リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(23)電子の状態を数学で説明した:P・ディラックさん

▼フリッシュさんの自伝でディラックさんについて次のように説明している。(p.33)
・シュレディンガーの方程式をアインシュタインの相対性理論に適合するように修正した。
・線スペクトルの微細構造とゼーマン効果を説明できた。
・純粋数学の技術力の素晴らしい証明。
・大勢の実験家たちは、まだ彼ら数学屋が何をやっているか、ついていけた日々を、悲しみと共に思い起こす。
▼ディラックさんの数学理論は、物理学実験の専門家にも難しいようだ。それはそれとしておこう。
▼ディラックさんはケンブリッジ大学時代、無口で有名で、同僚が冗談で、1時間につき1単語を1ディラックという単位を作った。YouTubeには話をしている80才のディラックさんが見られる。

ポール・ディラック Paul Dirac 1902-1984
▼ディラックさんの年表は10月3日のブログを参照。

L・マイトナーさんと同時代の科学者(23) P・ディラックさん

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」吉岡書店、2003年。

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(22)原子のモデルを前進させた:E・シュレディンガーさん

▼フリッシュさんの自伝では「シュレディンガーの方程式は原子の新しいモデルであり、電子は軌道を回る小惑星というよりも、いまや脈動する雲のようなものに似ていた」(p.31)と書いてある。この「脈動する雲」が分かりにくさの象徴的表現。原子核の周りを電子が軌道に乗って回っているモデルから離れられない理由でもある。
▼フリッシュさんはシュレディンガーさんの講義の語り口について「私に、教室のベンチから飛び上がって喝采を送りたいと思わせた唯一の講師」と記している(p.32)
▼Wikipediaの写真からは、難しそうな人物というイメージがある。しかし、当時の大学教授が暑い日でも威厳を示す姿で講義をしていたとき、シュレディンガーさんは開襟シャツと使い古しのテニスシューズで講義をしていた(p.32)。著者によるスナップ写真からも検索して見つかる写真にはない親しみが伝わってくる。

エルヴィン・シュレディンガー Erwin Schrödinger 1887-1961
18877年、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン生まれ。父は企業家、植物学者。
教育
ギムナジウムで自然科学、古典言語、ドイツの詩、ドイツ哲学者を学ぶ。
1906年(19才)ウィーン大学に入学。物理学を専攻。ボルツマンさんがうつ病で自殺、後任がフリードリヒ・ハーゼノール先生。
1910年(23才)ウィーン大学で博士(指導教員はハーゼノール先生)。
活動
1911年(24才)ウィーン大学物理学研究室 Franz S. Exner (1849–1926)先生の助手。ショーペンハウエルの哲学に傾倒。
1914年(27才)WWI。オーストリア軍で砲兵部隊の将校。
1915年(28才)ハーゼノール先生が戦死。
1918年(31才)WWI終戦
1920年(33才)結婚。フリードリヒ・シラー大学イェーナで物理学者マックス・ヴィーン先生の助手。シュトゥットガルト大学の准教授。
1921年(34才)ブレスラウ大学(現在はヴロツワフ大学)で教授。スイスのチューリッヒ大学でマックス・フォン・ラウエさんの後任として教授(数理物理学)(1927年まで)。化学者ピーター・デバイ先生、数学者ヘルマン・ワイルさんと交流。
1925年(38才)ド・ブロイさんの物質波の考えからシュレーディンガー方程式を導く。
1927年(40才)フンボルト大学ベルリンで(マックス・プランクさんの後任)教授。
1933年(46才)ナチスのユダヤ人学者の弾圧に反対してベルリン大学を辞職。オックスフォード大学でフェロー。ポール・ディラックさんとノーベル物理学賞受賞(新形式の原子理論の発見)
1934年(47才)プリンストン大学で講義。
1935年(48才)「シュレーディンガーの猫」の思考実験を提唱。
1936年(49才)オーストリアのグラーツ大学で教授。
1937年(50才)マックス・プランク・メダル授与。
1938年(51才)ナチスドイツがオーストリアを併合。グラーツ大学の教授職を解任。
1939年(52才)WWII。夫妻でダブリンに亡命、ダブリン高等研究所で研究。
1943年(56才)ダブリンのトリニティ・カレッジで講演。
1944年(57才)『生命とは何か』を発表。
1945年(58才)WWII終戦
1948年(61才)アイルランドで市民権。
1952年(65才)『科学とヒューマニズム』を発表。
1955年(68才)ダブリン高等研究所を定年退職。
1956年(69才)オーストリアに帰国しウィーン大学で教授。
1958年(71才)『精神と物質』を発表。
1961年(74才)ウィーンで死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC

L・マイトナーさんと同時代の科学者(22) E・シュレーディンガーさん

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」吉岡書店、2003年。

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(21)電子の波動性を発見:ド・ブロイさん

▼フリッシュさんの自伝によると「光は1800年以来、波と認識されていた」。この認識をプランクさんとアインシュタインさんが「光は空間を粒子のように飛ぶ光子から成る」と更新する。ド・ブロイさんは電子に着目。「電子も1897年の発見以来、粒子と認識されているが、ある状態では波のように振る舞うのではないだろうか」と考えた、と紹介している(p.31)。
▼数年後にこの考え方の正しさが実験で実証される。実験や数式で説明されていく一方で、核の周りを電子が回転する原子のモデルが時代遅れになっていく。・・・といってもこっちのアタマが古い原子モデルのままなので、いったいどういうことになっているのか?が続出。
▼フリッシュさんは「空間の量子化はこうして確立された」(p.30)という。量子化とは連続的なアナログ値を四捨五入してキリの良いデジタル値にすることを言う。しかし、原子モデルは分かりやすい(キリの良い)姿から離れてイメージしにくい姿へと進んでいく。デジタルで計算できるようにすること、イコール、分かりやすくできる、と考えたからイカンのだな。
▼高校生のとき、転校した友達から「ド・ブロイ波について述べよ」という手紙をもらったのを思い出した。今でも述べられましぇん。

ルイ・ド・ブロイ Louis de Broglie 1892-1987
1892年、フランスのディエップ生まれ。貴族の家系。
教育
ソルボンヌ大学で歴史学を専攻。兄の影響で物理学にシフト。
1910年(18才)パリ大学でBA(歴史学)。
1913年(21才)パリ大学でBA(科学)。
1914年(22才)WWI。入隊しエッフェル塔で電波技術者。潜水艦との無線通信技術を追求。
1918年(26才)WWI終戦。兄(第6代当主モーリス・ド・ブロイ)と自宅の実験室で研究。
1924年(32才)パリ大学で博士(物理学)。アインシュタインさんの光電効果・電磁波の粒子性論(1905年)、コンプトンさんの電子によるX線の散乱(1923年)を念頭にド・ブロイ波(粒子である電子が波のように振る舞う)を提唱。博士論文に対しアインシュタインさんがノーベル賞を取れるとお墨付きを出す。
活動
1926年(34才)ソルボンヌ大学で授業。
1927年(35才)ド・ブロイ波の理論が実験で検証される。
1928年(36才)アンリ・ポアンカレ研究所で教授(理論物理学)。
1929年(37才)ノーベル物理学賞を受賞(電子の波動性の発見)
1938年(46才)マックス・プランク・メダル受賞。
1939年(47才)WWII
1944年(52才)アカデミー・フランセーズ会員。
1945年(53才)WWII終戦
1960年(68才)兄が死去。公爵家の当主になる。
1962年(70才)アンリ・ポアンカレ研究所を退任。
1987年(95才)パリ郊外ルーヴシエンヌで死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%A4
https://en.wikipedia.org/wiki/Louis_de_Broglie

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」吉岡書店、2003年。

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(20)シュテルン=ゲルラッハの実験:W・ゲルラッハさん

▼ゲルラッハさんは放射線が専門の物理学者。32才のとき、1つ年上のシュテルンさんと共同でナイフの刃のようにした磁石の上を銀電子ビームを通過させて、磁界の影響が現れる歴史的実験を行った(p.30)。
▼WWII終戦後、連合軍に一度は抑留され、イングランドのファーム・ホール暮らしの経験がある。ドイツに戻ってからは大学や研究所で戦後ドイツの復興に尽力する。
▼WWIIの時期、ドイツの大学にいたユダヤ人は追放、ドイツ人はナチに積極的に協力するか、従うフリをするか、反対するか。フリッシュさんが生きた時代は、平和な時には現れないであろう人の行動・選択が見えてきたに違ない。

ヴァルター・ゲルラッハ Walther Gerlach 1889-1979
1889年、ドイツのラインラント=プファルツ州ビーブリッヒ生まれ。父は医学博士。
教育
1908年(19才)テュービンゲン大学入学。
1911年(22才)フリードリッヒ・パッシェン先生の助手。
1912年(23才)テュービンゲン大学で博士(指導教員はパッシェン先生)。
活動
1914年(25才)WWI
1915年(26才)ドイツ陸軍で兵役に就く。無線電信に取り組む。
1916年(27才)テュービンゲン大学で講義資格を取得、私講師となる。
1917年(28才)ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲンで私講師。
1918年(29才)WWI終戦
1919年(30才)Farbenfabriken Elberfeld物理学研究所で所長(1920年まで)。
1920年(31才)ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ大学フランクフルト・アム・マインでティーチングアシスタントと講師。
1921年(32才)ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ大学フランクフルト・アム・マインで員外教授。オットー・シュテルンさんと共にシュテルン=ゲルラッハ効果(磁場中のスピン量子化)を発見
1925年(36才)パッシェン先生の後継としてテュービンゲン大学で正教授。
1929年(40才)ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘンで正教授。
1937年(48才)カイザー・ヴィルヘルム学術振興協会の監査委員会委員(1945年まで)。
1939年(50才)WWII
1945年(56才)WWII終戦アメリカ・イギリス軍から逮捕。フランス、ベルギー、イングランドのFarm Hallで抑留生活。
1946年(57才)ボン大学で客員教授。マックス・プランク研究所で役員。
1948年(59才)ミュンヘン大学で正教授(実験物理学)、学長(1951年まで)。物理学科の学科長(1957年まで)。
1949年(60才)フラウンホーファー研究機構の初代機構長(1951年まで)。ドイツ研究扶助・振興協会の副会長(1961年まで)。
1979年(90才)ミュンヘンで死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%8F

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」吉岡書店、2003年。

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(19)電子が磁界の影響を受ける実験を行った:O・シュテルンさん

▼フリッシュさんはシュテルンさんのことを自伝で「私が1930年にオットー・シュテルンのもとで仕事を得られたことはたいへん幸運であり、シュテルンと働いた三年間は私の人生の中で最も幸せで実り多いものだった」(p.31)と表現している。
▼1922年の「シュテルン=ゲルラッハの実験」は「電子は単に負の電荷をもつ小さい球のようにではなく、回転する球のように、従って磁石のように振る舞う、という発見に導いた」(p.31)。私が学校で習った記憶では電子は負の電荷を持つ小さい球だった(ような気がする)。回転する球?磁石のように振る舞う?
原子モデルが更新されるに伴い、イメージするのが難しくなる。

オットー・シュテルン  Otto Stern 1888—1969
1888年、プロイセン王国のゾーラウ(現在、ポーランドのジョルィ)生まれ。ユダヤ人。
教育
1912年(24才)ブレスラウ大学(現ポーランドのヴロツワフ大学)を卒業。
1914年(26才)WWI。フランクフルト大学(1921年まで)。教授資格を取得。
活動
1918年(30才)WWI終戦
1919年(31才)実験物理学にシフト。原子線、分子線の実験方法を開発。
1921年(33才)ロストック大学で教授。
1922年(34才)シュテルン=ゲルラッハの実験。電子にスピンがあることを示す実験。加熱・蒸発した銀粒子のビームが磁界中を通過すると2点に分かれる。
1923年(35才)ハンブルク大学で教授(物理化学)。
1930年(42才)オットー・フリッシュさん(26才)を助手に採用
1933年(45才)ナチス政権にハンブルク大学を追われて渡米、カーネギー工科大学で教授。フリッシュさんが渡英できるよう手配
1939年(51才)WWII
1943年(55才)ノーベル物理学賞受賞(原子線法の開発と陽子の磁気モーメントの発見)
1945年(57才)WWII終戦。カーネギー大学の研究所を引退。
カリフォルニア大学バークレー校名誉教授。
1969年(81才)カリフォルニア州バークレーで死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%B3#:~:text=%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%B3%EF%BC%88%E8%8B%B1%E8%AA%9E%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC,%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E7%89%A9%E7%90%86%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%80%82

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」吉岡書店、2003年。

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(18)原子の線スペクトルを磁場で分割:P・ゼーマンさん

▼原子の線スペクトルの現れ方は固有のもので原子の指紋、というところまで解明された。しかし、分光器が発達して高精度になると、線スペクトルが2本あったり数本あることが分かってきた。そこでゼーマンさんは強力な磁石の極の間に励起された原子を置いたところ、線スペクトルが分割される状態(ゼーマン効果)を発見した。
▼状態が「普通」で分光器(測定装置)が高精度になると、それまで見えてなかったものが見えてきて、これは何だ?ということになる。ゼーマンさんは状態を「普通」から「励起」に変えて実験したところ、新しい発見があった、という話だ。ツールと状態の両方を変えて新しい発見に至った、というのは日常の問題解決にも使えそうな話。
▼フリッシュさんの自伝ではゼーマンさんの仕事を「磁場によるこの影響は、伝統的な物理学によって大まかには解説されていた。ボーアのモデルもまたこの現象を説明できた」(p.29)と整理している。

ピーター・ゼーマン Pieter Zeeman 1865-1943
1865年、オランダのゾンネメレ生まれ。父は聖職者。
教育
幼少時から物理に興味。
1883年(18才)オランダに現れたオーロラを観測しスケッチと解説をネイチャー誌に投稿、掲載される。
大学進学のためオランダの都市デルフトのギムナジウムで古典言語を学ぶ。
1885年(20才)大学入学資格試験に合格。ライデン大学入学。ヘンドリック・ローレンツ先生とカメルリング・オネス先生について物理学を専攻。
1890年(25才)ローレンツ先生の助手として磁気光学カー効果を研究。
1893年(28才)ライデン大学で博士(指導教員はカメルリング・オネス先生)。
1894年(29才)ストラスブールのF・コールラウシュ先生の研究室で研究。
活動
1895年(30才)ライデン大学で私講師(数学、物理学)。結婚。
1896年(31才)強い磁場の影響で線スペクトルが分割する現象「ゼーマン効果」を観察。原子構造の解明に役立つ。磁場の実験は上司の命令に違反するものだったためライデン大学を解雇。
1897年(32才)アムステルダム大学で講師(物理学)。
1898年(33才)オランダ王立芸術科学アカデミーの会員。
1900年(35才)アムステルダム大学で教授(物理学)。
1902年(37才)ローレンツ先生と共にノーベル物理学賞を受賞(放射に対する磁場の影響の研究)
1908年(43才)アムステルダム大学物理学研究所で所長(ヨハネス・ファン・デル・ワールス先生の後任)。
1912年(47才)オランダ王立芸術科学アカデミーの会長(1920年まで)。
1914年(49才)WWI。
1918年(53才)WWI終戦。
1921年(56才)ヘンリー・ドレイパー・メダルを受賞。
1935年(70才)アムステルダム大学で名誉教授。
1943年(78才)アムステルダムで死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%BC%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」吉岡書店、2003年。

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(17)4つの数字を見るとその関係を式に表せる能力者:J・バルマーさん

▼元素を燃やして生じる炎を分光器にかけると固有の線スペクトルが現れる。水素原子は4本の線スペクトルを持つ。
▼「バルマーの自慢は、どんな4つの数が与えられても、その数を結び付ける数式を見つけ出すこと」(p.28)だったので、バルマーさんの友達が、水素原子の4つの線スペクトルの波長をバルマーさんに見せたところ、バルマーさんは関係式を導き出した。そして1885年に発表した。だが「誰もそこに物理的な意味を見出せず、単なる偶然の一致に留まっていた」(p.28)
▼しかし、原子モデルを追求していたニールス・ボーアさんがバルマーさんの式に出会った時、「全てがはっきりした」(p.28)。1913年、水素原子に関する論文を発表し量子力学の扉を開く。残念なことに、この時、バルマーさんは亡くなっている。

ヨハン・バルマー Johann Balmer 1825-1898
1825年、スイスのラウゼン生まれ。父は裁判官。
教育
数学が得意だったので、カールスルーエ大学、ベルリン大学で数学を専攻。
1849年(24才)バーゼル大学で博士。サイクロイドの研究。
活動
バーゼルの女子校の教師。バーゼル大学でも講義。
1868年(43才)結婚。
1885年(60才)水素原子の線スペクトルを記述する実験式を発表
1898年(73才)スイスのバーゼルで死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%82%B3%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%BC

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」吉岡書店、2003年。

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(16)世界初の原子炉を作った核物理学者:E・フェルミさん

▼フリッシュさんの自伝で、マクスウェルさん以来、物理学者は、難しい実験に挑戦する技能派と数学を扱う理論派のいずれかに専門化されるようになった、とした後で、フェルミさんを「両方の才能を持つイタリア人の天才」(p.27)と紹介している。
▼フェルミさんはマンハッタン計画に協力するためフリッシュさんがいるロスアラモスにやってくる。「せかせかしているようには見えなかったが、たいへん系統的に仕事をしたので、実に多くのことを成し遂げた」「日曜日には、いつも若い人々のグループと一緒に散歩に出かけた。このようにリラックスした飾らないやり方が完ぺきに身についた人物に、私はいままで会ったことがなかった」(p.208)とフェルミさんをスケッチしている。
▼E・フェルミさんの経歴等は9月14日のブログ(下のURL)で取り上げたので、そちらも見てもらうと、フリッシュさんの紹介の助けになろう。
▼フェルミさんがやった仕事は、元素に中性子を当てて人工の元素を作ったり、プルトニウムを作れる原子炉を作ったりと、それまで人類が踏み込んだことのない領域だ。

L・マイトナーさんの歩みに影響した人物(6) エンリコ・フェルミさん


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%9F

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」吉岡書店、2003年。

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(15) 古典電磁気学を完成:J・マクスウェルさん

▼フリッシュさんの自伝ではファラデーさんを「電磁場の斬新なアイデアを認識する洞察力のある、見事な実験家であった」と紹介している。続いてマクスウェルさんを「電磁気の数学的理論を作り上げたのはケンブリッジのキャベンディッシュ研究所の初代所長となったスコットランド生まれのマクスウェルであった」と紹介している(p.27)。
▼電磁波の速度は光と同じとしたり、土星の環が粒から成っていると論じたり、赤・緑・青のフィルターを使って史上初のカラー写真を撮影するなど、ガリレオさんの研究の香りを引き継ぎぐ一方で数学で電磁場を説明する新時代のアプローチを行う研究者だ。
▼フリッシュさんは「それ以来、物理学者はより難しい実験を行おうとする技能派と、精密さを増す数学を扱う理論派の、いずれかへと、より専門化されるようになった」(p.27)としてマクスウェルさんを分岐点と位置付けている。

ジェームズ・クラーク・マクスウェル James Clerk Maxwell 1831-1879
1831年、スコットランドのエディンバラ生まれ。父は弁護士。
教育
近所に学がなかったので母が教育(当時は珍しくなかった方法)。
1839年(8才)母が死去。家庭教師に教育を受ける。
1841年(10才)エディンバラ中等学校入学。
1845年(14才)自作の詩が『エディンバラ通信』に掲載。
1847年(16才)エディンバラ大学入学。
1850年(19才)ケンブリッジ大学ピーターハウスカレッジに入学。次の学期からトリニティカレッジ。
1854年(23才)トリニティカレッジ卒業。フェローとして研究と教育。
活動
1855年(24才)ファラデーさんの磁気力線に関する論文を発表。
1856年(25才)トリニティーカレッジの研究員。父が死去。スコットランドのマーシャルカレッジで教授(科学哲学)。
1857年(26才)懸賞論文「土星の環の構造と安定性」でケンブリッジ大学アダムズ賞受賞。
1858年(27才)結婚。
1860年(29才)キングス・カレッジ・ロンドンで教授(自然哲学)。
1861年(30才)光の三原色ごとのフィルターで撮影した3枚の写真を重ねて史上初のカラー写真に成功
1864年(33才)王立協会でマクスウェルの方程式を発表。
1865年(34才)研究に専念するためキングスカレッジを退職。
1868年(37才)論文で「電磁波」という用語を使用。電気と磁気の関係を論じる。
1871年(40才)ケンブリッジ大学が新設した実験物理学講座で初代教授
1874年(43才)キャヴェンディッシュ研究所の初代所長
1879年(48才)キャヴェンディッシュの遺稿を元に実験を行い論文集として発刊。ケンブリッジで死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%AB

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」吉岡書店、2003年。

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(14) 史上最高の実験家:M・ファラデーさん

▼ファラデーさんは小学校を出た後、14才から見習い奉公に出た科学少年。
▼当時のスター科学者デービーさんに憧れ22才で念願の助手になったもののデービーさんの奥さんからは身分の低い従者として扱われた。デービーさん夫妻の3年間のヨーロッパ旅行に同行し、その間、社会的身分の差を味わい続けた。イギリスに帰ってら科学者をやめようと思ったという。
▼さらにファラデーさんの目覚ましい活躍と世間から集まる注目に嫉妬したデービーさんが執拗な攻撃を加える。王立協会のフェローになるときもデービーさんは反対。別の人からの推薦でフェローになる。
▼フリッシュさんの自伝では、原子物理学を作ったのがボーアさん、ゾンマーフェルトさん、パウリさん、ボルンさん、ハイゼンベルクさんら理論家だけでなく、実験家が必要だった、という話でファラデーさんが出てくる。ファラデーさんを「ロンドン生まれで、学歴はなかったが世界的な名声を博した」「電磁場の斬新なアイディアを認識する洞察力のある、見事な実験家」と紹介している(p.27)。

マイケル・ファラデー Michael Faraday 1791-1867
1791年、イングランドのサリー州 ニューイントン・バッツ(現在のロンドンの南)生まれ。父は鍛冶屋の見習い。
教育
1805年(14才)小学校を出たあと近所の製本兼書店で見習い(1812年まで)。読書を通じて電気に興味。見習い仲間から絵の手ほどきを受ける。
1812年(21才)ロンドン市哲学協会で勉強。応援者から貰った入場券で化学者ハンフリー・デービーさんの講演会に何度も参加
活動
1812年(21才)自作したボルタ電池で硫酸マグネシウムを電気分解。
1813年(22才)王立研究所でデービーさんの化学助手従者兼実験助手としてヨーロッパ旅行に同行(1815年まで)。多くの知己を得る。
1821年(30才)結婚。
1823年(32才)塩素の液化に成功。
1824年(33才)王立協会フェロー。
1825年(34才)ベンゼンを発見。デービーさんの後任で英国王立実験所長
1829年(38才)デービーさん死去(50才)。
1831年(40才)電磁誘導を発見
1832年(41才)オックスフォード大学から名誉博士号授与。
1833年(42才)電気分解の法則を発見。王立研究所の初代フラー教授。
1838年(47才)スウェーデン王立科学アカデミーの外国人会員。
1844年(53才)フランス科学アカデミーの外国人会員。
1845年(54才)反磁性を発見。
1851年(60才)ロンドン万国博覧会の計画立案と評価。
1857年(66才)ナショナル・ギャラリー運営委員会委員。
1848年(57才)アルバート王配殿下の配慮でハンプトン・コート宮殿内で生活。
1858年(67才)引退。
1853年(62才)政府からクリミア戦争(1856年まで)のため化学兵器製造を打診され拒絶
1867年(76才)ハンプトン・コート宮殿内で死去。

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※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」吉岡書店、2003年。