リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(38)フリッシュさんと原爆製造可能性を指摘するメモを作った:R・パイエルスさん

▼バーミンガム大学に来たフリッシュさんはイギリスの化学学会の依頼で原子核物理学の進歩についての原稿を引き受け、原子爆弾製造が不可能と論じた。しかし、その後になって「爆発的な連鎖反応を可能とする、十分な量のウラン235を生産できるのではないかという気」になって必要量を計算すると「トンの重さの問題ではなく、1ポンドか2ポンド程度」(p.157)であることが分かる。
▼フリッシュさんがその結果を相談した相手がパイエルスさんだった。実験の後、2人は原子爆弾製造が可能(敵国のドイツでも可能)と指摘する報告書を作る。
▼「パイエルスと私がオリファントの助言でヘンリー・ティサードに送った報告書が引き金となり、ジョージ・トムソンを委員長とする委員会が作られ、モード(MAUD)委員会」(p.163)が発足する。MAUD委員会はアメリカがマンハッタン計画を実行する引き金になる。

ルドルフ・パイエルス Rudolf Ernst Peierls 1907-1995
1907年、ベルリン生まれ。ユダヤ人。父は実業家。
教育
1914年(7才)WWI
1918年(11才)WWI終戦
1925年(18才)フンボルトギムナジウムを卒業。ベルリン大学入学。プランクさん、ネルンストさん、ボーテさんらの物理学の講義を聞く。
1926年(19才)理論物理学を学ぶためミュンヘン大学のゾンマーフェルトさんの下で研究。
1928年(21才)ライプチヒ大学でハイゼンベルクさんの下で研究。
1929年(22才)チューリッヒ工科大学でパウリさんの下で研究。ライプチヒ大学でDPhil(指導教員はハイゼンベルクさん。パウリさん)。パウリさんの助手。
活動
1930年(23才)コペンハーゲンに行きニールス・ボーアさんに会う。
1931年(24才)結婚。
1932年(25才)ロックフェラー奨学金を得てローマ大学フェルミさんの下で研究。ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所ラルフ・ファウラーさんの下で研究。
1933年(26才)ドイツでナチス政権が伸びてきたため奨学金を得てイギリスのマンチェスター大学に留まる。D.Sc. を取得。
1936年(29才)オリファントさんの紹介でバーミンガム大学で教授(応用数学、1963年まで)。
1939年(32才)WWII。フリッシュさんがデンマークを離れバーミンガム大学に来る。一緒に原爆製造可能性を検討。
1940年(33才)フリッシュさんと原爆製造可能性のメモ Frisch–Peierls memorandumを作成。
1941年(34才)二人のレポートでMAUD委員会が発足。アメリカに渡りマンハッタン計画につながる。
1943年(36才)マンハッタン計画に参加。
1945年(38才)WWII終戦
1952年(45才)ラザフォードメダル賞受賞。
1953年(46才)国際理論物理学会のため来日。
1963年(56才)オックスフォード大学で教授(1974年まで)。マックス・プランク・メダル受賞。
1968年(61才)ナイトに叙される。
1986年(79才)コプリ・メダル受賞。
1991年(84才)ポール・ディラック賞受賞。
1995年(88才)オックスフォードで死去。

▼師匠・関係筋
師匠
■ マックス・プランク Max Planck 1858-1918
■ アルノルト・ゾンマーフェルト Arnold Sommerfeld 1868-1951
■ ヴァルター・ボーテ Walther Bothe 1891-1957
■ ヴォルフガング・パウリ Wolfgang Pauli 1900-1958
■ ヴェルナー・ハイゼンベルク Werner Heisenberg 1901-1976
■ ポール・ディラック Paul Dirac 1902-1984
関係筋
■ ニールス・ボーア Niels Bohr 1885-1962
■ ジェームズ・チャドウィック James Chadwick 1891-1974 イギリスの物理学者。
■ エンリコ・フェルミ Enrico Fermi 1901–1954
■ マーク・オリファント Mark Oliphant 1901-2000
□ ジョージ・プラチェク George Placzek 1905–1955 チェコ出身の物理学者。フリッシュさんはニールス・ボーア研究所で同僚だった時期がある。
■ レフ・ランダウ Lev Landau 1908-1968 友人。

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳 「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」 吉岡書店、2003年。
https://en.wikipedia.org/wiki/Rudolf_Peierls
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%82%B9

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(37)英米豪の知の架け橋:M・オリファントさん

▼オリファントさんはフリッシュさんをイギリスのバーミンガム大学に招いてくれた人物。フリッシュさんとパイエルスさんが原爆の実現可能性を見出す。その報告を聞いたオリファントさんはすぐ報告書にまとめさせ、政府顧問のヘンリー・ティザード委員長に提出させる。その結果、モード(MAUD)委員会が作られる。
▼MAUD委員会の報告はアメリカに送られるも、アメリカ側での進みが遅いためオリファントさんは遅れを解消するために尽力する。その結果、マンハッタン計画としてアメリカによる主導が始まる。
▼フリッシュさんの自伝では「オリファントがいると、うまく行かないものはなく、必要なものは全て大騒ぎせず手に入ると感じられた」(p.150)と書かれている。また、フリッシュさんやパイエルスさんらの研究がうまく進むよう配慮を重ねた経緯が伝わってくる。

マーク・オリファント Mark Oliphant 1901-2000
1901年、オーストラリアのアデレード生まれ。父は公務員。
教育
1914年(13才)WWI。
1918年(17才)WWI終戦。アデレード高校を卒業。
1919年(18才)アデレード大学入学。
1921年(20才)アデレード大学でBSc。
1925年(24才)ラザフォードさんの講演を聞く。結婚。
1927年(26才)奨学金を得てケンブリッジ大学のキャヴェンディッシュ研究所に入る。
1929年(28才)ケンブリッジ大学でPhD(指導教員はラザフォードさん)。
活動
1932年(31才)キャヴェンディッシュ研究所で原子核関係の発見が続く。
1934年(33才)ケンブリッジ大学セントジョンズカレッジでフェロー。パウル・ハルテックさんと共同で水素の核融合を発見。
1935年(34才)ラザフォードさんの研究助手につく。
1937年(36才)バーミンガム大学で教授(物理学)。サイクロトロンの建設に着手(1939年完成)。王立協会フェロー。
1938年(37才)バーミンガム大学のレーダー開発に着手。渡米しバークレー研究所でアーネスト・ローレンスさんとレーダー研究に従事。
1939年(38才)WWII。オットーフリッシュさんがバーミンガム大学で研究を開始。数理物理学者のルドルフ・パイエルスさんと同僚になる。
1940年(39才)バーミンガム大学にいたオットー・フリッシュさんとルドルフ・パイエルスさんが原爆の製造可能性を発見。レポートにして航空戦科学調査委員会のヘンリー・ティザード委員長に提出するよう指示。MAUD委員会設立。アメリカでマンハッタン計画に継承。フリッシュさんがウランの研究を進められるようサイクロトロンがあるリバプール大学で研究できるよう手配。同大学には中性子の発見者チャドウィックさんがいた。
1941年(40才)開発に成功したマグネトロンが軍で運用開始。アメリカに原爆の開発を推奨。
1942年(41才)マンハッタン計画が始動。
1943年(42才)ローレンスさんと原爆開発用ウラン235の精製を研究。王立協会からヒューズ・メダルを受賞。
1945年(44才)WWII終戦。イギリスに戻りバーミンガム大学で教授。
1950年(49才)オーストラリア国立大学物理学研究センターで所長。
1954年(53才)オーストラリア科学アカデミを創設、初代会長。
1959年(58才)ナイトに叙せられる。
1964年(63才)教授職を退職。
1967年(66才)名誉教授。
1971年(70才)南オーストラリア州総督(1976年まで)。
2000年(99才)キャンベラで死去。

▼師匠・関係筋
師匠
■ アーネスト・ラザフォード Ernest Rutherford  1871-1937 ニュージーランド出身の物理学者。キャヴェンディッシュ研究所の所長。
弟子
□ アーネスト・チタートン Ernest Titterton 1916–1990 1939年にバーミンガム大学で仕事をしていたフリッシュさんの助手を務める。
関係筋
■ ジェームズ・チャドウィック James Chadwick 1891-1974 イギリスの物理学者。
■ アーネスト・ローレンス Ernest Lawrence 1901-1958 アメリカの物理学者。サイクロトロンの発明者。

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳 「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」 吉岡書店、2003年。
https://en.wikipedia.org/wiki/Mark_Oliphant
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%88

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(37)原子核の解明のため実験を重ねた:G・ヘヴェシーさん

▼フリッシュさんとヘヴェシーさんはニールス・ボーア研究所で5年間、一緒に過ごし原子の研究を進めている。
▼ヘヴェシーさんのエピソードで印象的なものは、ニールス・ボーア研究所で預かっていたラウエさんとジェームス・フランクさんのノーベル賞の金メダルをナチスドイツ軍の略奪から守った話。その方法がさすが物理化学者で、金メダルを王水に溶かし、瓶に入れて棚で保管した。戦後、王水から金を取り出し、ノーベル財団に送ってメダルに打ち直してもらった。
▼ノーベル賞もさることながら、コプリメダルの受賞を誇りに思っていた。理由はノーベル賞学者は数あれど、コプリメダルを貰った外国人はボーアさんと自分だけだっただから。
▼フリッシュさんの自伝の116ページに、ボーアさん、フランクさんと一緒の写真があり「生物学に同位体を巧みに運用する技術の開拓者となったジョージ・フォン・ヘベシィ」という解説がついている。

ジョージ・ヘヴェシー George de Hevesy  1885-1966

1885年、オーストリア=ハンガリー帝国ブダペスト生まれ。ユダヤ人。貴族。
教育
1903年(18才)ブダペストのPiaristaギムナジウムを卒業。ブダペスト大学に入学、化学を学ぶ。
ベルリン工科大学で数か月学び、フライブルク大学に移る。
1906年(21才)フライブルグ大学でGeorg Franz Julius Meyer先生の指導の下、Ph.D.取得の研究を開始。
1908年(23才)フライブルグ大学でPh.D.(物理学)。
活動
ドイツのカールスルーエ大学でフリッツ・ハーバーさんと研究。
イギリスのマンチェスター大学でラザフォードさんと研究。ニールス・ボーアさんと出会う。
1914年(29才)WWI
1918年(33才)WWI終戦。ブダペスト大学で教授(物理化学)。
1920年(35才)コペンハーゲンのニールス・ボーア研究所で研究。
1922年(37才)D・コスターさんとハフニウムを発見。
1924年(39才)フライブルグ大学で教授(物理化学)。結婚。
1930年(45才)米コーネル大学でBaker Lecturer。
1934年(49才)ニールス・ボーア研究所。(フリッシュさんがイギリスを出てニールス・ボーア研究所に入る) 原子核の研究を進める。希土類元素に中性子を照射する実験。
1939年(54才)WWII。ナチスのデンマーク併合に伴い研究所に保管していたラウエさんとフランクさんのノーベル賞金メダルがナチスに略奪されないよう王水に溶かして隠す。(フリッシュさんは脱出しイギリスのバーミンガム大学に移る)
1943年(58才)コペンハーゲンを脱出しストックホルム大学で教授(1961年まで)。ノーベル化学賞受賞(化学反応研究におけるトレーサーとしての同位体の応用研究)。物理化学者のハンス・フォン・オイラー=ケルピンさんと共同研究を進める。
1945年(60才)WWII終戦
1949年(64才)コプリ・メダル受賞。王立協会外国人会員。ベルギーのケント大学でFranqui Professor。
退職後、ストックホルム大学やフライブルグ大学で教鞭をとる。
1964年(79才)ドイツのフライブルクで死去。

▼師匠・関係筋
師匠
□ Georg Franz Julius Meyer
関係筋
■ フリッツ・ハーバー Fritz Haber 1868-1934 (2020年9月14日)
□ ハンス・フォン・オイラー=ケルピン Hans von Euler-Chelpin 1873-1964 共同研究者。
■ マックス・フォン・ラウエ Max von Laue 1879-1960 (2020年9月17日)
■ ジェイムズ・フランク James Franck 1882-1964 (2021年1月25日)
■ ニールス・ボーア Niels Bohr 1885-1962 (2020年12月15日)
□ ディルク・コスター Dirk Coster 1889–1950 ハフニウムの共同発見者。

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳 「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」 吉岡書店、2003年。
https://en.wikipedia.org/wiki/George_de_Hevesy
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%82%B7%E3%83%BC

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(36)量子論の創始者のひとり:P・エーレンフェストさん

▼フリッシュさんは1927年から1930年の間はベルリンのPTRとプリングスハイムさんの下で研究。1930年から1933年の間はハンブルグ大学のオットー・シュテルンさんの下で研究を行う。
▼1933年の夏、フリッシュさんはニールス・ボーアさんがコペンハーゲンで開く会議に招待されたので、シュテルンさんとの仕事を発表する。そのときチョークのキイキイ音が止まらなくて困っていると、「フリッシュ、チョークをキイキイ言わさないで書けるようにならないと、教授には決してなれないぞ」と言ったのがエーレンフェストさん(p.66)。エーレンフェストさんはボーアさんと仲の良い友人で、ボーアさんが招いた20代のフリッシュさんにヤジを飛ばしたわけだ。

ポール・エーレンフェスト Paul Ehrenfest 1880-1933
1880年、ウィーン生まれ。ユダヤ人。両親は食料品店経営。
教育
最初、ウィーンにある名門のAkademischesギムナジウムに入学。うまく馴染めずFranz Josefギムナジウムに転校、こちらではうまくいき卒業。
1899年(19才)ウィーン工科大学入学。化学を勉強。
ウィーン大学でボルツマンさんの授業を受け理論物理学に興味を持つ。
1901年(21才)ゲッティンゲン大学。
1903年(23才)ライデンでヘンドリック・ローレンツさんに会う。
1904年(24才)ウィーン大学でPh.D.(指導教員はボルツマンさん)。ゲッチンゲンで出会ったロシアの数学者と結婚。
1905年(25才)ウィーン大学でポスドク。
活動
1906年(26才)ゲッティンゲン ボルツマンさんが自殺。
1907年(27才)サンクトペテルブルクに夫婦で転居。教授職が得られず根を下ろすには難しいと判断。
1912年(32才)ライデン大学で教授(ローレンツさんの後任)。物理学の夜のコロキウムを開始。
1919年(39才)オランダ王立芸術科学アカデミー会員。
1914年(34才)WWI
1918年(38才)WWI終戦
1925年(45才)ローレンツさんの博士取得50周年の学術会議をボーアさんとアインシュタインさんを招いて開催。量子論を議論。
1927年(47才)ローレンツさんが議長で第5回ソルベー会議で「電子と光子」をテーマに設定。ボーアさんとアインシュタインさんが再度出席。
1930年(50才)フリッシュさんがベルリンを出てハンブルグ大学オットー・シュテルン研究室で助手になる。
1931年(51才)鬱病に苦しむ。
1933年(53才)ニールス・ボーアさんがコペンハーゲンで夏の会議を開催、参加。若いフリッシュさんにヤジを飛ばす。9月に自殺。

▼師匠・関係筋
師匠
■ルートヴィッヒ・ボルツマン Ludwig Boltzmann 1844-1906 (2020年9月9日)
弟子
□ ヤン・ティンバーゲン Jan Tinbergen 1903-1994
関係筋
■ マックス・プランク Max Planck 1858-1918 (2020年9月9日)
■ アルノルト・ゾンマーフェルト Arnold Sommerfeld 1868-1951 (2020年12月17日)
■ アルベルト・アインシュタイン Albert Einstein 1879-1955 (2020年12月13日)
■ ニールス・ボーア Niels Bohr 1885-1962 (2020年12月15日)
■ ヴェルナー・ハイゼンベルク Werner Heisenberg 1901-1976 (2020年12月19日)
■ エンリコ・フェルミ Enrico Fermi 1901–1954 (2020年12月24日)
■ ポール・ディラック Paul Dirac 1902-1984 (2020年12月31日)
□ ロバート・オッペンハイマー Robert Oppenheimer 1904-1967

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%88
※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」吉岡書店、2003年。

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(35)電気がない時代に光のスピードを正確に測定した:A・フィゾーさん

▼フリッシュさんは1930年から3年間、ハンブルグ大学のオットー・シュテルンさんの下で実験を行う。その一つが原子や分子のビームの回折を確認する実験だ。「特定の速度の原子を選ぶためには、フランス人のアーマン・フィゾウが1849年に光の速度を測定したときのトリックをコピーすることにした」(p.54)
▼80年前の実験手法を使えるのが驚き。しかし、フィゾウさんが仲間のフーコーさんと行ったこの実験は光の速度を測定するのが目的で歴史を刻む結果を得ている手法だった(下に解説動画のURLを紹介しています)。
▼シュテルンさんが行った実験は400個のスリットを入れた金属円盤を2枚回転させビームを通して行うもの。出た結果が式と比べて3%誤差がある。しかしシュテルンさんは1%で設計していたので見直しをかける。どこも問題ない。念のためシュテルンさんがフリッシュさんにスリットの数を数えるように言う。その結果、408あることが分かり(外注していた金属円盤製作のミス)、2%の差の原因が突き止められた。

アルマン・フィゾー Armand Fizeau 1819-1896
1819年、フランス生まれ。父はパリ医科大学の教授(病理学)。
教育
パリにある一流私学のコレージュ・スタニスラスで学ぶ。
1839年(20才)写真の露光時間を30分から20秒に短縮。
1840年(21才)パリ医科大学入学。レオン・フーコーさんと出会う。偏頭痛のため医学を諦め療養。物理に転換、フランス大学で光学を学ぶ。
1845年(26才)数学者フランシス・アルゴさんの勧めを受け、フーコーさんと太陽黒点の写真撮影に挑み、成功。
活動
1849年(30才)アルゴさんが二人に光の速度の測定を提案。フーコーさんと回転歯車を用いて光速度を測定。3.15×105km/s レジオン‐ドヌール賞を受賞。
1850年(31才)フーコーさんが空中より水中のほうが光速度が低下すると発見。
1851年(32才)動く水中の光速度を測定する実験。
1853年(34才)結婚。
1860年(41才)科学アカデミー会員。
1865年(46才)フーコーさんが科学アカデミー会員。
1896年(77才)死去。

□ レオン・フーコー Léon Foucault 1819-1868 フランスの物理学者。

【動画】目視から回転歯車まで!光の速さはどう測る?

【動画】2重スリットの実験

https://mathshistory.st-andrews.ac.uk/Biographies/Fizeau/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%BE%E3%83%BC
※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」吉岡書店、2003年。

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(34)大戦のたびに強制収容所に入れられた物理学者:P・プリングスハイムさん

▼フリッシュさんのベルリン時代の最後の年を過ごしたのがプリングスハイム先生の研究室だった。自伝によると「光量子を車の車輪のように進行方向と直角な軸に対して回転させることによって、光量子に余分の運動量を持ち去らせるようなやり方を思いついた」(p.46)ので、実験をやりたいと思った。
▼この話を聞いて叔母のリーゼ・マイトナーさんが紹介してくれたのがプリングスハイムさんだった。プリングスハイム先生は研究室の使用を許可しアルバイトの仕事まで提供してくれた。
▼実験そのものは「明白に否定的な結果」(p.47)で、その理由についてはJ・フランクさんが解説してくれた(1月25日)。
▼ピーター・プリングスハイムでWikipediaを引いても出てこない。何かの拍子でドイツ語のWikipediaに出ているのを発見、日本語表示にして年表を作った。こういうことができるのでWikipediaは本当にありがたい。

ピーター・プリングスハイム Peter Pringsheim 1881-1963
1882年、ドイツのミュンヘン生まれ。ユダヤ人。父は数学者。裕福な家庭。
教育
1899年(17才)ミュンヘンのヴィルヘルム・ギムザイウムを卒業。
1900年(18才)ミュンヘン大学入学。
1906年(24才)ミュンヘン大学で博士(物理学)。(指導教員はW・レントゲン先生)
1908年(26才)ベルリン大学物理学研究所で研究。
活動
1914年(32才)オーストラリアで開催された英国学術協会の会議に参加中にWWIが勃発、敵国人として収容所に収容。蛍光とリン光について文献のみで研究(1918年まで)。
1918年(36才)WWI終戦
1919年(37才)釈放、ベルリンに戻る。
1920年(38才)ポールさんは教授資格を取得、ゲッティンゲン大学で教授。
1921年(39才)収容所での研究成果を出版。
1925年(43才)ベルリン大学で講師。
1927年(45才)フリッシュさん(23才)がPTRの光学部門で研究。
1930年(48才)ベルリン大学で私講師。フリッシュさん(23才)がPTRからハンブルグに移るまでの1年間、研究室の使用を許可すると共にパートタイムとしても雇う。
1933年(51才)国家社会主義者による圧迫でベルリン大学を退職。
1939年(57才)WWII
1940年(58才)ナチスに逮捕され強制収容所に入れられる。義兄弟のトーマス・マンさんの尽力で収容所から救われ、渡米。シカゴ大学にいたJ・フランクさんの尽力でカリフォルニア大学で研究。
1943年(61才)アメリカ物理学会のフェロー。
1945年(63才)WWII終戦
1947年(65才)アルゴンヌ国立研究所(1954年まで)。
1961年(79才)ギーセン大学から名誉博士号。
1964年(82才)ベルギーのアントワープで死去。

▼師匠・関係筋
師匠
■ ヴィルヘルム・レントゲン Wilhelm Röntgen 1845–1923 (2020年6月12日)

関係筋
■ ジェイムズ・フランク James Franck 1882-1964 (2021年1月25日)
ベルリン大学時代の同僚。WWIIでドイツから渡米したとき、引き受け手になった。

□ トーマス・マン Thomas Mann 1875-1955 作家。プリングスハイムさんの妹の夫。

■ リーゼ・マイトナー Lise Meitner 1878-1968 (2020年8月23日)
挑戦的な実験を思いついたフリッシュさんをプリングスハイムさんに引き合わせた。プリングスハイムさんは、研究室の利用を許可し、パートタイムとしても雇用した。

https://de.wikipedia.org/wiki/Peter_Pringsheim

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」吉岡書店、2003年。

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(33)リーゼ・マイトナーさんの終生にわたるよき友人:J・フランクさん

ジェイムズ・フランク James Franck 1882-1964

▼J・フランクさんの人物スケッチ:
ドイツ生まれのユダヤ人物理学者。ベルリン大学で博士号を取得。リーゼ・マイトナーさんとはベルリン大学で会ったときから、信頼できる友人同士。G・ヘルツさん(1月24日)と行った「フランク=ヘルツの実験」でノーベル物理学賞(原子と電子の衝突に関する研究)を二人で受賞。ナチス政権のユダヤ政策のためドイツを離れ、アメリカに渡りマンハッタン計画に参加。

▼フリッシュさんの22才年上。フリッシュさんの自伝には「実験は明白に否定的な結果となった。後に、私がその結果についてジェームス・フランクと議論したとき、フランクは私の推理のどこが間違っていたのか話してくれた」(p.47)という記述で初めて登場する。

▼簡単年表
1906年(24才)ベルリン大学で博士
1912年(30才)グスタフ・ヘルツさんと「フランク=ヘルツの実験」
1925年(43才)ヘルツさんとノーベル物理学賞を受賞(原子と電子の衝突に関する研究)
1926年(44才)フランク=コンドンの原理
1942年(60才)マンハッタン計画
1945年(63才)フランクレポート

▼フランクさんの歩み:
下記ブログに記載

L・マイトナーさんの歩みに影響した人物(10) ジェイムズ・フランクさん

▼師匠・弟子・関係筋
師匠
□ エミール・ワールブルク Emil Warburg 1846-1931
ベルリン大学で博士号を取得したときの指導教員。物理学者。

■ マックス・プランク Max Planck 1858-1918 (2020年9月9日)
ドイツ人物理学者。ベルリン時代の師匠。

弟子
□ Wilhelm Hanle
□ Arthur R. von Hippel
□ Theodore Puck

関係筋
■ フリッツ・ハーバー Fritz Haber 1868-1934 (2020年9月14日)
ドイツのユダヤ人物理化学者。WWIのときドイツ軍のために毒ガスを開発し実行した。

■ マックス・フォン・ラウエ Max von Laue 1879-1960 (2020年9月17日)
ベルリン大学の同僚。ドイツ人のノーベル賞物理学賞学者。マイトナーさんの生涯の友人。

■ マックス・ボルン Max Born 1882-1970 (2020年10月11日)
同じ年の友人。ドイツ生まれのユダヤ人物理学者。

■ ニールス・ボーア Niels Bohr 1885-1962 (2020年12月15日)
デンマークの物理学者。ニールスボーア研究所所長。ナチス軍がデンマークを占領したとき、研究所で預かっていたフランクさんとラウエさんのノーベル賞の金メダルを略奪されないよう王水に溶かして隠した(実行したのはハンガリー人のノーベル化学賞受賞者ヘヴェシーさん)。

■ リーゼ・マイトナー Lise Meitner 1878-1968 (2020年8月23日)
生涯を通した友人。核分裂を発見した物理学者。

■ オットー・ハーン Otto Hahn 1879-1968 (2021年1月1日)
ベルリン大学時代の同僚。WWIの時、一緒に軍務についた。ドイツ人科学者。

■ アルベルト・アインシュタイン Albert Einstein 1879-1955 (2020年12月13日)

■ グスタフ・ヘルツ Gustav Hertz 1887-1975 (2021年1月24日)

■ アーサー・コンプトン Arthur Compton 1892-1962 (2020年10月8日)
アメリカの物理学者。マンハッタン計画で重要な役割を担った。

■ エドワード・テラー Edward Teller 1908-2003 (2020年10月6日)
ハンガリーのユダヤ人核物理学者。マンハッタン計画の後、水爆計画に参加。

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」吉岡書店、2003年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(32)電磁波を発見した:H・ヘルツさん

▼ハインリヒ・ヘルツさんは、電磁波を発見し、発信・受信装置を開発したドイツの物理学者。電波の時代を開いた人物だけど、電磁波は存在するだけでそれ以上のものはないと考えていたようだ。電磁波の可能性は他の学者たちによって開かれた。
▼病気のため37才という若さで亡くなった

ハインリッヒ・ヘルツ Heinrich Hertz 1857-1894
1857年、ドイツのハンブルク生まれ。父は弁護士、政治家。裕福な家。
教育
ハンブルグのギムナジウム、ヨハネウム学院で学ぶ。アラビア語、サンスクリット語、科学に興味を持つ。
ドレスデン大学、ミュンヘン工科大学、ベルリン大学で科学と技術を学ぶ。気象学にも関心。
1880年(23才)ベルリン大学でPhD(指導教員はヘルムホルツ先生)。ヘルムホルツ先生の助手(1883年まで)
活動
1883年(26才)キール大学で講師(理論物理)。
1885年(28才)カールスルーエ大学で教授。
1886年(29才)結婚。接触力学の研究、論文発表(1889年まで)。「ヘルツアンテナ」の受信装置や極超短波送信用のダイポールアンテナを開発。
1887年(30才)電磁波を発見。電磁波の発信と受信を実験。光電効果を発見。
1889年(32才)ボン大学で教授(1894年まで)。
1892年(35才)陰極線がアルミニウム箔を通過する実験。
1894年(37才)ボンで病死。

▼師匠・弟子・関係筋
師匠
■ ヘルマン・ヘルムホルツ Hermann Helmholtz 1821-1894
■ グスタフ・キルヒホフ Gustav Kirchhoff 1824-1887
弟子
□ ヴィルヘルム・ビヤークネス Vilhelm Bjerknes 1862–1951 気象学者。
関係筋
■ グスタフ・ヘルツ Gustav Hertz 1887-1975 1925年にノーベル物理学賞を受賞した親戚(甥の息子)。

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」吉岡書店、2003年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%84
https://en.wikipedia.org/wiki/Heinrich_Hertz

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(31)ボーアさんの弟子になったソ連の理論物理学者:L・ランダウさん

▼フリッシュさんの自伝でランダウさんはアインシュタインさんのエピソードを語る時に登場する。ドイツ物理学会の会合で講演したアインシュタインさんに「ホールの後ろから若者が立ち上がり、下手なドイツ語と最も驚くべきマナーで質問を始めた。ホールの誰もが振り返って、その無礼な若者を見た。ただアインシュタインを除いては」。アインシュタインさんは考え込んだあと「今、後ろの若い人が言ったことは完全に正しい」と答えた(p.44)。その若者がランダウさんである。
▼このエピソードだけだとランダウさんに対する印象は芳しくない。しかし、ボーアさんを師と仰ぎ、年表のとおり政治を批判して投獄されたり、助けてもらったり、意に沿わない研究が水爆製造に貢献してメダルになったり、ノーベル賞を受けたりとドラマチックな人生である。

レフ・ランダウ Lev Landau 1908-1968
1908年、アゼルバイジャンのバクー生まれ。父は石油技術者、母は勉強家で教育熱心。豊かなユダヤ人家庭。
教育
1914年(6才)WWI。子供時代から数学の神童。
1918年(10才)WWI終戦。530万人の犠牲者を出す。二月革命が起きロシア帝政が終わる。
1920年(12才)微分法をマスター。
1921年(13才)積分法をマスター。ギムナジウムを卒業。バクー経済技術学校に入学。
1922年(14才)バクー国立大学入学。物理数学科と化学科に在籍。ソビエト連邦の設立。
1924年(16才)レニングラード国立大学に転学。理論物理学を学ぶ。レーニンが死去、権力闘争が発生、スターリンが政権。
1927年(19才)レニングラード国立大学卒業。レニングラード物理工学研究所。
1929年(21才)ロックフェラー財団の奨学金を得て国外留学(1931年まで)。ドイツ語、フランス語、英語が使えた。
1930年(22才)コペンハーゲンのニールス・ボーア理論物理研究所で研究。ボーアさんの弟子になる。ケンブリッジでポール・ディラックさんと共同研究。ピョートル・カピッツァさんとの議論からランダウ反磁性理論をまとめる。
1931年(23才)チューリッヒでヴォルフガング・パウリさんと研究した後、レニングラードに戻る。
1932年(24才)ハリコフ物理工学研究所で理論物理部長。エフゲニー・リフシッツさんと「理論物理学教程」を執筆。
1934年(26才)レニングラード物理工学研究所でD.Sc.(物理と数理科学)。
活動
1937年(29才)モスクワの科学アカデミー物理問題研究所(カピッツァさんが所長)で理論物理部長。スターリンの大粛清(1938年までに68万人が死刑、63万人が強制収容所送り)。
1938年(30才)スターリンを批判したため逮捕、刑務所で服役
1939年(31才)WWII。物理問題研究所所長カピッツァさんの嘆願で釈放。結婚。
1940年(32才)ソビエトの核開発プロジェクトに強制参加。考案した数値計算手法が水素爆弾の開発に貢献
1941年(33才)ヘリウム4の超流動現象を理論的に説明する論文を発表。
1943年(35才)モスクワ大学で教授。
1945年(37才)WWII終戦
1946年(38才)スターリン賞を受賞。ソビエト科学アカデミー会員。
1953年(45才)スターリン死去、核開発プロジェクトから脱退。
1954年(46才)社会主義労働英雄称号を授与。
1960年(52才)マックスプランク・メダル受賞
1962年(54才)交通事故で瀕死の重傷。ノーベル物理学賞受賞(凝集系の物理、特に液体ヘリウムの理論的研究)。式典には出席できず。
1965年(57才)同僚や元学生がランダウ理論物理学研究所を設立。
1968年(60才)交通事故の後遺症のためモスクワで死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E3%82%A6
https://en.wikipedia.org/wiki/Lev_Landau
オットー・フリッシュ著、松田文夫訳「何と少ししか覚えていないことだろう -原子と戦争の時代に生きて-」吉岡書店、2003年。

▼師匠・弟子・関係筋
師匠
■ ニールス・ボーア Niels Bohr 1885-1962
弟子
□ エフゲニー・リフシッツ Evgeny Lifshitz 1915-1985 教科書「理論物理学教程」の共同執筆者。
□ アレクセイ・アブリコソフ Alexei Alexeyevich Abrikosov 1928-2017 2003年ノーベル物理学賞受賞(超伝導と超流動の理論に関する先駆的貢献)。
関係筋
■ アルベルト・アインシュタイン Albert Einstein 1879-1955
□ ピョートル・カピッツァ Pyotr Kapitsa 1894-1984 ラザフォードさんのもとで研究したロシアの物理学者。
■ ヴォルフガング・パウリ Wolfgang Pauli 1900-1958 共同研究を行った。
■ ポール・ディラック Paul Dirac 1902-1984 共同研究を行った。

閑話休題 高校の物理と化学の参考書に出る科学者をリストにしてみた

▼マックス・プランクさんの関係者紹介は前回の星一さんで打ち止め。再び、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者に戻ります。その前に、この数か月、科学者の年表を調べていると、私は物理学だけ!とか、化学だけ!とかじゃなくて、物理も化学も両方やっている人が多い。道具として数学を使っている。哲学をやっている人もいる。あんま関係ないけど、プランクさんもフリッシュさんもピアノの名手。

▼高校の物理と化学の参考書でできるだけ分厚くて詳しいやつ(平尾淳一『総合的研究物理』旺文社、2018年。卜部吉庸『化学の新研究』三省堂、2019年。)を選んで、コラムで紹介されている科学者をリストにしてみた。

▼物理は39名、化学は24名いた。両方の参考書に出ていた人は次の5名。
ロバート・ボイル
ジャック・シャルル
アメデオ・アボガドロ
アレッサンドロ・ボルタ
マイケル・ファラデー

▼物理39名のうち、このブログで取り上げた人(太文字)は28名(72%)。化学は24名のうち10名(42%)。少し物理に寄っているようだ。ここに出てくる人は、数学・物理・化学(あと哲学や言語も)を自分の道具にして良い仕事をした。良い仕事をするための条件は他にもあるけど(例えば、出会いとか時代背景など自分ではコントロールできない条件、あるいは、やる気とか時間の使い方とか自分でコントロールできる条件)、条件の一つにこれらの教科の学力があることは間違いない。