンに行きPhysikalisch-Technische Reichsanstaltのハンス・ガイガーさんのもとでベータ線の研究。
1914年(23才)WWI。ドイツのルーレーベン収容所に抑留。実験室を作り研究を続行。
リンのイオン化実験、一酸化炭素と塩素の光化学反応を研究。
1918年(27才)WWI終戦。釈放されマンチェスターに戻る。ラザフォード先生の推薦でマンチェスター大学で非常勤講師。
1919年(28才)ラザフォード先生がキャベンディッシュ研究所の所長に就任、スタッフとして加わる。
1920年(29才)奨学金を得てケンブリッジ大学ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジの博士課程に入学。
1921年(30才)ケンブリッジ大学ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジでDoctor of Philosophy(指導教員はキャベンディッシュ研究所のラザフォード先生)。フェローになる。
活動
1921年(30才)キャベンディッシュ研究所でラザフォード先生の助手
1925年(34才)結婚。
1928年(37才)ケンブリッジで開かれたベータ粒子とガンマ線会議でガイガー先生と再会。ガイガーミュラーカウンターを見せてもらう。リーゼ・マイトナーさんがドイツから約2ミリキュリー(約0.5 µg)のポロニウムを実験のために送ってくれる
1932年(41才)中性子を発見。ネイチャーに”Possible Existence of a Neutron”(中性子の存在可能性)を送付、”The Existence of a Neutron”(中性子の存在)を王立協会紀要に送る。
1935年(44才)リヴァプール大学で教授(物理学)。サイクロトロン建造計画に着手。ノーベル物理学賞を受賞(中性子の発見による)。
1939年(48才)WWII。リヴァプール大学サイクロトロン完成。リーゼ・マイトナーさんと甥のオットー・フリッシュさんが核分裂の概念を発表。スウェーデンの田舎で家族と休暇中にWWIIが起こったのでWWIの時のように収容所に入ることになっては大変とすぐリヴァプールに戻る。科学技術研究庁のエドワード・アップルトン大臣から原子爆弾の実現可能性を尋ねられ調査開始。
1940年(49才)フリッシュさんとルドルフ・パイエルスさんがウラン235を使用する原爆の実現可能性を論文にする。
1941年(50才)空中戦科学調査委員会(CSSAW)の小委員会としてMAUD委員会が設置される。MAUD報告を執筆。V・ブッシュさんが受け取りルーズベルト大統領と相談しマンハッタン計画へ進む。マンハッタン計画にイギリスチームの長として参加。
1943年(52才)英米カナダが連携を組むケベック協定が発効、マンハッタン計画の実現体制ができる。マンハッタン計画の指導者レズリー・グローヴス少将と緊密に計画を実行。オーク・リッジの施設を見てイギリスでは原爆製造は実現不可能だったと悟る。
1944年(53才)ロスアラモスに一家で転居、マンハッタン計画の実現に尽力。
1945年(54才)トリニティ実験に出席。WWII終戦。ナイトになる。ワシントンDCに一家で転居。
1946年(55才)イギリスに戻る。原子力諮問委員会(ACAE)の委員、国連原子力委員会のイギリス科学顧問になる。
1948年(57才)ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジの学寮長になる。
1950年(59才)コプリ・メダルを受賞。
1956年(65才)ニュートリノが観測。
1959年(68才)ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジの学寮長を退職。
1974年(83才)死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AF
https://en.wikipedia.org/wiki/James_Chadwick

リーゼ・マイトナーさんとキャヴェンディッシュ研究所の神々(8)金属の温度が高くなると出てくる電子の量が増えることを理論的に説明した:O・リチャードソンさん

▼リーゼ・マイトナーさんと1つ違いの物理学者。研究対象は、thermionics(熱イオン), photoelectric effects(光電効果), magnetism(磁気), the emission of electrons by chemical action(化学変化による電子の放出), the theory of electrons(電子の理論), the quantum theory(量子の理論), the spectrum of molecular hydrogen(水素分子のスペクトル), soft X-rays(軟X線)ほか。
▼エジソンが白熱電球を追求していたときに発見した「エジソン効果」をリチャードソンさんが理論的に説明し、真空管発達の入口を作った。

オーエン・リチャードソン Owen Willans Richardson 1879-1959 物理学者
1879年、英国ークシャー生まれ。
教育
Batley Grammar School
1897年(18才)ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジ
1900年(21才)ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ卒業。キャベンディッシュ研究所で、熱された物質から電気が放射される研究を開始(1906年まで)。
活動
1902年(23才)トリニティ・カレッジのフェローになる。
1906年(27才)結婚。プリンストン大学で教授(1913年まで)。熱電子の放射、光電作用、磁気回転効果について研究。
1913年(34才)王立協会フェロー。
1914年(35才)WWI。英国に戻りKing’s College in the University of Londonで物理学のWheatstone Professor。 ”The Electron Theory of Matter”を出版。
1916年(37才)”The Emission of Electricity from Hot Bodies”を出版。
1918年(39才)WWI終戦
1921年(42才)英国協会British Associationの会長。
1926年(47才)ロンドン物理学協会の会長(1944年まで)
1928年(49才)ノーベル物理学賞を受賞。受賞理由は、熱電子の研究およびリチャードソン効果の発見の功績による。
1934年(55才)”Molecular Hydrogen and its Spectrum”を出版。
1939年(60才)WWII。ナイトになる。
1945年(66才)WWII終戦。最初の夫人が死去。
1948年(69才)再婚。
1959年(80才)死去。

https://en.wikipedia.org/wiki/Owen_Willans_Richardson
https://www.nobelprize.org/prizes/physics/1928/richardson/biographical/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%BD%E3%83%B3#:~:text=%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%BD%E3%83%B3%EF%BC%88Owen%20Willans,%E3%82%92%E5%8F%97%E8%B3%9E%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%82

リーゼ・マイトナーさんとキャヴェンディッシュ研究所の神々(7)大空に浮かぶ雲を実験室で再現する夢が霧箱に結実:C・ウィルソンさん

▼ウィルソンさんは粒子が飛んだ軌跡の写真で有名な霧箱の発明者。なぜ霧箱を作りたいと思ったか。それはウィルソンさんが高い山にある観測所で見る後光が差す雲の美しさに魅了され、実験室で再現したいと思ったから。
▼霧箱を発表したとき、粒子の軌跡の写真のインパクトが大きく大反響を呼ぶ。反響が収まった後、そのまま時が流れる。しかし、放射性物質の研究と同時並行で霧箱がなくてはならない実験装置、測定装置として真価が認められノーベル物理学賞の受賞となる。
▼リーゼ・マイトナーさんの分野の研究者の間では特に重宝される。

チャールズ・トムソン・リーズ・ウィルソン  Charles Thomson Rees  Wilson 1869-1959 物理学者
1869年、スコットランドのエディンバラ生まれ。父は牧羊家。母の実家は製糸業経営。
教育
1873年(4才)父が死去。母とマンチェスターに移り教育を受ける。
義理の兄の学費援助を受けて Owens College(現マンチェスター大学)に入学。最初は医師を目指す。物理学のバルファー・スチュアート教授の影響を受け方向転換。
1887年(18才)Owens CollegeでBSc。
1888年(19才)奨学金を得てケンブリッジ大学シドニー・サセックス・カレッジに転学。物理学と化学を学ぶ。
1892年(23才)ケンブリッジ大学を優等成績で卒業。
活動
1893年(24才)気象学に興味を持ち雲の性質の研究を開始。山で観測する雲の状態を実験室で再現したいと考える。
1894年(25才)奨学金を得てクラーク・マクスウェル研究所で研究(3年間)。9月、スコットランド最高峰のベン・ネヴィスサンチュの天文台で数週間を過ごす。雲が日光に当たってできる美しい自然現象に心を打たれ、同じ自然現象を実験室で再現したいと思った
1895年(26才)キャベディッシュ研究所でJJトムソン先生(11月13日)の助手。人工的に雲を発生させる研究、霧箱Cloud Chamberの開発研究に着手。
1897年(28才)気象協会で大気中の電気現象の研究(1年間)。雲の発生原因について、当時「空中に浮遊する塵」説と「イオン」説があった。塵説は排除できたものの、イオンがなぜ生じるか不明。
1900年(31才)ケンブリッジ大学シドニー・サセックス・カレッジでフェロー、同大学で講師。
1904年(35才)空気中にイオンが発生する理由が不明のまま、霧箱実験を終了。
1908年(39才)結婚。
1910年(41才)イオンを可視化する研究を開始。
1911年(42才)霧箱を用いて世界で初めてα粒子とβ粒子の飛跡の写真撮影に成功。
1913年(44才)太陽物理観察所のオブザーバー。霧箱によるイオン化粒子の研究とカミナリ電気を研究。
1914年(45才)WWI
1918年(49才)WWI終戦。ケンブリッジ大学で講師(気象電気学)。それまでキャベンディッシュ研究所で応用物理学講座の責任者、講義(光学)を担当。
1927年(58才)物理学者のアーサー・コンプトンさん(10月8日)とノーベル物理学賞を共同受賞。理由:蒸気の凝縮により荷電粒子の飛跡を観察できるようにする方法(霧箱)の研究。
1936年(67才)物理学者のカール・アンダーソンさんが霧箱で宇宙線の軌跡を観測中にポール・ディラックさん(10月3日)が存在を予言していた陽電子電子を発見。ノーベル物理学賞を受賞。
1939年(70才)WWII
1948年(79才)物理学者のパトリック・ブラケットさんがノーベル物理学賞を受賞。理由は霧箱による原子核物理学および宇宙線の分野における発見。
1956年(87才)雷雲の電気に関する論文を発表。
1959年(90才)死去。WWII終戦

https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Thomson_Rees_Wilson
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%A0%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%B3

リーゼ・マイトナーさんとキャヴェンディッシュ研究所の神々(6)自作の質量分析器で212もの天然同位体を見つけた:F・アストンさん

▼よく遊びよく学ぶを地で行った科学者。研究では、質量分析器の功績でノーベル化学賞を受賞。スポーツと音楽好き。時間配分がめちゃ上手。まるで人間タイムシェアリング。
▼前回のバークラさんと同じ年生まれ、だからリーゼ・マイトナーさんとは一つ違い。バークラさんは聖歌隊で歌いたいあまりトリニティカレッジからキングスカレッジに移ったし、アストンさんはケンブリッジでコンサートにレギュラー出演(バイオリンかチェロ)していた。

フランシス・ウィリアム・アストン Francis William Aston 1877-1945 化学者・物理学者
1877年、英国バーミンガム生まれ。
教育
Harborne Vicarage 学校で学ぶ。ピアノ、バイオリン、チェロを習う。ケンブリッジではオーケストラのメンバーになり演奏会に出る。
1893年(16才)Masonカレッジ(後にバーミンガム大学に統合)で学ぶ。指導教員は John Henry Poynting先生。
1896年(19才)父の個人実験室で有機化学を研究。
1898年(21才)奨学金を得て酒石酸を研究。
1900年(23才)バーミンガムの醸造学校で発酵化学を学んだ後、W. Butler & Co. Brewery醸造所の現場で働く(1903年まで)。
1902年(25才)自分で発明したカーレース用の車両にエンジンを作って搭載。
1903年(26才)アイルランドで開催されたレース Gordon Bennett auto raceに参戦。
活動
1903年(26才)バーミンガム大学に戻りPoynting先生の助手になる。
1908年(31才)父が死去。世界旅行に出る。
1909年(32才)バーミンガム大学で講師。
1910年(33才)JJトムソン先生(11月13日)の招きでキャベンディッシュ研究所に移籍。バーミンガム大学からBSc in Applied/Pure Scienceを得る。
1914年(37才)WWI。バーミンガム大学からDSc in Applied/Pure Scienceを得る。
戦時中は英国王立航空研究所で航空機塗料の開発に従事。戦争期間中は好きなクロスカントリースキーやスケートができないためサイクリングに熱中。
1918年(41才)WWI終戦
1919年(42才)キャベンディッシュ研究所に戻り質量分析器の第一号を完成。続いて改善を施した第二号、第三号を完成。この装置で212の天然に存在する同位体を特定した。
1921年(44才)国際度量衡委員会の委員、王立協会の会員になる。
1922年(45才)ノーベル化学賞受賞。理由:非放射性元素における同位体の発見と質量分析器の開発。著書「Isotopes」発刊。
1925年(48才)日食観測のためBenkoeben へ旅行。
1932年(55才)日食観測のためスマトラ島とカナダへ旅行。
1933年(56才)著書Mass-spectra and Isotopes 発刊。
1936年(59才)素粒子エネルギーとその活用について推測。日食観測のため北海道へ旅行。
1939年(62才)WWII
1945年(68才)WWII終戦。ケンブリッジで死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3
https://en.wikipedia.org/wiki/Francis_William_Aston

リーゼ・マイトナーさんとキャヴェンディッシュ研究所の神々(5)聖歌隊でソロを担当した美声の物理学者:C・バークラさん

▼ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入り数学を学ぶ。途中で物理学に転向してJJトムソン先生の弟子になる。しかし、聖歌を歌うのが好きでたまらなかったので、キゃヴェンディッシュ研究所をやめて聖歌隊があるキングス・カレッジに転学(!!)。見事な美しい声で聖歌隊のソロを受け持った。
▼特性X線characteristic X-rayの発見でノーベル賞を受賞。
▼リーゼ・マイトナーさんとはほぼ同じ年。元素に電子線を当てる研究なので分野も近い。

チャールズ・バークラ Charles Glover Barkla 1877-1944 物理学者
1877年、英国チェシャー州ウィドゥネス生まれ。
教育
リヴァプール・インスティテュートで学んだ後、奨学金を得てリバプール大学に入学。
1899年(22才)ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学、最初は数学を専攻。キゃヴェンディッシュ研究所で J.J.Thomson先生の元で物理学の研究に転向。
1901年(24才)聖歌隊で歌うためケンブリッジ大学キングス・カレッジに転学
1903年(26才)ケンブリッジ大学キングス・カレッジでBachelor of Arts
1907年(30才)ケンブリッジ大学キングス・カレッジでMaster of Arts 。結婚。
活動
1909年(32才)ロンドン大学キングス・カレッジ・ロンドンで教授(物理学)。 元素に電子線を当てると固有の波長のX線(特性X線)が発生する事象をC.A. Sadler氏と共に発見。
1913年(36才)エディンバラ大学で教授(自然科学)(1944年まで)。ラザフォードさん(11月14日)の弟子ヘンリー・モーズリーさんが特性X線の波長と原子の原子番号の関係を明らかにした。
1914年(37才)WWI
1915年(38才)モーズリーさん(27才)が狙撃を受けて戦死。
1917年(40才)ノーベル物理学賞。「元素の特性X線の発見」
1918年(41才)WWI終戦
1922年(45才)エディンバラの南西部にある
1939年(62才)WWII。
1944年(67才)エディンバラで死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%A9
https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Glover_Barkla

リーゼ・マイトナーさんとキャヴェンディッシュ研究所の神々(4)X線の回折効果を物理学と生物学に適用:L・ブラッグさん

▼ローレンス・ブラッグさんは、リーゼ・マイトナーさんの友人のマックス・フォン・ラウエさんが発見したX線の回折現象を結晶構造の分析に応用し父と一緒にノーベル賞を受賞した人。また、リーゼ・マイトナーさんの甥の物理学者オットー・フリッシュさんをトリニティ・カレッジのフェローシップに推薦した人。
▼オーストラリアにいた子供時代、腕を骨折した。父の手配でレントゲン撮影をした、それがオーストラリアで初のレントゲンの医学応用事例。X線の回折を結晶分析に応用してノーベル賞を受賞。さらに、X線を生物学分野への応用を進める。キゃヴェンディッシュ研究所の所長の時、スタッフがDNAのらせん構造を明らかにしてノーベル賞を受賞する。子供時代から老年時代までX線と共にあった人。

ローレンス・ブラッグ Lawrence Bragg 1890-1971 物理学者
1890年、オーストラリアのアデレード生まれ。父はアデレード大学で数学と物理学を教えていたヘンリー・ブラッグ教授。母は水彩画家。
教育
子供のころから科学と数学に興味。
1904年(14才)アデレード大学に入学。数学・化学・物理学を学ぶ。
1908年(18才)アデレード大学を卒業。父がリーズ大学の教授になり一家で英国に転居。
1909年(19才)ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ入学。数学の奨学金を授与。専攻を数学から物理学に変える。
1911年(21才)ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジを首席で卒業。
活動
1912年(22才)「ブラッグの法則」を発見。アイディアを父に話し、父はリーズ大学でX線分光計を開発し、様々な結晶の分析ができるようになった。
1914年(24才)WWI。トリニティ・カレッジのフェローシップ。英国騎馬砲兵隊に入り少尉。敵軍の大砲発射音から場所を特定する音響測位法の研究を進める。勲章を受ける。
1915年(25才)弟がガリポリの戦いで戦死。父と共にノーベル賞を受賞。史上最年少。「X線による結晶構造解析に関する研究」
1918年(28才)WWI終戦
1919年(29才)マンチェスター・ビクトリア大学で物理学の教授(1937年まで)。
1921年(31才)結婚。王立協会フェロー。
1937年(47才)イギリス国立物理学研究所の所長(1938年まで)。キゃヴェンディッシュ研究所所長のラザフォードさんが亡くなり後任になる(1952年まで)。
1939年(49才)WWII
1941年(51才)ナイトに叙される。
1942年(52才)父がロンドンで死去(79才)。
1945年(55才)WWII終戦
1947年(57才)リーゼ・マイトナーさんの甥オットー・フリッシュさんをトリニティ・カレッジのフェローシップに推薦
1948年(58才)物理学と生物学の研究を融合し、X線でタンパク質の構造を解明。
1953年(63才)キゃヴェンディッシュ研究所でフランシス・クリックさんとジェームズ・ワトソンさんがデオキシリボ核酸 (DNA) の二重らせん構造を発見。
1954年(64才)王立研究所で教授(1971年まで)。
1966年(76才)コプリ・メダル授与。
1971年(81才)死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B0
https://en.wikipedia.org/wiki/Lawrence_Bragg