マックス・プランクさんの関係者(17)資金難のドイツ学会を金銭的に助けた:星一(ほし・はじめ)さん

▼マックス・プランクさんの仲間、フリッツ・ハーバーさんがカイザー・ヴィルヘルム物理化学・電気化学研究所の所長時代、運営資金に苦しんでいた時に星さんが資金援助した。ドイツは国を挙げて星さんに感謝、星さんがドイツを訪問したときは大歓迎して星さんが驚くほどだったという。後に、ハーバーさんを日本に招待し、2カ月の滞在中、日本を案内しながら、ハーバーさんから化学知識を吸収した。
▼星さんはコロンビア大学の出身で、12年のアメリカ生活の後、帰国して星製薬を創業。社内に設置した教育部門が現在の星薬科大になる。

星一 Hoshi Hajime 1873-1951
1873年、福島県いわき市生まれ。
教育
1884年(11才)大蔵小学校卒業。
1886年(13才)小学校で教師。
1894年(21才)東京商業学校(現、ドルトン東京学園中等部・高等部)を卒業。渡米。
1896年(23才)コロンビア大学入学。日本人向け新聞「日米週報」を創刊。
1899年(26才)パリ旅行。
1901年(28才)コロンビア大学政治経済科でMaster of Arts。野口英世さんと会う。
活動
1904年(31才)セントルイス万国博覧会で日本紹介のパンフを販売、累積赤字を解消。
1905年(32才)米国生活を終え帰国。
1906年(33才)湿布薬「イヒチオール」を開発、事業化。
1908年(35才)衆議院議員。
1910年(37才)星製薬を創業。
1911年(38才)星製薬株式会社設立、同時に教育部を設置。日本で初めてキニーネを製造。
1914年(41才)WWI
1918年(45才)WWI終戦
1919年(46才)政争(1925年まで)。
1922年(49才)星製薬教育部を星製薬商業学校として設立。海外旅行。ベルリン大学で名誉学位。アメリカで野口英世さんと一緒にエジソンさんに面会
1923年(50才)森澤信夫さん(モリサワの創業者)が入社。高速度輪転機の担当。
1924年(51才)フリッツ・ハーバーさんが来日、2か月滞在。日本を案内。石井茂吉さん(文字デザイナー、写研の創業者)が入社。
1925年(52才)結婚。
1926年(53才)長男の親一が誕生(後の星新一)。
1937年(64才)衆議院議員(2回目)。
1939年(66才)WWII
1941年(68才)星製薬商業学校を星薬学専門学校に改組。
1945年(72才)WWII終戦。空襲で破壊された星製薬を再建。
1946年(73才)衆議院議員(3回目)。
1947年(74才)参議院議員。
1950年(77才)星薬学専門学校を星薬科大学に改組。
1951年(78才)ロサンゼルスで死去。

▼師匠・弟子・関係筋
関係筋
■ マックス・プランク Max Planck 1858-1947 関係:星基金運用委員会委員。
■ フリッツ・ハーバー Fritz Haber 1868-1934 関係:星一さんから財政支援を受ける。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E4%B8%80
https://www.hoshi.ac.jp/site/gaiyou/hoshihajime.php

マックス・プランクさんの関係者(16)プランクさんと共に量子力学の扉を開いた一人:W・ヴィーンさん

▼マックス・プランクさんにとってヘルムホルツ先生は学生時代に講義と指導を受けた師匠筋の先生。
プランクさんより6才年下のヴィーンさんにとってヘルムホルツ先生は、博士論文の指導教員。だからプランクさんとヴィーんさんは、同じ師匠を持つ先輩と後輩の関係だ。
▼ヴィーンさんは、レーナルトさんの後任教授になったこともあるし、レントゲンさんの後任教授になったこともある。レーナルトさんはレントゲンさんの研究のためにレーナルト管を貸したのに、レントゲンさんが論文にレーナルトさんの名前を挙げて謝辞を書かなかったのでたいへん怒ったことがある。そんな関係がある二人の後任教授になった。不思議なご縁だ。
▼マックス・フォン・ラウエさんはヴィーンさんを「我々を量子力学の玄関口に導いた」と評価している。

ヴィルヘルム・ヴィーン Wilhelm Wien 1864-1928
1864年、プロイセン王国のガフケン(現ロシア、カリーニングラード州)生まれ。父は農場主。
教育
1866年(2才)一家がポーランドのラステンブルク地方に転居。
1879年(15才)ラステンブルクの学校。
1880年(16才)ハイデルベルクのギムナジウム。
1882年(18才)ギムナジウム卒業。ゲッティンゲン大学入学。数学と物理学を学ぶ。
1883年(19才)ベルリン大学ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ研究室で学ぶ(1885年まで)。博士論文作成中、プランクさんに親戚の家で初対面。
1886年(22才)ベルリン大学でPh.D.(指導教員はヘルムホルツ先生)。健康を害した父親の代わりに農場経営。
活動
1890年(26才)農場を売却。帝国理工学研究所ヘルムホルツさんのもとで助手として研究を再開。
1892年(28才)ベルリン大学で私講師。
1896年(32才)アーヘン工科大学でフィリップ・レーナルトさんの後任教授(1899年まで)。
1898年(34才)結婚。
1899年(35才)ギーセン大学で教授。
1900年(36才)ヴュルツブルク大学でヴィルヘルム・レントゲンさんの後任教授。
1911年(47才)ノーベル物理学賞(熱放射の諸法則に関する発見)。
1913年(49才)コロンビア大学で講師(理論物理学)。
1914年(50才)WWI
1918年(54才)WWI終戦
1919年(55才)ミュンヘン大学でヴィルヘルム・レントゲンさんの2度目の後任教授(物理学)。
1920年(56才)ドイツ物理学会会長。
1925年(61才)ミュンヘン大学学長。
1928年(64才)ミュンヘンで死去。

▼師匠・弟子・関係筋
師匠
■ ヘルマン・ヘルムホルツ Hermann Helmholtz 1821-1894
弟子
□ Gabriel Holtsmark
□ Eduard Rüchardt
関係筋
■ マックス・プランク Max Planck 1858-1947
■ アルベルト・アインシュタイン Albert Einstein 1879-1955
■ マックス・フォン・ラウエ Max von Laue 1879-1960

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3
https://en.wikipedia.org/wiki/Wilhelm_Wien

マックス・プランクさんの関係者(15)<and>リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(30)無名時代のアインシュタインさんの真価を見つけた:W・ネルンストさん

▼ネルンストさんは、1900年代初頭、科学研究の先進地だったベルリンでプランクさんらと共に活躍した物理学者。
▼発明を企業に売却して得た資金で研究室を拡張したり地所を購入して好きな狩りや釣りをしたりクルマが大好きで家族とドライブを楽しむ人物。WWIで息子を二人亡くしたり、ユダヤ人と結婚した二人の娘はナチスを避けるため海外に転居するなどプランクさんと同じ悲しみを経験している。
▼フリッシュさんがPTRにいたのは1927年から30年までの3年間。この間、ベルリン大学で開かれていた水曜コロキアムに参加するのをフリッシュさんは楽しみにしていた。会場の最前列には、プランクさん、ラウエさん、アインシュタインさん、ネルンストさんらが座っていた。ネルンストさんはフリッシュさんより40才年上の長老ですでに伝説的な人物だった。
▼フリッシュさんの自伝ではネルンストさんを「物理学の偉大な原理のひとつである熱力学第三法則はネルンストの創造であり、今世紀の初めにはカイザーにも大きな影響力があった」と紹介している(p.45)。たしかに、そのおかげでカイザー・ヴィルヘルム研究所(WWII後はマックス・プランク研究所)が誕生した。

ヴァルター・ネルンスト Walther Nernst 1864–1941
1864年、プロイセン王国ブリーゼン(現ポーランドのヴォンブジェジノ)生まれ。父は裁判官。
教育
グラウデンツの小学校。
グラウデンツのギムナジウム。
1883年(19才)チューリッヒ大学、ベルリン大学、グラーツ大学(ボルツマンさんが指導)で物理と数学を学ぶ。
1886年(22才)ボルツマン先生のもとで研究、ネルンスト効果を発表。
1887年(23才)ヴュルツブルク大学で博士(指導教員はFriedrich Kohlrausch先生)
1889年(25才)ライプツィヒ大学で教授資格取得。オストヴァルト先生(1月19日)の助手。電流の熱力学を研究。
活動
1892年(28才)結婚。ゲッティンゲン大学で講師。教科書「Theoretical Chemistry」を発刊。好評で英語・フランス語・ロシア語に翻訳される。
1895年(31才)研究所開設。電球を発明し特許権を売却。
1905年(41才)ベルリン大学で教授。Kaiser Wilhelmさんと親しくなり、科学振興のため Kaiser Wilhelm Gesellschaftの設立を促す。
1909年(45才)チューリッヒに行き当時まだ無名だったアインシュタインさんを訪ねる。プランクさんとベルリン大学にリクルートする準備を進める。
1911年(47才)エルネスト・ソルベーさんとソルベー会議を主催。議長はH・ローレンツさん。アインシュタインさんを招待。
1913年(49才)アインシュタインさんはベルリンに移住。
1914年(50才)熱力学第三法則。WWI。長男と次男が入隊。軍に志願し化学薬品・火薬を使用する武器の研究開発に従事、鉄十字一等勲章・功労大章。
1917年(53才)大学に復帰。『新しい熱定理』発表。
1918年(54才)WWI終戦。長男と次男は戦死。
1920年(56才)ノーベル化学賞(熱化学の研究。熱力学第三法則)。ドイツ、ラウジッツのツィベレ(現ポーランドのニビツァ)に自宅を購入。
1921年(57才)ベルリン大学で総長。
1922年(58才)国立物理工学研究所所長。
1924年(60才)ベルリン大学で物理学教室主任。
1927年(63才)フリッシュさん(23才)がPTRの光学部門で研究。
1930年(66才)フリッシュさん(23才)がベルリンのPTRからハンブルグに移る。
1932年(68才)ロンドン王立協会の外国人会員。ドイツの政権をナチスが獲得。アインシュタインさんはベルリンを離れ渡米。
1933年(69才)ベルリン大学を引退。ツィベレで生活。
1939年(75才)WWII。ユダヤ人と結婚していた二人の娘は英国とブラジルに避難。
1941年(77才)ツィベレで死去。墓はプランクさんとラウエさんの間。

▼師匠・弟子・関係筋
師匠
□ フリードリッヒ・コールラウシュ Friedrich Kohlrausch 1840-1910 ドイツの物理学者。
■ ルートヴィッヒ・ボルツマン Ludwig Boltzmann 1844-1906(9月9日)
弟子
□ 多数
関係筋
□ エルネスト・ソルベー Ernest Solvay 1838–1922 ベルギーの化学者。実業家。
■ ヴィルヘルム・オストヴァルト Wilhelm Ostvalds 1853–1932
■ マックス・プランク Max Planck 1858-1947
■ アルベルト・アインシュタイン Albert Einstein 1879-1955
■ マックス・フォン・ラウエ Max von Laue 1879-1960

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88
https://en.wikipedia.org/wiki/Walther_Nernst

マックス・プランクさんの関係者(14)君子は朝令暮改する:W・オストヴァルトさん

▼オストヴァルトさんはドイツの化学者。物理化学分野の確立者のひとり。
▼ボルツマンさんの原子論VSエネルギー論の論争でマッハさんと共にエネルギー論者。しかしゾンマーフェルトさんの説明を聞いて姿勢を転換。ボルツマンさんを自分のいる大学に教授として招くなどケアした。
▼エネルギー論に立っていた時は、アインシュタインさんからの研究室に入れてくれというリクエストに対しても拒絶。しかし、後から人間関係を良好なものにした。考え方と行動を改めることができる人物。
▼プランクさんは当初、原子論に懐疑的、しかしエネルギー論にも納得がいかず、原子論を受け入れる。ボルツマンさんの原子論が伝統的な物理学の考え方からぶっ飛んでいた。でも、その考え方でいかないと原子の振る舞いを説明できなくなるところまで実験精度が上がっていた。プランクさんもオストヴァルトさんも現実から目を閉じない人だ。

ヴィルヘルム・オストヴァルト Wilhelm Ostvalds 1853–1932
1853年、ロシア帝国のリガ生まれ。父は樽製造職人。
教育
子供の頃から科学に興味を持つ。自宅に実験室を作り花火や写真の実験を行った。
1872年(19才)ドルパト大学(現Tartu大学)入学。
1875年(22才)ドルパト大学卒業。Carl Schmidt先生の研究室で無給助手。仲間のJohann Lembergさんから化学の手ほどきを受ける。
1877年(24才)Arthur von Oettingen先生の研究室で有給の助手。
1878年(25才)ドルパト大学で博士(指導教員はCarl Schmidt先生)。
1879年(26才)Carl Schmidt先生の有給助手。
活動
1880年(27才)結婚。
1881年(28才)リガ工科大学で教授(化学)。
1885年(32才)オストヴァルトの希釈律を発見。
1887年(34才)ライプツィヒ大学で教授(物理化学)。
1891年(38才)原子論に反対の立場をとっていたプランクさんと文通開始。しかしプランクさんは1895年にエネルギー論に反対する(原子論の立場)。
1900年(47才)「モル」の使用を開始。マッハさんらと共に原子論反対の立場。後にゾンマーフェルトさんとの意見交換で原子論を理解。ウィーン大学でマッハさんと対立していたボルツマンさんをライプツィヒ大学の教授に招く
1901年(48才)アインシュタインさんが研究室での研究を希望。拒絶。後年は仲良くなりノーベル賞候補者として推薦。
1902年(49才)硝酸の製法オストヴァルト法で特許。ボルツマンさんがウィーン大学に戻る。
1904年(51才)ハーバード大学とリガ工科大学の交換教授として渡米。
1905年(52才)同上。
1906年(53才)ライプツィヒ大学を引退。
1909年(56才)ノーベル化学賞受賞(触媒作用、化学平衡および反応速度に関する研究)
1911年(58才)優生学や安楽死を進める一元論同盟会長。紙の寸法を考案、書籍に採用。後、A判が標準。
1914年(61才)WWI
1916年(63才)色彩の研究。「The Color Primer」「The Color Atlas」を発表。
1918年(65才)WWI終戦
1932年(79才)ライプツィヒで死去。

▼師匠・弟子・関係筋
師匠
□ カール・シュミット Carl Schmidt 1822-1894 ドイツの化学者、医師。リービッヒ先生の弟子。
弟子
□ Georg Bredig
□ Paul Walden
□ Frederick George Donnan
関係筋
□ エルンスト・ヘッケル Ernst Haeckel 1834-1919 ドイツの生物学者。
■ エルンスト・マッハ Ernst Mach 1838-1916
■ ルートヴィッヒ・ボルツマン Ludwig Boltzmann 1844-1906
□ ファント・ホッフ van ‘t Hoff 1852–1911 関係:物理化学の確立仲間
□ アルバート・マンセル Albert Munsell 1858-1918 画家。関係:色彩の評価方式の影響を受けマンセル・カラー・システムを考案。
□ スヴァンテ・アレニウス Svante August Arrhenius 1859-1927 関係:物理化学の確立仲間
■ アルノルト・ゾンマーフェルト Arnold Sommerfeld 1868-1951
□ ジャン・バティスト・ペラン Jean Perrin 1870-1942 フランスの物理学者。ブラウン運動。
パウル・クレー Paul Klee 1879-1940 スイスの画家、美術理論家。
ピート・モンドリアン Piet Mondrian 1872-1944 オランダの画家。

https://en.wikipedia.org/wiki/Wilhelm_Ostwald
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88

マックス・プランクさんの関係者(13)プランクさんが人として信頼した:H・ローレンツさん

▼ローレンツさんは、オランダが誇る大科学者。「放射現象に対する磁性の影響の研究」でノーベル物理学賞を受賞。
▼ローレンツさんはプランクさんより5才年上。プランクさんはWWIが始まったときドイツの戦争を支持するマニフェストに署名した。これを後悔したプランクさんはローレンツさんの助言を受け入れて謝罪している。プランクさんとナチス政権は常に緊張感をはらむ関係になる。
▼ナチス政権から逃れたアインシュタインさんはローレンツさんを自分にとって最重要な人物と考えていた。ローレンツさんの理論的な土台の上にアインシュタインさんは特殊相対性理論を立てたから。Wikipediaによるともともとは「ローレンツ-アインシュタイン理論」と言われていたそうだ。
▼オランダが国を挙げて行った干拓事業「締切大堤防」の影響のシミュレーションを行う委員会の長を務めて正確な予測を出した。工事が完成した1933年はすでにローレンスさんは亡くなっていたが、関門の一つに名前が付けらている。

ヘンドリック・ローレンツ Hendrik Lorentz 1853-1928
1853年、オランダのヘルダーラント州アーネム生まれ。父は裕福な園芸家。
教育
1861年(8才)母親が死去。
1866年(13才)地元アーネムのHogere Burger Schoolに入学。
1869年(16才)Hogere Burger Schoolを卒業。大学入学資格試験の準備。
1870年(17才)ライデン大学入学。物理学と数学を学ぶ。天文学者のフレデリク・カイセル先生に出会い物理に興味。
1872年(19才)ライデン大学で学士。アーネムの夜間学校で教師(数学)を務めながら博士課程学生。
1875年(22才)ライデン大学で博士(指導教員はピーター・レーケ先生)。「光の反射と屈折の理論について」
活動
1878年(25才)ライデン大学で教授(理論物理学)。
1881年(28才)F・カイセル先生の姪と結婚。
1895年(42才)フィッツジェラルド-ローレンツ収縮。
1896年(43才)ピーター・ゼーマンさんが「ゼーマン効果」を発見。これに理論的解釈を行う。
1899年(46才)「局所時間」
1900年(47才)アンリ・ポアンカレさんが局所時間を高評価。
1902年(49才)ノーベル物理学賞(放射現象に対する磁性の影響の研究)。ピーター・ゼーマンさん(12月26日)と同時受賞
1904年(51才)「時間の遅れ」
1905年(52才)ポアンカレさんが「時間の遅れ」をローレンツ変換と命名。アインシュタインさんが特殊相対性理論を発表。王立協会外国人会員。
1909年(56才)数理物理学の論集 “Theory of Electrons” を出版。
1911年(58才)第1回ソルベー会議で議長。
1912年(59才)ライデン大学を引退、客員教授。
1914年(61才)WWI。プランクさん(56才)がドイツの戦争を支援する「93人のマニフェスト」に署名。
1915年(62才)ローレンツさんの助言に従い戦争に対する考え方を改めたプランクさんがマニュフェストに署名したことを非公式ながら謝罪。
1918年(65才)WWI終戦。コプリ・メダル受賞。オランダのアイセル湖と北海を仕切る世界最大の「締め切り大堤防」計画の影響予測委員会の委員長(1926年まで)。同堤防は1933年に完成、予測の正確さが確認された。
1928年(75才)ハールレムで死去。

▼師匠・弟子・関係筋
師匠
□ フレデリク・カイセル Frederik Kaiser 1808–1872 オランダの天文学者。
□ ピーター・レーケ Pieter Rijke 1812–1899 指導教員。オランダの物理学者。
弟子
■ ピーター・ゼーマン Pieter Zeeman 1865-1943 オランダの物理学者。ノーベル賞を共同受賞。
関係筋
□ アンリ・ポアンカレ Jules-Henri Poincaré 1854–1912 フランスの数学者。
■ アルベルト・アインシュタイン Albert Einstein 1879-1955
□ ポール・エーレンフェスト Paul Ehrenfest 1880-1933 ライデン大学の後任教授。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%84
https://en.wikipedia.org/wiki/Hendrik_Lorentz

マックス・プランクさんの関係者(12)原子論の開祖のひとり:L・ボルツマンさん

▼ボルツマンさんは世界は原子からできている、といち早く考えた物理学者・哲学者。
原子論の考え方が新しかっただけに反対者もいた。当初は、プランクさんもボルツマンさんの原子論を受け入れたものかどうなのか、という立場だった。
▼反対の立場の急先鋒だったのは、E・マッハさん、ヴィルヘルム・オストヴァルトさんである。激しい論争が続く。研究が進むにしたがって、プランクさんとオストヴァルトさんは原子論を受け入れる。
▼ウィーン大学でのマッハさんとボルツマンさんの対立が激化したため、原子論の理解者となったオストヴァルトさんが助け船としてライプツィヒ大学にボルツマンさんを教授として迎える。そうこうしていると1,2年のうちにマッハさんがウィーン大学を辞めたので、ボルツマンさんはまたウィーン大学に戻る。そんな事態が起こったこともある。
▼原子VSエネルギー論争が10年くらい続いたこともあって、ボルツマンさんは精神を病み、自殺してしまう。マッハさんも体調を崩すし、ボルツマンさんも悲しい結果になる。このような結果になる論争はよくない。
▼ボルツマンさんに師事する予定だったリーゼ・マイトナーさんはウィーン大学を諦め、プランク先生の元を訪ねベルリンでの生活が始まる。

ルートヴィッヒ・ボルツマン Ludwig Boltzmann 1844-1906
1844年、オーストリアのウィーン生まれ。父は税務官。
教育
父と母から教育を受ける。
ピアノの先生はアントン・ブルックナーさん。
1859年(15才)リンツの高校に入学。父が死去。
1863年(19才)ウィーン大学入学。数学と物理を学ぶ。
1866年(22才)ウィーン大学で博士(指導教員はヨーゼフ・シュテファン先生)。
1867年(23才)ウィーン大学でシュテファン先生の助手。マクスウェルさんの研究を紹介される。
1869年(25才)教授資格取得。
活動
1869年(25才)シュテファン先生の紹介でグラーツ大学で助教授(数理物理学)。ハイデルベルグでブンゼン先生と数か月共同研究。
1871年(27才)ベルリンでキルヒホッフ先生、ヘルムホルツ先生と共同研究。
1872年(28才)原子論。熱現象の不可逆性(エントロピーの増大)を証明。H定理。統計力学。
1873年(29才)ウィーン大学で教授(数学)。
1876年(32才)グラーツ大学で教授(実験物理学)。ヴァルター・ネルンストさん(1864-1941)の研究を指導。
1877年(33才)「熱平衡法則に関する力学的熱理論の第2主法則と確率計算の関係について」を発表。
1884年(40才)シュテファン=ボルツマンの法則。結婚。
1887年(43才)グラーツ大学で学長。
1890年(46才)ミュンヘン大学で教授(理論物理学)。
1894年(50才)ウィーン大学でシュテファン先生の後任の教授(理論物理学)。
1895年(51才)E・マッハ先生(1838-1916)が教授(哲学と科学史)になる。原子論に対してエネルギー論を唱えるマッハ先生およびその仲間と意見が対立。M・プランクさんは黒体放射の研究を進めるにつれて原子論の立場に。
1900年(56才)ヴィルヘルム・オストヴァルトさん(1853-1932、当初はエネルギー論の立場。しかし、原子論を理解)の招きを受けてライプツィヒ大学で教授。
1902年(58才)マッハ先生が退任、ウィーン大学に戻り教授(理論物理学)。物理学と哲学を講義。人気講義でリーゼ・マイトナーさんも欠かさず受講
1903年(59才)オーストリア数学協会を設立。
1904年(60才)ポール・エーレンフェストさん(1880-1933)の博士論文指導。
1906年(62才)休暇先のイタリアで自殺。リーゼ・マイトナーさんはウィーンを出てベルリン大学のプランク先生を訪ね同地で研究活動を始める。

▼師匠・弟子・関係筋
師匠
■ ロベルト・ブンゼン Robert Bunsen 1811–1899
■ ヘルマン・ヘルムホルツ Hermann Helmholtz 1821-1894
■ グスタフ・キルヒホフ Gustav Kirchhoff 1824-1887
□ ヨーゼフ・シュテファン Joseph Stefan 1835-1893 指導教員。
弟子
■ ヴァルター・ネルンスト Walther Nernst 1864–1941
■ リーゼ・マイトナー Lise Meitner 1878-1968
□ ポール・エーレンフェスト Paul Ehrenfest 1880-1933
関係筋
■ エルンスト・マッハ Ernst Mach 1838-1916
□ ヴィルヘルム・オストヴァルト Wilhelm Ostwald 1853–1932

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%84%E3%83%9E%E3%83%B3
https://en.wikipedia.org/wiki/Ludwig_Boltzmann

マックス・プランクさんの関係者(11)音速のマッハ:E・マッハさん

▼プランクさんは最初マッハさんの影響を受けていた。しかし後、物理学上の見解でマッハさんの考え方を批判する立場をとった。年齢はプランクさんがマッハさんより20才年下。
▼マッハさんは、音速の単位マッハの由来になった人物。砲弾が音速を超えて飛んでいる有名な写真を撮影し発表した(1887年)。いったいどうやって撮影したのだろう。

エルンスト・マッハ Ernst Mach 1838-1916
1838年、オーストリア帝国モラヴィア州(現チェコのモラヴィア)生まれ。父は教育者。
教育
1852年(14才)家庭で両親から教育を受けたあとギムナジウムに入学。
1855年(17才)ウィーン大学入学。物理学を学ぶ。
1860年(22才)ウィーン大学で博士(物理学)。指導教員はAndreas von Ettingshausen先生。
1861年(23才)教授資格を取得。光や音を対象にしたドップラー効果を研究。
活動
1864年(26才)グラーツ大学で教授(数学と物理学)。
1867年(29才)プラハ大学で教授(実験物理学)。
1877年(39才)超音速に関する論文を発表。
1883年(45才)科学史三部作その1『力学の発達』発表。
1886年(48才)認識論の著作『感覚の分析』発表。
1887年(49才)物体が音速を超えたときに起きる衝撃波の写真を発表、世界初
1895年(57才)ウィーン大学で教授(帰納論理学)。「機能的科学の歴史と理論」を講義。
1896年(58才)科学史三部作その2『熱学の諸原理』発表。
1901年(63才)オーストリア貴族院議員。大学退職。
1905年(67才)認識論の著作『認識と誤謬』出版
1914年(76才)WWI
1916年(78才)ミュンヘン郊外で死去。
1921年、死後、科学史三部作その3『物理光学の諸原理』発表。

▼師匠・弟子・関係筋
師匠
□ Andreas von Ettingshausen
弟子
□ Heinrich Gomperz
□ Ottokar Tumlirz
関係筋
■ ルートヴィッヒ・ボルツマン Ludwig Boltzmann
■ ヴォルフガング・パウリ Wolfgang Pauli
■ アルベルト・アインシュタイン Albert Einstein

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%8F
https://en.wikipedia.org/wiki/Ernst_Mach

マックス・プランクさんの関係者(10)単位の名前で今に伝わる:W・ヴェーバーさん

▼プランクさんとヴェーバーさんの関係は、論文がらみの話。プランクさんがキール大学でassociate professorをしていた27才のとき、ゲッティンゲン大学主催の論文コンクールに応募した。結果は1等なしの2等。その理由は、プランクさんの論文の内容がヴェーバーさん(81才)の理論と対立するものだったから。
▼こんな短いエピソードからも、新旧の対立を穏やかに収める知恵、ドイツの大学や学問の伝統などが想像できて楽しい。
▼ヴェーバーさんは新しい王が憲法を停止したことに抗議して大学の職を失う。「ゲッティンゲン七教授事件」という。この中にグリム兄弟もいた。
▼ガウス先生との通信用に電信装置を作り、これが世界初の電信の実用になった。

ヴィルヘルム・ヴェーバー Wilhelm Weber 1804-1891
1804年、神聖ローマ帝国 ヴィッテンベルク生まれ。父は神学教授。
教育
1814年(10才)家族でハレに転居。
1822年(18才)ハレ大学入学。シュワイガー先生の下で音響学を学ぶ。
1826年(22才)ハレ大学で博士。リードオルガンの音響に関する研究。
1827年(23才)教授資格を取得。
活動
1828年(24才)ハレ大学員外教授。ベルリンで開かれた学会でガウスさん(51才)と知り合う。ガウスさんはゲッチンゲン大学の教授で天文台長。
1831年(27才)ガウスさんの推薦を得てゲッティンゲン大学で教授(物理学)。ガウスさんと地磁気や電磁気の単位系の共同研究。
1833年(29才)ゲッチンゲン地磁気観測所を設立。電信装置を製作し観測所と天文台の間に回線を引く。世界初の実用的電信装置
1836年(32才)地磁気観測を開始。
1837年(33才)新しい王による憲法停止に抗議したため失職(ゲッティンゲン七教授事件)。
1840年(36才)ヘルムホルツさんの検流計をもとに交流の電流や電圧が測定できる電流力計(ダイナモメーター)を製作。ガウスさんが磁気の単位を定義している一方で電流の単位の定義に挑戦。
1841年(37才)地磁気観測の結果をまとめ、世界初の磁気地図として発表。
1843年(39才)ライプツィヒ大学で教授(物理学)。
1846年(42才)ダイナモメーターで2本の導線間に働く力を正確に測定。導線中の荷電粒子に働く力を方程式で表現(ヴェーバーの法則)。
1849年(45才)ゲッティンゲン大学で教授(物理学)に復職。天文台長兼任。
1852年(48才)ガウスさんと共同で電磁単位系を発表。ファラデーさんが発見していた反磁性をアンペールさんの分子電流モデルで説明。
1856年(52才)論文でヴェーバー定数Weber’s constantを発表。「c」が光速の記号の元になる。
1871年(67才)電気は荷電した粒子の流れと発表。電子論のさきがけとなる。
1881年(77才)国際電気会議でW・トムソンさんがヴェーバーの単位系の採用を提案、承認。
1891年(87才)ゲッティンゲンで死去。

▼師匠・弟子・関係筋
師匠
□ ヨハン・シュワイガー Johann Schweigger 1779–1857 化学者・物理学者・数学者。
弟子
□ Ernst Abbe
□ Friedrich Kohlrausch
□ Eduard Riecke
□ Gottlob Frege
□ Arthur Schuster
関係筋
■ フリードリヒ・フンボルト Friedrich Humboldt 1769-1859 関係:ベルリンの学会でガウスさんを紹介してくれた。
■ カール・フリードリヒ・ガウス Carl Friedrich Gauß 1777-1855 関係:同僚、共同研究者。
□ グリム兄弟 Brüder Grimm 関係:ゲッティンゲン七教授事件で一緒にクビになった。
■ ヘルマン・ヘルムホルツ Hermann Helmholtz 1821-1894 関係:ヘルムホルツ検流計を改良してダイナモメーターを作った。論争相手。
□ ルドルフ・コールラウシュ Rudolf Kohlrausch 1809–1858 ドイツの物理学者。関係:ヴェーバー定数を共同して測定。
■ マイケル・ファラデー Michael Faraday 1791-1867 関係:反磁性の理由を説明。
■ ウィリアム・トムソン William Thomson 1824-1907 関係:ヴェーバーの単位系の採用を国際電気会議で提案。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC

マックス・プランクさんの関係者(9)<and>リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(29)ユーモアの持ち主:G・ヘルツさん

▼グスタフ・ヘルツさんは、1887年に電磁波を発見したハインリヒ・ヘルツ氏の「甥の息子」。
▼フリッシュさんの自伝によると「特別に子供じみたユーモアの持ち主」でリーゼ・マイトナーの前で演じた悪ふざけのエピソードを描いている(p.45-46)。40才を過ぎても、ノーベル賞を取った後でも、いたずらをして仲間と笑い合っていた。
▼フリッシュさんの自伝に書いてあるヘルツさんのノーベル物理学賞の受賞理由は「原子の中に量子化されたエネルギー状態が存在することを示した1912年の実験」(p.46)によるものだ。ヘルツさんが20代、一緒に実験したフランクさんが30代の時の実験。
▼ユダヤ系のため大学の職を追われたあと、ジーメンス・ウント・ハルスケ研究所で所長を務めている。

グスタフ・ヘルツ Gustav Hertz 1887-1975
1887年、ドイツのハンブルク生まれ。
教育
1906年(19才)ゴッチンゲン大学(1907年まで)。
1907年(20才)ミュンヘン大学(1908年まで)。
1908年(21才)ベルリン大学
1911年(24才)ベルリン大学で博士(指導教員は Heinrich Leopold Rubens先生)。Rubens先生の助手(1914年まで)。
1914年(27才)フランク=ヘルツの実験
活動
1914年(27才)WWI。軍務に就く。
1915年(28才)F・ハーバーさんの毒ガス開発チームに配属。怪我をする。
1917年(30才)ベルリンに戻りベルリン大学で私講師。
1918年(31才)WWI終戦
1919年(32才)結婚。
1920年(33才)フィリップスの白熱電灯会社で研究員(1925年まで)。
1925年(38才)ハレ大学で正規の教授、物理学研究所長。ノーベル物理学賞をジェイムス・フランクさんと共同受賞(原子と電子の衝突に関する研究)
1927年(40才)フリッシュさん(23才)がPTRの光学部門で研究。
1928年(41才)ベルリン工科大学で教授(実験物理学)、物理学研究の所長。
1930年(43才)フリッシュさん(23才)がベルリンのPTRからハンブルグに移る。
1934年(47才)ユダヤ系のため国家社会政策と法により職場を追放。ジーメンス研究所IIで所長(1945年まで)。
1939年(52才)WWII
1945年(58才)WWII終戦。ソビエト連邦の研究所で勤務(1954年まで)。
1951年(64才)マックス・プランク・メダル受賞。
1954年(67才)カール・マルクス大学(現ライプツィヒ大学、1961年まで)。
1975年(88才)東ベルリンで死去。

▼師匠・弟子・関係筋
師匠
■ マックス・プランク Max Planck 1858-1947
□ ハインリヒ・ルーベンス Heinrich Rubens 1865–1922 ドイツの物理学者。関係:指導教員。
弟子
□ Heinz Pose 1905–1975 ドイツの原子核物理学者。
関係筋
■ フリッツ・ハーバー Fritz Haber 1868-1934
■ ジェームス・フランク James Franck 1882–1964 ドイツの物理学者。1925年ノーベル物理学賞の共同受賞者。

https://en.wikipedia.org/wiki/Gustav_Ludwig_Hertz
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%84#:~:text=%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%84%EF%BC%88Gustav,%E3%81%AF%E3%80%81%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%81%AE%E7%89%A9%E7%90%86%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%80%82

マックス・プランクさんの関係者(8)4極真空管を発明した弟子:W・ショットキーさん

▼物質に熱を加えて電子が出る状態を応用する専門家。4極真空管を発明した科学者。半導体の研究も進めている。真空管と半導体の両方を手掛けられる、ということは電子を制御する理論が分かっているからこそ。さすがマックス・プランク先生の弟子。
▼ショットキー効果という用語としてその名を留める。名前が印象的なので記憶に残る。
▼WWIとWWIIの時期は、ジーメンス研究所で仕事をしている。4極管を発明したのはジーメンス研究所のとき。

ヴァルター・ショットキー Walter Schottky 1886-1976
1886年、スイスのチューリッヒ生まれ。ドイツ人。父はチューリッヒ大学の数学者。
教育
1892年(6才)父がマールブルク大学の教授になるので一家でドイツに転居。
1904年(18才)ベルリンにあるステグリッツ・ギムナジウムを卒業。
1908年(22才)ベルリン大学で B.S.(物理学)。
1912年(26才)ベルリン大学でPhD(物理学)。指導教員はM・プランク先生。
活動
1912年(26才)ドイツのテューリンゲン州にあるイエナ大学でポスドク(1914年まで)。
1914年(28才)WWI。ジーメンス研究所で研究(1919年まで)。
1915年(29才)ジーメンス研究所で4極管を発明
1918年(32才)WWI終戦。スーパーヘテロダイン方式に関する論文を発表。
1919年(33才)ヴュルツブルク大学で授業を担当(1923年まで)。
1923年(37才)ロストック大学で教授(理論物理学、1927年まで)。
1924年(38才)リボンマイク、リボンスピーカーをErwin Gerlach博士と共同発明。まだ強力な磁石がなかったので実用化できなかった。
1927年(41才)ジーメンス研究所で再び研究(1958年まで)。
1936年(50才)王立協会からヒューズ・メダルを受賞(シュロット効果を応用した4極真空管、スーパーヘテロダイン方式の受信方法)。
1939年(53才)WWII。
1945年(59才)WWII終戦
1964年(78才)ジーメンス・リングWerner von Siemens Ringを受賞(真空管アンプや半導体の製造など物理学の技術応用)。
1976年(90才)西ドイツのプレツフェルドPretzfeldで死去。

▼師匠・弟子・関係筋
師匠
■ マックス・プランク Max Planck 1858-1947 関係:指導教員。
□ ハインリヒ・ルーベンス Heinrich Rubens 1865–1922 ドイツの物理学者。関係:研究に影響を与えた。
弟子
□ Werner Hartmann 1912–1988 東ドイツの物理学者。
関係筋
□ Edwin Armstrong 1890–1954 アメリカの電気技術者。スーパーヘテロダイン方式の発明者。

https://en.wikipedia.org/wiki/Walter_H._Schottky
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%AD%E3%83%BC