リーゼ・マイトナーさんとキャヴェンディッシュ研究所の神々(番外編) X線回折法でペニシリンの分子構造を決定、ノーベル化学賞を受賞した:D・ホジキンさん

▼ホジキンさんは16才の時、母親からプレゼントされた本から結晶学に興味を持ち、その道に進む。
本の著者はローレンス・ブラッグさん(11月16日)の父親のヘンリー・ブラッグ氏。ローレンス・ブラッグさんはとキャヴェンディッシュ研究所の所長としてX線を使ってタンパク質の構造解析の研究を後押しした。
▼ホジキンさんが師匠に仰いだのはヘンリー・ブラッグ先生の下で博士号を取得したバナール先生だった。ホジキンさんは、バナール先生に鍛えられたX線回折法の技術を使ってペニシリンやビタミンB12の分子構造の決定。その功績でノーベル化学賞を受賞した。

ドロシー・クローフット・ホジキン Dorothy Crowfoot Hodgkin 1910-1994
1910年、エジプト王国カイロ生まれ。父は役人、母は考古学者。
教育
1920年(10才)化学に触れ興味を持つ。
1921年(11才)英国サフォーク州にある Sir John Leman Grammar Schoolに入学、化学を学ぶ。
1926年(16才)母から『物の本性について”Concerning the Nature of Things”』(物理学者ヘンリー・ブラッグさんが1925年に出した著書)を与えられ結晶学に興味を持つ。
1928年(18才)オックスフォード大学サマーヴィル・カレッジに入学。化学を専攻。
1932年(22才)オックスフォード大学サマーヴィル・カレッジをfirst-class honours degree(BA)で卒業。ケンブリッジ大学ニューナム・カレッジの博士課程に入学。指導教員は、有機化合物のX線結晶構造解析のジョン・デスモンド・バナール先生。
1934年(24才)オックスフォード大学で講師、研究員。
1935年(25才)バナール先生とペプシンのX線結晶構造解析を行い結晶の回折パターンを発見。
1937年(27才)ケンブリッジ大学でPhD。結婚。
活動
1939年(29才)WWII
1941年(31才)X線の実験データをコンピュータで解析ペニシリンの構造を決定(1949年まで)。
1945年(35才)WWII終戦
1948年(38才)ビタミンB12の構造を決定(1956年まで)。
1964年(54才)ノーベル化学賞(X線回折法による生体物質の分子構造の決定)
1969年(59才)インスリンの構造を決定(1956年まで)。
1970年(60才)ブリストル大学名誉総長(1988年まで)。
1976年(66才)コプリ・メダル受賞。
1994年(84才)死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%82%B8%E3%82%AD%E3%83%B3
https://en.wikipedia.org/wiki/Dorothy_Hodgkin

リーゼ・マイトナーさんとキャヴェンディッシュ研究所の神々(番外編) ノーベル賞の価値があるDNAのX線写真を撮影した:R・フランクリンさん

▼リーゼ・マイトナーさんとキャヴェンディッシュ研究所の神々というテーマになぜロザリンド・フランクリンさんが入っているのか。キャベンディッシュ研究所にいてDNAの二重らせん構造でノーベル賞を受賞した人たちの業績にフランクリンさんの仕事が大いに関係しているから。
▼問題は本人が知らないところで研究中の資料(DNAのX線写真)をライバルが見る機会が生じたことだ。

ロザリンド・エルシー・フランクリン Rosalind Elsie Franklin 1920-1958
1920年、ロンドン生まれ。ユダヤ人。父は銀行家。
教育
1926年(6才)西ロンドンにあるノーランド・プレイス学校に入学。子供時代から並外れた学力を示す。計算で遊ぶ。
1929年(9才)全寮制のLindores School for Young Ladiesに入学。
1931年(11才)女性とに物理学と化学を教える西ロンドンHammersmithにあるSt Paul’s Girls’ School に入学。科学、ラテン語、スポーツに秀でる。ドイツ語、フランス語も学ぶ。音楽のみ不得意。
1938年(18才)奨学金試験と大学試験に合格。父は奨学金を難民学生に譲ってはどうかと提案。
ケンブリッジ大学 Newnham Collegeに入学。自然科学を学ぶ。分光学が専門の Bill Price氏とデモ実験を担当。
1939年(19才)WWII
1940年(20才)フランスからの難民でマリ・キュリー研究所の学生だったAdrienne Weillさんと知り合う。
1941年(21才)ケンブリッジ大学でBA相当(当時、女性に学位が与えられなかった)を得て、実験担当として働く。
活動
1941年(21才)ケンブリッジ大学Newnham Collegeの研究フェローシップになり、ケンブリッジ大物理化学研究所の Ronald Norrish先生の下で働き始める。Norrish先生は重い酒癖と難のある性格のため、その下で研究は進められないと判断し辞任。
1942年才)国家奉仕法に基づいて英国石炭活用研究協会 BCURAでの仕事を得る。
1945年(25才)WWII終戦。ケンブリッジ大学でPh.D. 論文” The physical chemistry of solid organic colloids with special reference to coal”
1946年(26才)カンファレンスでWeillさんに フランス中央科学研究所長Marcel Mathieuさんを紹介してもらう。
1947年(27才)Marcel Mathieuさんにパリの化学研究所Jacques Mering さんを紹介してもらい、研究所に入る。MeringさんはX線解析法を使い人工繊維や非結晶物質の構造を調査しており、X線結晶学の手ほどきを受ける。石炭の結晶研究の進化に貢献「黒鉛化炭素」「非黒鉛化炭素」を命名する。
1950年(30才)キングスカレッジ・ロンドンで1953年まで研究ができる資金を獲得。 Medical Research Council’s (MRC) でジョン・ランドール氏が率いる生物物理ユニットで助教。ランドール氏の指示でDNA繊維のX線解析を開始。すでにDNAの解析を進めていたウィルキンス氏の教え子の Raymond Goslingさんを助手につける。ランドール氏の人事が後の摩擦の原因になる(ウィルキンス氏は自分はフランクリンさんの上の立場と解釈。フランクリンさんはウィルキンスさんと上下関係のない自立研究者と解釈)。3年間かけてDNAの探索研究を進める。
1953年(33才)キングスカレッジ・ロンドンの任期切れに伴いバーベック・カレッジに移る。研究環境の違いを「宮殿からスラムへ」と感じる。
1954年(34才)外部資金を取ってタバコ・モザイク・ウィルスの研究。
1958年(38才死去
1962年、クリック氏(11月26日)、ワトソン氏(11月27日)、ウィルキンス氏(11月28日)がノーベル生理学・医学賞を受賞。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%B3
https://www.chart.co.jp/subject/rika/scnet/31/sc31-3.pdf

リーゼ・マイトナーさんとキャヴェンディッシュ研究所の神々(15回の補足) クリック氏らと共に1962年のノーベル生理学・医学賞を受賞した:M・ウィルキンスさん

▼今回も前回に続き「リーゼ・マイトナーさんとキャヴェンディッシュ研究所の神々」と直接の関係はない。1962年のノーベル生理学・医学賞を前に紹介したクリック氏、ワトソンス氏の二人と共同受賞した人物。

モーリス・ヒュー・フレデリック・ウィルキンス Maurice Hugh Frederick Wilkins 1916-2004
1916年、ニュージーランドのパンガロア生まれ。
教育
1922年(6才)一家でイギリスに転居。
1929年(13才)King Edward’s School, Birmingham(1934年まで)
1935年(19才)ケンブリッジのセントジョンズ大学に入学。物理学を学ぶ。
1939年(23才)WWII
1940年(24才)バーミンガム大学で PhD
活動
1944年(28才)渡米、カリフォルニア大学バークレー校でマンハッタン計画に参加(1945年まで)
1945年(29才)WWII終戦
1946年(30才)イギリスに帰国。キングス・カレッジ・ロンドンで教授。ロザリンド・フランクリンさん(ロンドン大学のキングス・カレッジの博士研究生。DNAのX線回折写真を撮っていた物理学者。1958年に死去)らとX線回折によるDNAの構造研究
キャベンディッシュ研究所のクリックさんとワトソンさんにロザリンドさん撮影したX線回折写真を見せる。DNAの二重螺旋構造を推定。
1962年(46才)ノーベル生理学・医学賞を受賞(核酸の分子構造および生体における情報伝達に対するその意義の発見)
1959年(43才)王立協会フェロー
2003年(87才)”The Third Man of the Double Helix”発刊。
2004年(88才)死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B9
https://en.wikipedia.org/wiki/Maurice_Wilkins

リーゼ・マイトナーさんとキャヴェンディッシュ研究所の神々(15回の補足) クリック氏らと共に1962年のノーベル生理学・医学賞を受賞した:J・ワトソンさん

▼今回は「リーゼ・マイトナーさんとキャヴェンディッシュ研究所の神々」と直接の関係はない。1962年のノーベル生理学・医学賞を前回紹介したクリック氏、モーリス・ウィルキンス氏と3人で共同受賞した人物。

ジェームズ・デューイ・ワトソン James Dewey Watson 1928-
1928年、イリノイ州シカゴ生まれ。
教育
1939年(11才)WWII
1945年(17才)WWII終戦
1947年(19才)シカゴ大学卒業
1950年(22才)インディアナ大学大学院でPhD(生物学)
活動
1956年(28才)ハーバード大学で教授(生物学)(1976年まで)。
1962年(34才)ノーベル生理学・医学賞(核酸の分子構造および生体における情報伝達に対するその意義の発見)
1968年(40才)ニューヨークのコールド・スプリング・ハーバー研究所で所長(1993年まで)
1989年(61才)国立衛生研究所NIHの国立ヒトゲノム研究センターで初代所長(1992年まで)
1993年(65才)コールド・スプリング・ハーバー研究所で会長(2007年まで)。コプリ・メダル受賞。
2003年(75才)中国にワトソン・ゲノム科学研究所を設立。
2007年(79才)国立バイオテクノロジー情報センターNCBIが遺伝子情報を公開。差別発言が問題視される。
2014年(86才)ノーベル生理学・医学賞のメダルをクリスティーズの競売に出す。ロシアの富豪が落札し本人が持っておくべきと返還。
2019年(91才)テレビで差別発言を行い、コールド・スプリング・ハーバー研究所から名誉職を剥奪される。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%83%88%E3%82%BD%E3%83%B3

リーゼ・マイトナーさんとキャヴェンディッシュ研究所の神々(15) 物理学と生物学を結合させたアプローチでDNAの二重らせん構造を明らかにした:F・クリックさん

▼クリックさんはDNAの二重らせん構造を明らかにした科学者。専門の物理学の知識を生物学に適用してイノベーションを生み出した人。
▼クリックさんらがDNA研究をしていた時期にケンブリッジにいたリーゼ・マイトナーさんの甥のオットー・フリッシュさんによると、複雑な分子構造の解析には、たいへん複雑な計算を必要としたので電子計算機がなければ不可能であったという。ラッキーなことに、ケンブリッジ大学内にモーリス・ウィクルス先生が研究用に作った電子計算機あったのだった。

フランシス・ハリー・コンプトン・クリック Francis Harry Compton Crick 1916-2004
1916年、ロンドン北部ノーザンプトン生まれ。父は靴製造工場の経営者。
1918年(2才)WWI終戦
教育
1924年(8才)ノーザンプトン・グラマースクール入学
1928年(12才)科学に関心を持つ。教会通いをやめる。
1930年(14才)奨学金を得てロンドンのミル・ヒル高校に入学、数学・物理・化学を学ぶ。
1933年(17才)ミル・ヒル高校創立記念事業で親友のJohn Shilstonさんと共同でWalter Knox化学賞を受賞。
1937年(21才)ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジ UCLで修士(物理学)。PhD取得のため引き続きUCLに在学。
1939年(23才)WWII。英国海軍機雷研究所で、磁気、音響反応型の機雷の設計。ドイツ軍の掃海艇に対抗する新型機雷を設計
1945年(29才)WWII終戦。PhD取得のためケンブリッジ大学 Gonville and Caius カレッジに入り物理学を専攻。キャベンディッシュ研究所と医学研究協議会 MRCの分子生物学研究所で働く。ケンブリッジ大学チャーチヒルカレッジとUCLの名誉フェロー。
PhD学生の2年目でCarey Foster研究賞を受賞。
活動
1947年(31才)ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所で研究。物理学から生物学に転向して成功したジョン・ランドール先生の影響で生物学の研究を開始。
1949年(33才)ケンブリッジ大学でマックス・ペルーツ先生のタンパク質の構造解析プロジェクトに参加。X線でタンパク質の構造解析を行う。
1951年(35才)キャベンディッシュ研究所でワトソンさん(23才でPhD)と共にX線によるタンパク質の構造解析で得たノウハウをDNA解析に応用。
1953年(37才)NatureにDNAの二重螺旋構造を示す論文を投稿。
1954年(38才)学位論文 “X-Ray Diffraction: Polypeptides and Proteins” を書き終えケンブリッジ大学 Gonville and Caius カレッジでPh.D.(指導教員はマックス・ペルーツ先生) 渡米し、ブルックリン・ポリテク研究所で働く。
1959年(43才)王立協会フェロー
1962年(46才)ノーベル生理学・医学賞を受賞(核酸の分子構造および生体における情報伝達に対するその意義の発見)。ジェームズ・ワトソンさん、モーリス・ウィルキンスさんと共同受賞。
1972年(56才)ロイヤル・メダル受賞。
1975年(59才)コプリ・メダル受賞。
1994年(78才)「驚くべき仮説」”The Astonishing Hypothesis”発刊。
2004年(88才)カリフォルニア州サンディエゴで死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF
https://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Crick

リーゼ・マイトナーさんとキャヴェンディッシュ研究所の神々(14)コッククロフトさんと共同して世界で初めて人工的に原子核を壊した物理学者: J・ウォルトンさん

▼ウォルトンさんはコックロフトさん(11月24日)と共同して加速した粒子を原子核に当てて壊し、異なる原子核を作り出す世界で初めての実験に成功した物理学者。
▼リーゼ・マイトナーさんと専門分野が同じ。コッククロフトさんと違って、WWIIの間の活動は分からなかった

アーネスト・ウォルトン Ernest Thomas Sinton Walton 1903-1995 物理学者
1903年、アイルランドの北部、Dungarvan生まれ。父は教会の牧師。3年に一度教区を替わるため転居。
教育
父の転勤に伴いDownやTyroneの学校に通う。
1914年(11才)WWI
1915年(12才)ダブリン・ウエズリー・カレッジの後、ベルファスト・メソジスト・カレッジの寮生になる。
1918年(15才)WWI終戦
1922年(19才)奨学金を得てダブリン・トリニティ・カレッジに入学。
1926年(23才)ダブリン・トリニティ・カレッジでbachelor’s degrees
1927年(24才)ダブリン・トリニティ・カレッジでmaster’s degrees。在学中、数学・物理・奨学金で合計7つの賞を獲得。
ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジの研究学生。キャベンディッシュ研究所のラザフォード先生の下で研究。
1931年(28才)ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジでPhD。リチウム原子の核に加速した陽子を当てて破壊する実験を継続(1934年まで)。ノーベル賞受賞につながる。この時にコッククロフトさんと作った装置”Cockcroft-Walton generator”が有名。
活動
1934年(31才)ダブリン・トリニティ・カレッジの物理学部でフェロー。結婚。
1939年(36才)WWII
1945年(42才)WWII終戦
1946年(43才)ダブリン・トリニティ・カレッジの教授( Erasmus Smith’s Professor of Natural and Experimental Philosophy)。
1951年(48才)ノーベル物理学賞受賞(加速荷電粒子による原子核変換の研究)。コッククロフトさんと共同受賞。 Dublin Institute for Advanced Studiesと関係。
1952年(49才)Dublin Institute for Advanced StudiesのSchool of Cosmic Physicsの役員、評議員(1960年まで)。
1974年(71才)ダブリン・トリニティ・カレッジを退職。
1995年(92才)ベルファストで死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B3
https://en.wikipedia.org/wiki/Ernest_Walton

リーゼ・マイトナーさんとキャヴェンディッシュ研究所の神々(13) 原子力エネルギーの社会実装を進めた:J・コッククロフトさん

▼初めて人工的に加速した陽子で原子核を破壊した物理学者。粒子の加速装置を建造するにあたり、イギリスとアメリカで経済力の差を目の当たりにした科学者のひとり。
▼WWII終戦後、マンハッタン計画のためにアメリカにいたリーゼ・マイトナーさんの甥のオットー・フリッシュさんにイギリスでの仕事を紹介した人。

ジョン・コッククロフト John Douglas Cockcroft 1897-1967 物理学者
1897年、イギリスのヨークシャー州生まれ。父は工場経営者。
教育
1901年(4才)Church of England school in Walsden(1908年まで)
1908年(11才)Todmorden Elementary School(1909年まで)
1909年(12才)Todmorden Secondary School(1914年まで)。Footballとcricketを楽しむ。
1914年(17才)WWI。奨学金を得て Victoria University of Manchesterに入学、数学を学ぶ。
1915年(18才)士官訓練部隊に入る。
1916年(19才)英国砲兵隊に入隊、信号手として訓練を受けた後、西部戦線に配属。ドイツ軍が築いたヒンデンブルク線の攻略作戦や第3イープル作戦(ドイツ軍が連合軍に対してマスタードガスを使用)に参加。
1918年(21才)志願して砲術訓練を受け英国砲兵隊の中尉になる。WWI終戦
1919年(22才)除隊。Victoria University of Manchesterに戻らず、電気工学を学ぶためManchester Municipal College of Technologyに入る。
1920年(23才)Manchester Municipal College of TechnologyでBSc。Metropolitan Vickers教授からMetropolitan Vickers社でのインターンシップを紹介され参加。
1922年(25才)Manchester Municipal College of TechnologyでMSc。”Harmonic Analysis for Alternating Currents”
1924年(27才)St. John’s College, CambridgeでBA。
1924年(27才)キャベンディッシュ研究所のラザフォード先生のもとで博士学生として研究。
1925年(28才)ケンブリッジ大学でPhD。”On phenomena occurring in the condensation of molecular streams on surfaces”
活動
1928年(31才)結婚。St. John’s Collegeのフェロー。アーネスト・ウォルトン氏と陽子の加速実験を開始。
1929年(32才)St John’s CollegeでSupervisor(機械科学)。
1932年(35才)コッククロフト・ウォルトン回路でリチウムに陽子を衝突させて原子核の変換に成功。元素を人工的に別の元素に変換させた最初の実験
1935年(38才)ラザフォード先生の指名でMond Laboratory の研究ディレクター。
1936年(39才)王立協会フェロー
1938年(41才)英国版サイクロトロンをキャベンディッシュ研究所に建設。
1939年(42才)WWII。英国供給省で科学研究のアシスタント・ディレクタとしてレーダーの研究。 Jacksonian Professor (自然哲学)。
1940年(43才)MAUD委員会の委員。英国はサイエンスでは米国より先んじていたものの経済力・産業力で米国の援助を必要としていたため、弱点を補完するTizard Missionのメンバーとして渡米。近接信管、ロケット、過給機、照準装置、潜水艦発見装置そして原子爆弾に関する情報を持ち帰る。ハンプシャーのAir Defence Research Development Establishment (ADRDE) の監督官。GL Mk. III レーダーを開発。
1942年(45才)米国では追尾型SCR-584 レーダーを開発、実戦配備。輸入してテストすると GL Mk. IIIレーダーより優秀だったため供給省ががっかりする。 Lend-Lease法に基づいてSCR-584の輸入を政府に進言し、ドイツから飛来するV1ロケットの対策に備えた。
1944年(47才)マンハッタン計画の一環でカナダのモントリオール研究所、チョーク・リバー研究所で所長
1945年(48才)WWII終戦。 チョークリバー研究所を離れられないため、オックスフォードのハーウェルで始まっている原子力エネルギー研究所Atomic Energy Research Establishment (AERE)の準備に行けない。そこでオットー・フリッシュさんらに準備を依頼。
1946年(49才)イギリスに戻りAEREの初代所長。
1951年(54才)ノーベル物理学賞(加速荷電粒子による原子核変換の研究)。ウォルトン氏と共同受賞。
1954年(57才)ロイヤル・メダル受賞。
1958年(61才)英米間で 1958 US–UK Mutual Defence Agreementが締結。
1959年(62才)ケンブリッジ大学チャーチル・カレッジ学長。
1961年(64才)オーストラリア国立大学総長(併任)
1967年(70才)心臓発作のためケンブリッジで死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%95%E3%83%88#:~:text=%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%95%E3%83%88%EF%BC%88Sir,%E3%81%AE%E7%89%A9%E7%90%86%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82
https://en.wikipedia.org/wiki/John_Cockcroft

リーゼ・マイトナーさんとキャヴェンディッシュ研究所の神々(12) 霧箱を使って電子に正と負があることを写真撮影して証明した物理学者:P・ブラケットさん

▼ブラケットさんは、大学生の時期とWWIのタイミングが同じになったため海軍入り。巡洋艦、駆逐艦、戦艦の3タイプの軍艦乗務を経験する。技術将校として数学と物理学の力不足を感じたのが戦後すぐ大学に進んだ動機である。
▼霧箱で電荷が正と負の電子が同時に出現した写真を撮るなど、原子の理解を推し進めた実験物理学者。
1933年、リーゼ・マイトナーさんの甥のオットー・フリッシュさんをイギリスに迎える手配をした。この時期はリーゼ・マイトナーさんはまだベルリンにいてナチス政権の圧迫感を感じながらオットー・ハーンさん(8月24日)やフリッツ・シュトラスマンさん(9月12日)と放射性物質を相手に実験を繰り返していたころ。WWIIが始まるとイギリスの原子爆弾製造計画MAUD委員会のメンバーを1年務めた。

パトリック・メイナード・ステュアート・ブラケット Patrick Maynard Stuart Blackett 1897–1974 物理学者
1897年、ロンドンのケンジントン生まれ。父は株式仲買人。
教育
preparatory schoolで2年過ごす。趣味は模型飛行機と鉱石ラジオ。
1914年(17才)WWI。海軍士官候補生になる。巡洋艦 HMS Carnarvon に乗務、フォークランド沖海戦に参戦。戦艦 HMS Barhamに乗務、ユトランド沖海戦に参戦。HMS Barhamで砲術装置の共同発明者になる。
1917年(20才)駆逐艦 HMS Sturgeonに乗務。
1918年(21才)中尉になる。WWI終戦
1919年(22才)除隊し数学と物理を学ぶためケンブリッジ大学マグダレン・カレッジに入学。
1921年(24才)ケンブリッジ大学マグダレン・カレッジを卒業。
活動
1921年(24才)キャヴェンディッシュ研究所でラザフォード先生の元で実験物理学の修業を開始。
1923年(26才)ケンブリッジ大学キングス・カレッジのフェロー(1933年まで)。
1924年(27才)ドイツのゴッチンゲン大学でJ・フランク先生と原子スペクトルの研究(1925年まで)。
1925年(28才)ラザフォード先生から与えられた課題で人工的な核変換実験を霧箱写真に収め発表。
1933年(36才)ロンドン大学バークベック校で教授(物理学)(4年間)。
1937年(40才)マンチェスター大学で教授。王立協会のフェロー。
1939年(42才)WWII。オペレーションズリサーチの視点から軍の作戦行動にアドバイス。
1940年(43才)MAUD委員会のメンバー(1941年まで)。ロイヤル・メダル受賞。
1945年(48才)WWII終戦
1948年(51才)ノーベル物理学賞(ウィルソンの霧箱による原子核物理学および宇宙線の分野における発見)
1953年(56才)インペリアル・カレッジ・ロンドンの物理学部長(1963年まで)。
1956年(59才)コプリ・メダルを受賞。
1965年(68才)王立協会の会長。
1969年(72才)男爵になる。
1974年(77才)死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88
https://en.wikipedia.org/wiki/Patrick_Blackett

リーゼ・マイトナーさんとキャヴェンディッシュ研究所の神々(11)直進する電波が丸い地球でも遠くに届く理由は電離層と証明した:E・アップルトンさん

▼アップルトンさんはBBC放送との共同研究で電離層の存在を証明した人物。電波を使って大気の研究をしたので、蓄積された知見はWWIIでレーダー開発に役立った。
▼アップルトンさんとリーゼ・マイトナーさんは4才違い。共にWWIとWWIIも経験した物理学者。WWIIで核物理学は原爆に、電波研究は軍用レーダーになった。

エドワード・アップルトン Edward Victor Appleton 1892-1965 物理学者
1892年、イングランドのブラッドフォード生まれ。
教育
ハンソン・グラマースクール。
ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジ
1909年(17才)ブラッドフォード大学研究所の技術者(1911年まで)
1911年(19才)奨学金を得てケンブリッジ大学セントジョンズカレッジに入学。
1913年(21才)セントジョンズカレッジでB.A.(Natural Science)。JJトムソン先生とラザフォード先生の指導を受ける。
1914年(22才)WWI。デューク・ウェリントン連隊に入隊。後に技術将校になって活発に貢献。
1918年(26才)WWI終戦。ケンブリッジ大学に戻り電波の研究を開始。
活動
1919年(27才)大気物理学を電波を使って研究する。
1920年(28才)キャベンディッシュ研究所で実験物理学のデモ助手。
1922年(30才)トリニティカレッジの副長になる。フリーメーソンに入る。sub-rector at Trinity College
1924年(32才)キングスカレッジ・ロンドンで教授(物理学)(1936年まで)。BBCと共同して電離層の存在を証明、電離層までの距離を測定。地表100kmにケネリー・ヘビサイド層(E層)を確認。この時に得た知見がWWIIのレーダー開発の基礎になる。
1926年(34才)地表2~300kmに電離層アップルトン層(F層)を確認。
1927年(35才)王立協会フェロー
1936年(44才)ケンブリッジ大学で教授(物理学)(1939年まで)。
1939年(47才)WWII。英国科学工学研究省で物理化学担当官(1949年まで)
1941年(49才)ナイトになる。
1945年(53才)WWII終戦
1947年(55才)ノーベル物理学賞(上層大気の物理的研究、特にアップルトン層の発見)。レーダーの開発に寄与。
1948年(56才)エディンバラ大学で学長と副学長(1965年まで)。
1950年(58才)ロイヤル・メダル受賞。
1965年(73才)死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B3
https://www.nobelprize.org/physics/laureates/1947/index.html

リーゼ・マイトナーさんとキャヴェンディッシュ研究所の神々(10)電子の粒子性と波動性を親子で発見、息子の:G・トムソンさん

▼父のJJトムソン先生(11月13日)が電子の粒子性を発見、息子のジョージさんが波動性を発見。親子でノーベル賞を受賞。
▼第二次大戦初期、核分裂を応用した原子爆弾の実現可能性についての研究はイギリスがアメリカをリードしていた。この時期、リーゼ・マイトナーさんはヨーロッパにいた。甥のフリッシュさん(9月18日)はバーミンガムにいて物理学者仲間と共同して原爆の実現可能性を指摘した報告書を英国政府に提出。MAUD委員会が設けられ、トムソンさんはその委員長。
▼MAUD報告書を作成したのはチャドウィックさん(11月21日)。その報告書がアメリカに行ってマンハッタン計画になる。チャドウィックさんはイギリス科学者チームの代表として奮闘。WWIIの後、イギリスとアメリカの国力の差が出てくる。

ジョージ・パジェット・トムソン George Paget Thomson 1892–1975 物理学者
1892年、ケンブリッジ生まれ。父はJJ・トムソンさん。
教育
The Perse Schoolで教育を受ける。
1906年(14才)父がノーベル物理学賞を受賞(気体の電気伝導に関する理論および実験的研究)。
ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学。数学と物理学を学ぶ。
1914年(22才)WWI。英国軍(当時の名前はQueen’s Royal West Surrey Regiment)に入隊。フランスで軍務につく。
1915年(23才)空軍(Royal Flying Corps)に配属。ファーンボロー空軍基地で戦闘機の空力面を担当。
1918年(26才)WWI終戦
1920年(28才)空軍将校に任ぜられる。
活動
ケンブリッジ大学のフェロー。アバディーン大学に移籍。
1924年(32才)結婚。
1927年(35才)電子の波動性を証明。
1929年(37才)米コーネル大学で非常勤講師。
1930年(38才)インペリアル・カレッジ・ロンドンで教授(Hugh Longbourne Callendar先生の後任)。王立協会フェロー。
1937年(45才)ノーベル物理学賞をクリントン・デイヴィソン氏と共同受賞(結晶による電子線回折現象の発見)。
1939年(47才)WWII
1940年(48才)MAUD委員会の委員長(1941年まで)。原子核物理の軍事利用の研究。父が死去。
1943年(51才)ナイトになる。
1945年(53才)WWII終戦
1949年(57才)王立協会が応用科学の分野で顕著な貢献をした科学者に贈るロイヤル・メダルを受賞。
1952年(60才)インペリアル・カレッジ・ロンドンを退任。コーパス・クライスト・カレッジの学長。
1975年(83才)死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%A0%E3%82%BD%E3%83%B3
https://en.wikipedia.org/wiki/George_Paget_Thomson