リーゼ・マイトナーさんと世紀末ウィーン(19) K・ポパーさん

▼カール・ポパーさんはウィーン出身の哲学者。リーゼ・マイトナーさんと年齢を比べると14才年下。同じウィーン大学の出身(専門は違う)。
▼リーゼ・マイトナーさんがやっとナチスの危険を認識してベルリンを出たのが1938年だったのに対し、ポパーさんはその1年前に1937年にニュージーランドに移住している。もちろんその前にナチス対応のため、研究者だと少し手加減があるようだったので論文を出したりイギリスに自費留学している。しかし、それもダメと判断してヨーロッパを脱出した。ここからも、ベルリンで生活を続けていたリーゼ・マイトナーさんとポパーさんのナチスの脅威に対する感覚の違いが伺える。脅威を認識した後、それまでの生活を断ち切るのがいかに難しいか、ということ。
▼ウィーン大学の学生時代、ポパーさんはアドラーさんがウィーンで開いた児童相談所での教育活動に参加している。その後、教師の資格を取り、6年間、中学で先生を務めたこともある。実践派だ。
▼華やかなイメージの世紀末ウィーンとは活動領域がやや異なるものの、世紀末ウィーンの中で生きた人物だ。

カール・ライムント・ポパー Sir Karl Raimund Popper 1902-1994 哲学者
1902年、ウィーン生まれ。ユダヤ人。父はウィーン大学で博士(法学)を取得した法律家。蔵書を12,000~14,000冊所有。引き継ぐ。
教育
1914年(12才)WWI
1918年(16才)WWI終戦。学校を終え、ウィーン大学でゲスト学生 guest student として数学、物理学、哲学、心理学、音楽史を聴講。
1919年(17才)マルクス主義に惹かれグループに入って活動するも、唯物史観が疑似科学であると幻滅を感じて離脱。以後、社会自由主義の立場を貫く。
1922年(20才)心理学者アドラーさん(10月14日)が設立した児童相談所で協力。
1924年(22才)小学校教師の資格を得てアドラーさん(52才)の子供向け活動に参加。
1928年(26才)ウィーン大学で博士(哲学)。
活動
1929年(27才)中学校の数学と物理の教授資格を得る。
1930年(28才)中学校で教師(6年間)。結婚。
1934年(32才)社会での安全を確保するため大学で職を得ようとドイツ語で『科学的発見の論理』 Logik der Forschung を発刊。
1935年(33才)イギリスに行き研究。
1936年(34才)再びイギリスで研究。
1937年(35才)ナチスの脅威が高まる。ニュージーランドに移住。カンタベリー大学で講師(哲学)。『開かれた社会とその敵』執筆開始。
1939年(37才)WWII
1945年(43才)WWII終戦イギリスに移住。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで助教授。『開かれた社会とその敵』を発刊。
1946年(44才)ケンブリッジ大学キングスカレッジ倫理科学部の会合でルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインさん(10月26日)と激論。
1958年(56才)『アリストテリアン・ソサイエティ』誌の編集責任者(1年間)。
1965年(63才)エリザベス2世からナイトに叙任。
1959年(57才)英語で『科学的発見の論理』The Logic of Scientific Discovery を発刊。
1969年(67才)学術界を引退。
1994年(92才)ロンドンで死去。

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https://en.wikipedia.org/wiki/Karl_Popper

リーゼ・マイトナーさんと世紀末ウィーン(18) R・シュトラウスさん

▼リヒャルト・シュトラウスさんはワルツ王のヨハン・シュトラウスさんとは違うドイツの作曲家である。イギリスに公演に行った時よく間違えられたという。
▼リヒャルト・シュトラウスさんは、リーゼ・マイトナーさんより年齢が14才上。指揮者としてベルリンやウィーンで活躍していたから、マイトナーさんが演奏会を聞きに行っていた可能性は大。
▼ベルリン・フィルが誕生したのが1882年、1887年にリヒャルト・シュトラウスさんの師匠のハンス・フォン・ビューロー氏を招いてから急成長。師匠が作った縁でリヒャルト・シュトラウスさんも指揮する経験に恵まれる。
▼ビューロー氏が指揮していたマイニンゲン宮廷楽団のコンマスには作曲の面で大きな刺激を受ける。ソプラノ歌手をしていた奥さんの管理のおかげで長期間にわたる作曲活動ができた。おかげで今でも演奏会で取り上げられている。

リヒャルト・ゲオルク・シュトラウス Richard Georg Strauss 1864-1949 作曲家
1864年、バイエルン王国ミュンヘン生まれ。父はホルン奏者。母はビール醸造所の娘。
教育
幼少時から父親から音楽教育を受ける。
1882年(18才)ミュンヘン大学に入学。
1883年(19才)ベルリンに移る。指揮者ハンス・フォン・ビューロー氏に指揮法を学ぶ。
活動
マイニンゲン宮廷楽団の指揮をしていたビューロー氏の補助指揮者になる。
1885年(21才)マイニンゲン宮廷楽団の指揮者になる。コンサート・マスターのヴァイオリニスト、アレクサンダー・リッターさんから音楽的刺激を受ける。
1889年(25才)交響詩『ドン・ファン』
1894年(30才)バイロイト音楽祭でワーグナーの『タンホイザー』を指揮したときソプラノ歌手のパウリーネ・デ・アーナさんと出会い結婚。
1895年(31才)交響詩『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』
1896年(32才)交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』
1897年(33才)息子フランツ・シュトラウス誕生。後にユダヤ人女性と結婚。
1898年(34才)交響詩『英雄の生涯』
1905年(41才)オスカー・ワイルドの戯曲を元にしたオペラ『サロメ』
1908年(44才)詩人フーゴ・フォン・ホーフマンスタールの台本によるオペラ『エレクトラ』
1910年(46才)詩人フーゴ・フォン・ホーフマンスタールの台本によるオペラ『ばらの騎士』。大成功
1914年(50才)WWI
1918年(54才)WWI終戦
1933年(69才)ナチスが「帝国文化院」創設(所属者25万人)。その下の帝国音楽院の総裁になる。
1935年(71才)ユダヤ人シュテファン・ツヴァイク氏が台本を担当したオペラ『無口な女』を上演。ナチスから避難される。
1939年(75才)WWII
1940年(76才)『日本の皇紀二千六百年に寄せる祝典曲』
1945年(81才)WWII終戦。ナチスに協力したため連合軍の裁判にかけられる。裁判中、ロンドン公演。ロンドン滞在中しばしばヨハン・シュトラウスさんと間違えられる。裁判の判決は無罪。
1948年(84才)『4つの最後の歌』『あおい』
1951年(87才)死去。

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リーゼ・マイトナーさんと世紀末ウィーン(17) M・ラヴェルさん

▼ラヴェルさんはリーゼ・マイトナーさんより3才年上。だから同時代人。WWIでつらい体験をしたのも共通だ。ラベルさんは40才にしての輸送兵として死線をくぐり、受けたダメージが大きかった。WWIの後、レジオンドヌール勲章の叙勲を拒否していることも関係がありそうだ。
▼海外に演奏に出たとき、自分の人気の高さに驚いたという。母国では音楽家の登竜門と言われる賞に5回挑戦し2回目に3位入賞したのが最高で、5回目は予選で落選という扱い。ところが『水の戯れ』などを発表した実績があるほどの作曲家なのに、こういう結果はおかしいと問題になった。伝統からはみ出る杭は打たれる(というか無視される)例。
▼左手のピアニストパウル・ヴィトゲンシュタインさん(10月28日)のためにコンチェルトを書いたのは55才のとき。
▼リーゼ・マイトナーさんはコンサートに行くのが好きだったので、ラヴェルさんの曲、例えば『ボレロ』とか『展覧会の絵』を聞いたことがあったのではないだろうか。あるいはウィーンの伝統的な音楽と違いすぎるから足を運ばなかったかも知れない。

ジョゼフ・モーリス・ラヴェル Joseph Maurice Ravel 1875-1937
1875年、フランスのバスク地方シブール生まれ。すぐ一家でパリへ移住。父は実業家のスイス人で音楽好き、母はバスク人。
教育
1889年(14才)パリ音楽院(14年間)。フォーレ先生らに学ぶ。作曲家のシャブリエさんやサティさんに共感。
1898年(23才)国民音楽協会による第266回演奏会でデビュー。
1899年(24才)『亡き王女のためのパヴァーヌ』
1901年(26才)『水の戯れ』 フランスの音楽家の登竜門ローマ大賞に応募『ミルラ』で3位に入賞。
1902年(27才)尊敬するドビュッシーさんと面会。ドビュッシーさんもラベルさんを高く評価。
1903年(28才)『ソナチネ』。パリ音楽院を卒業。
活動
1907年(32才)『博物誌』『スペイン狂詩曲』
1908年(33才)『マ・メール・ロワ』『夜のガスパール』
1909年(34才)ロンドンでの演奏会で自分の作品の人気を知る。
1910年(35才)国民音楽協会を脱退し、仲間と新しく独立音楽協会を創設。ドビュッシーさんの『牧神の午後への前奏曲』をピアノ用に編曲。
1911年(36才)オペラ『スペインの時』初演。不評に終わる。
1912年(37才)『ダフニスとクロエ』
1914年(39才)WWI。空軍のパイロットに応募するも体重不足で不採用。
1915年(40才)フランス軍のトラック輸送兵になる。
1917年(42才)母親が死去(76才)。『クープランの墓』
1918年(43才)WWI終戦
1920年(45才)レジオンドヌール勲章叙勲を拒否。
1922年(47才)ムソルグスキーのピアノ曲『展覧会の絵』をオーケストラ用に編曲。
1923年(48才)『ヴァイオリンソナタ』
1927年(52才)軽い記憶障害や言語症が始まる。
1928年(53才)渡米して演奏会。大成功。オックスフォード大学名誉博士。『ボレロ』
1930年(55才)『左手のためのピアノ協奏曲』。パウル・ヴィトゲンシュタインさん(10月28日)のために作曲
1931年(56才)『ピアノ協奏曲 ト長調』
1932年(57才)パリで交通事故に遭う。以前からの記憶障害と失語症が進む。
1933年(58才)パリで最後の演奏会を行う。自分の名前もサインできない状態。『ドゥルシネア姫に心を寄せるドン・キホーテ』
1934年(59才)保養施設に入るも回復せず。
1936年(61才)周囲とのコミュニケーションができなくなる。
1937年(62才)脳内出血を疑い手術するも症状なし。そのまま昏睡状態になり死去。

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リーゼ・マイトナーさんと世紀末ウィーン(16) P・ヴィトゲンシュタインさん

▼パウルさんは、哲学者ルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインさん(10月26日)の2つ上のお兄さん。ピアニスト。第一次世界大戦で右腕を失くしたので左腕のピアニストとして生きていく。家が富豪なので、高名な作曲家に左手のための作品を依頼する資金力があった。
▼第二次大戦前、ナチスがオーストリアをドイツに併合する。パウルさんの演奏会活動が禁止される。ナチスに危機感を持ち、1938年、アメリカに脱出。しかし、妹はウィーンの自宅を離れようとしなかったので、弁護士らに働きかけ非ユダヤ人の認定を受けられるようにした。
▼1938年と言えば、リーゼ・マイトナーさんがぎりぎりになって身一つで脱出する年。迫る危険を受け止め行動に移すのがどれだけ難しいことか。ヴィトゲンシュタイン家の二人の妹が収容所に送られずに済んだのは例外だろう。

パウル・ヴィトゲンシュタイン Paul Wittgenstein 1887-1961
1887年、ウィーン生まれ。父は製鉄業の成功によってオーストリア近代産業の父と言われるカール・ヴィトゲンシュタイン氏。
1889年(2才)弟のルートヴィヒさんが生まれる。
教育
マルヴィーネ・ブレー先生、テオドル・レシェティツキ先生(12個のピアノロールを残している)、ヨーゼフ・ラーボア先生に師事。
ルードヴィッヒ家を訪れるブラームスさん(10月16日)、マーラーさん(10月22日)、リヒャルト・シュトラウスさんらとピアノ連弾。
活動
1913年(26才)ピアニストデビュー。
1914年(27才)WWI。ポーランド戦線で右手を負傷、切断。ロシア軍の捕虜になる。左手のピアニストになると決意。
1918年(31才)WWI終戦。様々の作品を左手で演奏できるよう編曲、練習。ラーポア先生が作品を提供してくれる。コンサートを再開。
1923年(36才)オーストリアの作曲家、エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトによる『左手のためのピアノ協奏曲 嬰ハ調 作品17』
1925年(38才)ドイツの作曲家、リヒャルト・シュトラウスによる『家庭交響曲余録 Parergon zur Sinfonia Domestica 作品73 』
1929年(42才)フランスの作曲家、モーリス・ラヴェルによる『左手のためのピアノ協奏曲』
1931年(44才)ロシアの作曲家、セルゲイ・プロコフィエフによる『ピアノ協奏曲 第4番 変ロ長調 作品53』
1938年(51才)ナチスがオーストリアを併合。ナチスからコンサート活動を禁止される。アメリカに脱出
1939年(52才)WWII
1940年(53才)イギリスの作曲家、ベンジャミン・ブリテンによる『ディヴァージョンズ Diversions for Piano (left hand) and Orchestra 』作品21。
1945年(58才)WWII終戦
1946年(59才)アメリカ合衆国の市民になる。ピアノ教育者になる。
1961年(74才)死去。

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リーゼ・マイトナーさんと世紀末ウィーン(15) A・ロダンさん

▼リルケさん(10月25日)、ヴィトゲンシュタイン家(10月26日)とも交流があった人物。ただ調べ不足のため、世紀末ウィーンとどんなつながりがあるかは未詳です。
▼青銅の作品の数々は超有名。日本にも多大な影響を及ぼしている。「考える人」を知らない人はいないだろう。国立西洋美術館には「カレーの市民」がある。
▼リーゼ・マイトナーさんが生まれた1878年に『洗礼者ヨハネ』を作っている。マイトナーさんがどこかで作品を見ている可能性がある。

オーギュスト・ロダン François-Auguste-René Rodin 1840-1917 近代彫刻の父

1840年、パリ生まれ。父は警察の事務員。
教育
1850年(10才)初めて絵を描き美術に興味を持つ。
1854年(14才)プティット・エコールという工芸学校に入学。美術の先生に褒められて自信。
1857年(17才)プティット・エコール退学。エコール・ボザールの入試を3度受けるも合格できず。室内装飾の仕事に携わる。
活動
1863年(23才)姉の死去に衝撃を受け、美術をやめて神学にしようと修道士見習いになる。指導役の司教は神学より美術に適性があると判断し諭される。動物彫刻の大家に弟子入り。
1864年(24才)室内装飾の仕事を再開。
1870年(30才)普仏戦争が始まる。近視のため兵役免除。戦争の影響で仕事が減る。新天地を求め家族とベルギーへ移住。ブリュッセル証券取引所の建設に職人として加わる。
1875年(35才)イタリア旅行。ドナテッロとミケランジェロの彫刻を見て衝撃を受ける。ベルギーに戻り『青銅時代』を制作。
1877年(37才)『青銅時代』
1878年(38才)『洗礼者ヨハネ』
1879年(39才)『考える人』(1889年まで)
1880年(40才)『地獄の門』に着手。
1883年(43才)カミーユ・クローデルが弟子入りする(1898年まで)。
1891年(51才)『バルザック』(1898年まで)
1888年(48才)『カレーの市民』
1890年(50才)ヴィトゲンシュタイン家と交流。
1902年(62才)『ロダン論』執筆のリルケさんとの交流が始まる。
1914年(74才)WWI
1917年(77才)死去。

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リーゼ・マイトナーさんと世紀末ウィーン(14) L・ヴィトゲンシュタインさん

▼ヴィトゲンシュタインさんはリーゼ・マイトナーさんより11才若い。ヴィトゲンシュタイン家が当時のウィーンを濃縮したような家。濃縮度がすごいので還元に時間がかかる。
▼このブログでは紹介している人のことを、結局、何一つ理解できないまま、いつ・どこで・何をした・誰に会ったといったような事実や仕事から雰囲気を見ている。今回のヴィトゲンシュタインさんの仕事(哲学)は全く分からない。27才のチューリングさんがケンブリッジ大学で50才のヴィトゲンシュタインさんの講義を聞いた。チューリングさんは自分の考え方とヴィトゲンシュタイン先生との違いを感じたようだ。そこの違いも分からない。
▼分かるのは天才と言えど(だから)、苦しんだ、乗り越えた、また苦しんだ、の繰り返しだった、ということ。
▼ヴィトゲンシュタインさんは軍の兵士としては非常に適性があったようで、二度、優秀な働きで勲章を貰っている。一方、学位論文や著作についてはなかなかうまく行かず、関係者と衝突を起こしている。衝突を繰り返しながら、味方になってくれる人が最後までいたのは幸いだ。死去する前の最後の言葉が、会いに来ようとしている友人たちへの伝言「素晴らしい人生だったと伝えてくれ」だった。

ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ヴィトゲンシュタイン Ludwig Josef Johann Wittgenstein 1889-1951 哲学者
1889年、オーストリア・ハンガリー帝国ウィーン生まれ。父は製鉄産業の富豪。
兄は戦争で右手を失ったピアニスト。ラヴェル、リヒャルト・シュトラウス、プロコフィエフらが左手のための作品を作曲。ヴァイオリニストのヨアヒムさん(10月20日)は親戚。家族で彫刻家のロダン、画家のクリムトらと交流。母はブラームスさん(10月16日)、マーラーさん(10月22日)、ブルーノ・ワルターさんと親交。
1893年(4才)やっと喋り始める。重度の吃音症なので教育を家庭内で行う。
教育
1903年(14才)家庭内での教育を終え、リンツの高等実科学校に入学。アドルフ・ヒトラーがいた。
ボルツマン先生の講義録を読んでウィーン大学の進学を希望するも、1906年に先生が自殺。
1906年(17才)高等実科学校を卒業。航空工学に興味があったのでベルリン工科大学に入学、機械工学を学ぶ。
活動
1908年(19才)ベルリン工科大学を卒業。博士号取得のためマンチェスター大学工学部へ入学。
1911年(22才)ターボプロップエンジンの特許を取得。数学基礎論に興味を持ちフレーゲ先生の下で短期間、数学を学ぶ。フレーゲ先生の勧めでケンブリッジ大学トリニティ・カレッジのラッセル先生と面談。
1912年(23才)ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学。ラッセル先生やムーア先生のもとで論理の基礎を研究。経済学のケインズさんと知り合う。
1913年(24才)父が死去。相続を受ける。ケンブリッジ大学に戻らずノルウェーの山小屋で隠遁生活。博士論文の書き方についてムーア先生の指導を受け入れず罵倒して人間関係を破壊。
1914年(25才)WWI。オーストリア・ハンガリー帝国軍の志願兵になる。兄が戦闘で右手を負傷。
1915年(26才)軍の工廠の仕事に回る。
1916年(27才)対ロシア戦で砲兵連隊員。勲章を受け伍長へ昇進。
1917年(28才)ロシア革命。戦況が落ち着いたため休暇でウィーンに戻る。
1918年(29才)イタリア戦線の山岳砲兵部隊の偵察兵二度目の受勲。描き続けていた『論考』を完成。イタリア戦線に戻る。イタリア軍の捕虜になり収容所生活が始まる。WWI終戦
1919年才)捕虜収容所から釈放。ウィーンに戻り全財産を放棄。『論考』の出版がうまくいかず。教員養成学校に入る。
1920年(31才)小学校の教師資格を取得。
1921年(32才)ラッセルさんや友人の哲学者オグデンさんらが『論考』出版のために奔走。
1922年(33才)『論理哲学論考』出版。「ウィーン学団」で輪講される。
1924年(35才)オッタータルの小学校に赴任。子供が正しい綴りを覚えやすくするために『小学生のための正書法辞典』に着手。ウィーン学団の創立者シュリックさんと文通開始。
1926年(37才)『小学生のための正書法辞典』出版。子供に与えた体罰が原因で小学校教師を辞任。修道院の庭師になる。
1927年(38才)シュリックさんと面会。
1928年(39才)ケインズさんと文通が始まる。
1929年(40才)ケインズさんの客としてケンブリッジ大学を再訪。『論理哲学論考』を博士論文として提出。トリニティ・カレッジのフェロー、講師になる。
1936年(47才)シュリックさんがウィーン大学内で反ユダヤ主義者の学生に射殺される。ウィーン学団との縁が終わる。
1939年(50才)WWII。ケンブリッジ大学の哲学教授。チューリングさん(27才)が講義を受ける。イギリス市民になる。
1945年(56才)WWII終戦
1946年(57才)ケンブリッジ大学キングス・カレッジの会合でカール・ポパーさんと激論。
1951年(62才)死去。

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リーゼ・マイトナーさんと世紀末ウィーン(13) R・リルケさん

▼リルケさんはリーゼ・マイトナーさんより3才年上の詩人。詩人の歩みから感じられる風景は物理学者と大いに違う。詩人の目に入るものと物理学者の関心が違うからだろう。
▼リルケさんのミドルネームにマリアが入っているのは、母親が女の子として育てようとしてから。父は軍人精神の人。それだけでもなかなか大変な幼少時代だったことだろう。
▼大学に行くためギムナジウムに入って猛勉強し、通常8年かかるところを3年で済ませる。この集中力はリーゼ・マイトナーさんが2年で済ませたのと通じる。違いは、能力をどの分野に向けるか。
▼リルケさんは北斎や晴信の浮世絵を見て感銘を受け、俳句にも興味を持っていたという。
▼リルケさんを最初に日本に紹介したのは森鴎外先生。

ライナー・マリア・リルケ Rainer Maria Rilke 1875-1926 ドイツ語詩人
1875年、オーストリア=ハンガリー帝国のプラハ生まれ。父は軍人、退役して鉄道会社勤務。母はユダヤ人。
1880年(5才)母は女の子として育てる。
1884年(9才)母が父と離婚。
教育
1886年(11才)陸軍幼年学校に入学。詩を作り始める。
1890年(15才)士官学校に進学(1年後に中退)。
1891年(16才)リンツの商業学校に入学。『ダス・インテレサント・ブラット』誌に詩が掲載される。
1892年(17才)商業学校を退学。大学進学を目指し、プラハのギムナジウムの特別聴講生になる。叔父の援助で個人授業を受け8年分のギムナジウムのカリキュラムを3年で終え卒業。
1894年(19才)処女詩集『いのちと歌』出版。
1895年(20才)ギムナジウムを卒業。プラハ大学とミュンヘン大学で文学、美術、哲学を学ぶ。ミュンヘンでは芸術家と交流。
1897年(22才)ルー・アンドレアス・ザロメさん(36才)夫妻と知り合う。ベルリンに住みベルリン大学に通う。
活動
1898年(23才)イタリア旅行。芸術家と交流。
1899年(24才)『わがための祝い』を出版。ザロメ夫妻とロシア旅行。多くの芸術家と交流を持つ。トルストイさん(71才)と知り合う。
1900年(25才)ザロメさんとロシアを再訪。北ドイツのヴォルプスヴェーデ村を訪問。
1901年(26才)女性彫刻家クララ・ヴェストホフさん(23才)と結婚、ヴォルプスヴェーデの隣村に住む。経済的に困窮。パリに出て北斎や晴信の浮世絵を見て感銘を受ける。
1902年(27才)『ロダン論』執筆のためパリでオーギュスト・ロダンさん(62才)との交流が始まる。短期間、奥さんのクララさんがロダン先生に師事。
1904年(29才)お気に入りの『北斎漫画』を携えてスウェーデン旅行。
1907年(32才)『新詩集』出版。
1909年(34才)『旧詩集』出版。
1910年(35才)『マルテの手記』出版。イタリアでアンドレ・ジッドさん(41才)に出会う。
1912年(37才)『ドゥイノの悲歌』の執筆を開始。
1914年(39才)WWI。ライプツィヒ滞在中に大戦が始まったためパリに戻れず。軍の招集を受けウィーン部隊の文書課に配属。
1916年(41才)著名人の請願により兵役解除。
1918年(43才)WWI終戦
1919年(44才)スイスで創作活動。
1920年(45才)フランスの文芸誌『新フランス評論』で俳句を知る。
1921年(46才)フランスの詩人ポール・ヴァレリーさん(50才)の詩のドイツ語翻訳を開始。
1923年(48才)健康状態が悪化しサナトリウムに入院。『ドゥイノの悲歌』『オルフォイスへのソネット』
1924年(49才)ヴァレリーさんが訪問。
1926年(51才)白血病により死去。
1927年、茅野蕭々の『リルケ詩抄』で日本に紹介される。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%AB%E3%82%B1

リーゼ・マイトナーさんと世紀末ウィーン(12) F・カフカさん

▼これから何度かに渡り、リーゼ・マイトナーさんと世代を同じくする世紀末ウィーンの時代の作家を見る。まず、フランツ・カフカさん。ある朝、起きると虫になってる『変身』の作者。村上春樹さんは『海辺のカフカ kafka on the shore』を書いた。両方ともとても面白いので読むと良い。
▼カフカさんのwikipediaをみると、物理学者と小説家では生きている世界がまるで違うことが分かる。そして、違っているのが、また、良い。
▼カフカさんのエピソードを一つ。カフカさんが旅先で友人と公園を散歩しているとき、人形を失くして泣いている女の子と出会う。カフカさんは女の子をなぐさめるために人形は旅に出たのだ、と説明。翌日、人形からの手紙といって自分が書いた文章をその子に渡す。これを滞在中続け、その地を去るとき、女の子に別の人形をプレゼントして「(人形が)旅に出たことで姿が変わった」と説明したという。

フランツ・カフカ Franz Kafka 1883-1924 小説家。
1883年、オーストリア=ハンガリー帝国のプラハ生まれ。父は高級小間物商、母は裕福で教養のある家庭の出。ユダヤ人。
教育
1889年(6才)フライシュマルクトの小学校に入学。
1893年(10才)プラハ旧市ギムナジウムに入学。授業の3分の1はラテン語と古代ギリシア語。数学が苦手、体育が好き。ボート漕ぎが趣味。
1901年(18才)ギムナジウムを卒業。プラハ大学に入学、法学を専攻。テニスに興ずる。
1902年(19才)1才年下の作家マックス・ブロートさんと出会う。
1906年(23才)プラハ大学で法学博士。弁護士事務所やプラハ地方裁判所で司法研修(1年間)。
活動
1907年(24才)イタリア系企業、アシクラツィオーニ一般保険会社プラハ支店に入社。忙しすぎる毎日。
1908年(25才)プラハ市内の半官半民「労働者傷害保険協会」に転職。午後の時間を小説の執筆に充てる。ブロートさんの紹介で文芸誌『ヒュペーリオン』創刊号に『観察(小品8編)』が掲載。
1909年(26才)『ヒュペーリオン』に『ある戦いの記録』が掲載。
1911年(28才)イディッシュ語(ドイツ語に近いユダヤ後)劇団と交流。
1912年(29才)ユダヤ人女性フェリーツェ・バウアーさんと出会う。『観察』出版。『失踪者』
1913年(30才)労働者傷害保険協会の書記官主任になり30人の部下を抱える。工場視察のさいには安全のため軍用ヘルメットを着用し、これが工場での安全ヘルメット着用が定着するきっかけとなる。『火夫』出版。
1914年(31才)WWI保険協会が軍に「業務上不可欠」の申請を出し徴兵免除。6月、フェリーツェ・バウアーさんと婚約。結婚で執筆が妨げられる不安から7月、婚約破棄。
1915年(32才)初めて一人暮らしを始める。7月、フェリーツェ・バウアーさんと再度婚約。8月に喀血、12月、肺結核のため婚約破棄。『変身』出版。
1916年(33才)寒い部屋で夜明けまで執筆。結核を「自ら招き寄せた病」と考えた。『判決』出版。
1917年(34才)小村チェーラウで療養。チェコ語、フランス語、ヘブライ語の勉強を始める。
1918年(35才)WWI終戦。プラハに戻り職場復帰。スペイン風邪にかかり肺にダメージ。
1919年(36才)シュレーゼンで保養。『流刑地にて』出版。
1920年(37才)『火夫』のチェコ語翻訳が始まる。労働者傷害保険協会の秘書官になる。『田舎医者』出版。
1922年(39才)労働者傷害保険協会を秘書官主任で退職。『城』
1923年(40才)バルト沿岸のミューリツに滞在。
1924年(41才)『断食芸人』出版。結核のためウィーンで死去。
1925年、ブロートさんによって『審判』 出版。
1926年、ブロートさんによって『城』出版。
1927年、ブロートさんによって『アメリカ』出版。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%AB

リーゼ・マイトナーさんと世紀末ウィーン(11) A・シェーンベルクさん

▼シェーンベルグさんは、マイトナーさんより4年先にウィーンで生まれたユダヤ人作曲家。世紀末ウィーンで新しい時代の音楽を示した作曲家。作品は物議を呼ぶことが多かった。
▼幼少期にヴァイオリンのレッスンを受けただけで、チェロは独学(!)、作曲も独学(!!)。
▼WWIとWWIIの経験者。WWIでは軍務に就く。WWIIでは、ナチスの圧迫を受けてアメリカに移住し一生を終えた。

アルノルト・シェーンベルク Arnold Schoenberg 1874-1951
1874年、ウィーン生まれ。ユダヤ人。父は靴屋。母はピアノ教師。
教育
1882年(8才)ヴァイオリンのレッスンを始める。チェロを独学。
1889年(15才)父が死去。生活のため昼は地元の銀行で働き夜は音楽を学ぶ。
1895年(21才)ツェムリンスキー氏が結成したアマチュア・オーケストラにチェリストとして入団。対位法を師事。20代はオペレッタを制作して収入にした。
活動
1901年(27才)ツェムリンスキー氏の妹と結婚。
1902年(28才)弦楽六重奏曲『浄められた夜』
1904年(30才)ツェムリンスキー氏らと「創造的音楽家協会」を設立、マーラーさんを名誉会長に迎える。
1905年(31才)交響詩『ペレアスとメリザンド』 ウィーンでウィーン演奏協会管弦楽団を自らの指揮で初演。
1906年(32才)『室内交響曲第1番ホ長調』初演時は非難の嵐。マーラーさんは支持。
1907年(33才)『弦楽四重奏曲第1番ニ短調』初演。マーラーさんが支持。
1912年(38才)ベルリンで『月に憑かれたピエロ』初演。
1914年(40才)WWI。軍に召集。
1918年(44才)WWI終戦。ウィーンで『私的演奏協会』を立ち上げ。
1933年(59才)プロテスタントからユダヤ教に改宗。
1934年(60才)ナチスから逃れアメリカに移住。がカリフォルニア大学ロサンゼルス校で教授。
1939年(65才)WWII
1940年(66才)NYで『室内交響曲第2番』初演。
1944年(70才)『主題と変奏』
1945年(71才)WWII終戦
1951年(77才)ロサンゼルスで死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF
https://en.wikipedia.org/wiki/Arnold_Schoenberg

リーゼ・マイトナーさんと世紀末ウィーン(10) A・マーラーさん

▼リーゼ・マイトナーさんとマーラーさんの年齢はマーラーさんが年上で18才違い。マイトナーさんは1907年までウィーンの実家にいて、それからベルリンに出る。マーラーさんは1898年から3年ほどウィーンフィルで指揮者をしているので、もしかするとマーラーさんが指揮をしている演奏会に一家で行った可能性がある。ということがなかったにしてもあり得るのだから、世紀末ウィーンはすごい。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の存在があったから。その皇帝とマーラーのお祖母ちゃんは縁がある。
▼マーラーさんのお祖母ちゃんは80才になっても行商して歩いていた。そのとき何かの法律に触れて刑罰を受けた。しかし、これに納得がいかないお祖母ちゃんは、フランツ・ヨーゼフ1世に直訴。皇帝は80才にして現役の行商人からの訴えを聞いて特赦にしたという。
▼マーラーさんはユダヤ人だったので、それが故の攻撃を受けることがあった。ナチスが台頭した背景にユダヤ人に対する反発が社会の中にあったことが伺える。
▼マーラーさんは精神的に参ったとき、フロイトさん(10月13日)の治療を受けている。治療効果があったという。

グスタフ・マーラー Gustav Mahler 1860-1911

1860年、オーストリア帝国ボヘミア王国の村に生まれる。ユダヤ人。父は行商人から身を起こし酒類製造業を営む。
教育
1864年(4才)アコーディオンが弾けるようになる。
1865年(5才)ピアノに興味を示す。父が息子の音楽的才能に気づく。地元イーグラウのキリスト教教会の少年合唱団員。
1869年(9才)イーグラウのギムナジウムに入学。
1870年(10才)イーグラウ市立劇場の音楽会でピアニストとして出演。
1871年(11才)プラハのギムナジウムに転校。
1872年(12才)イーグラウに帰郷。ギムナジウムの式典ホールでピアノ演奏を披露。
1875年(15才)ウィーン楽友協会音楽院(現ウィーン国立音楽大学)に入学。
1876年(16才)ピアノ四重奏曲を作曲。ウィーン楽友協会音楽院のコンクールでシューベルトのピアノ・ソナタを演奏しピアノ演奏部門一等賞、ピアノ曲で作曲部門一等賞を獲得。
1877年(17才)ウィーン大学でブルックナーさん(10月18日)の和声学を受講。交流が始まる。
1878年(18才)ウィーン楽友協会音楽院を卒業。作曲賞を受賞。
活動
1883年(23才)カッセル王立劇場の楽長(カペルマイスター)になる。
1884年(24才)音楽祭で指揮者として成功。
1885年(25才)『さすらう若者の歌』。プラハのドイツ劇場の楽長になる。
1886年(26才)ライプツィヒ歌劇場で楽長。『子供の不思議な角笛』作曲。
1888年(28才)ブダペスト王立歌劇場の芸術監督になる。
1889年(29才)指揮に高い評価を受ける。両親が死去。
1890年(30才)ブラームスさん(10月16日)が『ドン・ジョヴァンニ』の演奏を聞いて高評価。
1891年(31才)ハンブルク歌劇場の第一楽長になる。
1894年(34才)『交響曲第2番ハ短調』
1896年(36才)『交響曲第3番ニ短調』
1897年(37才)ユダヤ教からローマ・カトリックに改宗。ウィーン宮廷歌劇場(現ウィーン国立歌劇場)の第一楽長、芸術監督になる。
1898年(38才)ウィーン・フィルハーモニーの指揮者。
1900年(40才)『交響曲第4番ト長調』
1901年(41才)反ユダヤ主義の聴衆・評論家・楽団員と軋轢のためウィーン・フィルの指揮者を辞任。ウィーン宮廷歌劇場の仕事は継続。
1902年(42才)結婚。『交響曲第5番嬰ハ短調』
1903年(43才)フランツ・ヨーゼフ1世から第三等鉄十字勲章が授与。
1904年(44才)シェーンベルク氏らが「創造的音楽家協会」を設立、マーラーさんが名誉会長になる。『交響曲第6番イ短調』
1905年(45才)『交響曲第7番ホ短調』
1907年(47才)NYメトロポリタン歌劇場の招きで渡米。『交響曲第8番変ホ長調』
1908年(48才)『大地の歌』
1909年(49才)ニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者。『交響曲第9番ニ長調』
1910年(50才)神経症に悩みフロイトさんの診察を受ける。劇的に改善。
1911年(51才)ウィーンで死去。

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