L・マイトナーさんと同時代の科学者(20) W・パウリさん

▼パウリさんはハイゼンベルクさんと年齢が一つ違い、大学では同じ指導教員ゾンマーフェルト先生の門下生。
▼1930年、パウリさんはベルリンのカイザー・ヴィルヘルム研究所で放射性物質の研究を進めていたマイトナーさんに「親愛なる放射性紳士淑女の皆様」という書き出しで始まる書簡を送っている。この書き方が愉快だ。パウリさんは論文より書簡で重要な発見や理論について語るのを好んでいたためだ。手紙の内容は、放射性元素が崩壊するときのメカニズムを理論的に説明するものだった。
▼その8年後、マイトナーさんはベルリンを命からがら脱出する。ベルリンにいるハーンさんとシュトラスマンさんはウランの原子核に中性子を照射する実験を続けていた。すると二人では説明できない実験結果が出た。そこで二人はマイトナーさんに理由を尋ねる手紙を出す。手紙を見たマイトナーさんは実験結果の意味することを甥の物理学者フリッシュさんと読み解く。そして、核分裂が起きていると判断する。パウリさんの理論的予言と今回の実験の関係が伺える例だ。
▼パウリさんは実験が下手でよく装置を壊していたとか、近づくだけで装置が壊れることを同僚がパウリ効果と呼んだとか、愉快なエピソードがある人。超優秀なのにこういうエピソードがあると、がぜん親しみが湧く。

ヴォルフガング・エルンスト・パウリ Wolfgang Ernst Pauli 1900–1958 物理学者。

1900年、ウィーン生まれ。父方がユダヤ系。
教育
1914年(14才)WWI
1918年(18才)WWI終戦。ウィーンのドブリンガー・ギムナジウムを卒業。
1921年(20才)ミュンヘン大学で博士。水素分子イオンの量子論。指導教員はアルノルト・ゾンマーフェルト先生。
活動
1921年(21才)ゲッティンゲン大学でマックス・ボルン先生の助手。
1922年(22才)コペンハーゲン大学の理論物理学研究所(ニールス・ボーア研究所)で研究。
1923年(23才)ハンブルク大学の講師(28年まで)。量子力学の理論構築。
1924年(24才)同じ量子状態には2個以上の電子が存在できないパウリの排他原理を提案。
1926年(26才)ハイゼンベルクさん(9月30日)が行列力学を発表。パウリさんはこの理論で水素原子のスペクトルを理論的に説明。
1927年(27才)スピン演算子の基底にパウリ行列を導入。この結果にポール・ディラックさんが影響を受ける。
1928年(28才)スイス、チューリッヒ連邦工科大学で教授(理論物理学)。
1929年(29才)ローマ・カトリック教会を脱退。
1930年(30才)放射性同位元素の原子核崩壊によって中性粒子が発生すると予言する手紙をリーゼ・マイトナーさん(52才)らに送る。
1931年(31才)精神に不調を来たしカール・ユング先生に診察してもらう。ユング先生の理論を理解・発展。
渡米し、ミシガン大学の客員教授。
1932年(32才)ユング先生と書簡のやりとりが始まる(58年まで)。のちに「原子と原型:1932 – 1958」という本になる。
1934年(34才)パウリさんが提唱した中性粒子にフェルミさん(9月14日)がニュートリノ(59年に観測)と名付けて論文発表。
1935年(35才)プリンストン高等研究所IAS。
1938年(38才)ドイツがオーストリアを併合。
1939年(39才)WWII
1940年(40才)アメリカに移住。プリンストン大学の教授(理論物理学)。スピン統計定理を証明。
1945年(45才)WWII終戦。パウリの排他原理の功績によりノーベル物理学賞を受賞。
1946年(46才)アメリカ市民にならず、チューリッヒに戻る。
1958年(58才)死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%82%B7%E3%83%86%E3%82%A3

L・マイトナーさんと同時代の科学者(19) W・ハイゼンベルクさん

▼「L・マイトナーさんの歩みに影響した人物」は18回で一段落したので、これからはマイトナーさんと直接会ったかどうかは定かでないけれども、同時代を生きた科学者を見てゆく。
▼ハイゼンベルクさんはドイツ人。量子力学の開拓者のひとり。31才でノーベル物理学賞を受賞。ナチスの台頭にもかかわらず、不利な道を選び、実際不利になることがあってもへこたれず、嵐の後の晴天を経験できた才能と運と人に恵まれた理論物理学者。
▼マイトナーさん(1878-1968)との年齢差は23。
▼WWIIの間、ナチスSSからは「白いユダヤ人」と呼ばれ、反ユダヤ主義の物理学者から圧迫された。にもかかわらず、ドイツの原爆開発プロジェクトに組み込まれ、重水製造などを進める。そのため連合国から命を狙われる。資金不足、人材不足のため結果的にナチスが原爆を持つことはできなかった。核分裂はエネルギー確保のために利用するべきで爆弾にするべきではない、という考え方の持ち主。

ウェルナー・ハイゼンベルク Werner Karl Heisenberg 1901-1976
理論物理学者
1901年、ドイツのバイエルン州生まれ。
教育
1914年(13才)WWI
1916年(15才)10代後半はプラトンの『ティマイオス』をネタに友人や先生と哲学対話をする。ピアノ演奏に長じる。
1918年(17才)WWI終戦
1920年(19才)ミュンヘン大学で Arnold Sommerfeld先生と Wilhelm Wien先生に学ぶ。
ゴッチンゲン大学で マックス・ボルン先生に量子力学を、 J・フランク先生(9月17日)に物理を、D・ヒルベルト先生に数学を学ぶ。
1922年(21才)ハイゼンベルクさんの原子物理学への関心を知っていたSommerfeld先生はゴッチンゲンで開催されたニールス・ボーアの講演に参加させる。
1923年(22才)ミュンヘン大学で博士。指導教員は Sommerfeld先生。
1924年(23才)ゴッチンゲン大学で教授資格。指導教員は マックス・ボルン先生.
活動
1924年(23才)ゴッチンゲン大学でポスドク(27年まで)。
ロックフェラー奨学金を得てコペンハーゲン大学理論物理学研究所のボーア先生の元で研究。
1925年(24才)研究結果を論文にして発表。
1926年(25才)コペンハーゲン大学でボーア先生の助手。
1927年(26才)不確定性原理に取り組む。W・パウリ先生に原理を述べた報告を書く。
1928年(27才)ライプニッツ大学の教授(理論物理学)の就任講義を行う。物理学科の学科長を兼任。
1928年(27才)イギリスの数学物理学者Paul Diracさんが positrons陽電子 の概念を提唱。
1932年(31才)ノーベル物理学賞を受賞。James Chadwick さんがニュートロンを発見。アメリカの物理学者 Carl David Anderson さんが霧箱でpositronによる軌跡の写真撮影に成功。
1933年(32才)ナチスが力を持ち始める。反ユダヤ主義の物理学者やSSから「白いユダヤ人」と批判、Sommerfeld先生と共に圧迫を受ける。陽電子とディラクさんの論を発展させ量子力学の元になる論文を2本発表。
1938年(37才)ハーンさん、シュトラスマンさん、マイトナーさん(そしてフェリッシュさん)が核分裂の研究成果を出す。
1939年(38才)渡米しミシガン大学を訪問、 Samuel Goudsmitさんに移民を進められるも断る。WWII
1942年(41才)カイザー・ヴィルヘルム協会の研究所所長、教授になる。ドイツ軍備大臣に45年までに原子爆弾を製造するのは資金・人材不足の理由で困難とレポート。
1943年(42才)ベルリンフンボルト大学の理論物理学部長。ベルリン空爆が激しさを増すので郊外の森やポーランドに避難。
ドイツ軍がコペンハーゲンのN・ボーア研究所を接収。
1945年(44才)WWII終戦
1946年(45才)マックス・プランク物理学研究所の所長(70年まで)。
1953年(52才)欧州原子核研究機構CERNの創設に貢献。
1976年(75才)死去。

https://en.wikipedia.org/wiki/Werner_Heisenberg
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF

L・マイトナーさんの歩みに影響した人物 26名版:WWI+WWII

▼前回はマイトナーさんに営業した人物26名の一生とWWIIの時期の重なりを見た。WWIIは1939-45の6年間、ヨーロッパ、アジア・太平洋で行われた戦争。
▼今回はWWIの時期の重なりを見るため表に一列追加した。WWIは1914-18の4年間、ヨーロッパ、中東をはじめ世界規模で行われた戦争。科学や工業技術が応用された初めての戦争。
▼マイトナーさんを入れて27名の方々とWWIが重ならなかった人は、ノーベルさんとボルツマン先生の二人だけだ。カールボッシュさん以降全員、両大戦の経験者。
▼WWIが終わって2020年まで102年が経過。というとすごく長く時が流れた感じ。だけど、地球誕生から今日までだと46億年経ってるので、102年など一瞬。宇宙のなりたちから言うと、原子の世界は5%で、あとは人間が捉えられないダークエネルギーとダークマターが95%。
▼だからこの表は宇宙できらめいた瞬間のリスト。

L・マイトナーさんの歩みに影響した人物 26名拡張版+WWII

▼拡張版ということですでに紹介していた8名(番号のセルが薄緑)をリストに追加して26名にした。するとマイトナーさんの歩みに影響した人々26人のうち17人がノーベル賞受賞者になった。
▼第二次世界大戦との関わりを見るため、WWIIの列を追加した。注意したいのは、時期が重なっていないから影響がなくて済んで良かった、と思ってはいけないということ。例えばハーバーさんはWWIIが始まる5年前に亡くなっている。時期だけみるとWWIIと関係なさそうに見える。しかし、9月14日に紹介したとおりハーバーさんはすでにナチスから迫害を受けていた。
▼マイトナーさんを入れて20人がWWIIを経験している。マイトナーさんの研究は核分裂だった。9番以降の人たちは放射能研究が原子爆弾の製造から使用まで進んだのを目撃している。

L・マイトナーさんの歩みに影響した人物 18名のうちノーベル賞10名の表

▼下の表は、これまで紹介したリーゼ・マイトナーさんの歩みに影響した人物18名を生年順に並べ、ノーベル賞の年を入れて表にしたもの。キュリー夫妻のように前にしっかり紹介済みの人はいれていないので18名という数字にあまり意味はない。けど、18人のうち10人がノーベル賞受賞者だ。すごく高い確率。
▼マイトナーさんより先に生まれた人は6名いる。後に生まれた人は12名。
▼マイトナーさんより先に亡くなった人は12名。後に生まれたのにマイトナーさんより先に亡くなった人で、かつ、50代で亡くなった人が3名いる。いずれも放射性元素と近い距離で研究していた人たちであり、いずれもノーベル賞を取っている。

L・マイトナーさんの歩みに影響した人物(18) A・ノーベルさん

▼ノーベル賞を巡って、共同研究者のハーンさんは化学賞を取り、自分は顧みられなかったという経験を持つ。ノーベル賞そのものが始まったのは1901年(マイトナーさんが23才のとき)。ハーンさんが受賞したのは1944年、マイトナーさんは66才。すでに40年あまりの歴史を重ねる賞になっていた。
▼ノーベルさん自身は、発明家で起業家精神旺盛な父の影響を受けたことと自らの爆発物好きによってダイナマイトを発明し富豪になる。金が集まると訴訟などトラブルも集まる。マスコミは「死の商人」と言うし、結婚相手候補とは出会えても結婚に至る相手に恵まれなかった。
▼ノーベルさんの軌跡を見ると、社会に新しい技術をもたらす人には大変な苦労が伴うという印象が残る。

アルフレッド・ベルンハルド・ノーベル Alfred Bernhard Nobel 1833-1896化学者、発明家、実業家。
1833年、スウェーデンのストックホルム生まれ。父は建築家・発明家。
教育
1837年(4才)父が事業に失敗。ばん回するため単身サンクトペテルブルクで機械・爆発物の製造に挑戦、成功。
1841年(8才)ストックホルムの小学校に入学(42年まで)。
1842年(9才)父のいるサンクトペテルブルクに家族で移転。家庭教師をつけてもらい化学と語学を学ぶ。爆発物に興味、父が基本原理を教える。
1850年(17才)化学をもっと学ぶためパリに行き化学者テオフィル=ジュール・ペルーズ先生の科学講座を受講。
1851年(18才)化学を学びに渡米(55年まで)。発明家ジョン・エリクソンさんにも師事。
1853年(20才)クリミア戦争勃発。父の事業が繁盛する。
1855年(22才)帰国。ペルーズ先生の門下生アスカニオ・ソブレロさんがニトログリセリンを開発したことを知る。
活動
1856年(23才)クリミア戦争終戦。父の事業の注文が激減。
1857年(24才)ガスメーターで初の特許申請。
1859年(26才)父が破産。一家でスウェーデンに帰国。サンクトペテルブルクの父の工場は弟(リュドビック)が見る。
1862年(29才)ニトログリセリンの起爆装置を開発し、サンクトペテルブルクで水中爆発実験。
1863年(30才)スウェーデンで特許取得。ソブレロさんには対価支払い。
1864年(31才)グリセリン精製中に爆発事故。弟(エミール)と助手が死亡、本人もケガ。
1865年(32才)雷管を発明
1866年(33才)ダイナマイトを発明。ダイナマイトは、ギリシア語で力の意味。
1867年(34才)英米でダイナマイトの特許を取得。
1871年(38才)珪藻土を利用し安全性を高めたダイナマイト開発に成功。世界中で採掘や土木工事に使われる。大富豪になる
1884年(51才)スウェーデン王立科学アカデミーの会員。
1890年(57才)知人がノーベルの特許に変更を加えてイギリスで特許取得。弁護士の勧めで訴訟すれど5年後に敗訴。以降、弁護士をしんようしなくなる。
1893年(60才)ウプサラ大学から名誉学位。
1895年(62才)持病が悪化。ノーベル賞の設立に触れた遺言状を書く。最後まで弁護士を信用しなかった。
1896年(63才)死去。
1901年、第1回ノーベル物理学賞をレントゲンさんが、化学賞をホッフさんが、生理学・医学賞をベーリングさんが受賞。
1957年、ノーベル研究所の物理学者グループが新元素を発見。ノーベリウムNoと命名。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB

L・マイトナーさんの歩みに影響した人物(17) エーヴ・キュリーさん

▼今回は番外編的な感じです。
▼エーヴ・キュリーさんはマリー・キュリーさんの次女、エレーヌ・キュリーさんの妹である。
エーヴさんはジャーナリストで化学者ではない。だからマイトナーさんと専門分野での関係はない。しかし、母親と姉を通してマイトナーさんの活動は知っていたはず。というわけでここで紹介する。
▼マイトナーさんとエーヴさんには音楽という共通点がある。マイトナーさんの姉はコンサート・ピアニストで、マイトナーさん自身も弾く。エーヴさんもフランス各地でコンサートを開いたピアニスト。また、長寿である。ナチスドイツの圧迫を受けた点も共通である。
▼身内にごろごろノーベル賞受賞者がいる中で自分の光を放ったエーヴさん。エーヴさんが書いた「キュリー夫人」のおかげで当時の社会の状況を知ることができる。
▼WWIIの間、反ナチス運動で燃え尽きることなく、世界中のキーパーソンにインタビューしてアメリカの新聞に載せ、NATOのアドバイザーになり、UNICEFのファーストレディーとして100か国以上を訪問するなどウルトラ級のエネルギーの持ち主。

エーヴ・キュリー Ève Denise Curie Labouisse 1904-2007 ジャーナリスト

1904年、パリ生まれ。イレーヌさんの妹(7つ違い)。
1906年(2才)父ピエールが馬車に轢かれて死亡。祖父で医師のウジェーヌ・キュリーさんに生活を支えてもらう。
1910年(6才)祖父ウジェーヌさんが死去。
教育
マリーさんの教育方針で運動、裁縫、ガーデニング、料理を習う。子供時代から音楽の才能を発揮。ピアノを学ぶ。
1911年(7才)マリーさんの母国ポーランドを訪問しポーランド語を習う。山歩き、乗馬など運動も欠かさず行う。マリーさんがノーベル化学賞を受賞。
1914年(10才)WWI
1918年(14才)WWI終戦
1921年(17才)母の渡米・講演に姉妹で同行。歓待を受ける。大統領に会い、きらびやかなパーティに出席、グランドキャニオンやナイアガラの滝を見物した。
1925年(21才)セヴィーニ学院で学士。フランス国内やベルギーでピアノコンサートを行う。
活動
1926年(22才)姉イレーヌさんが結婚。体調に問題を抱える母マリーさんと同居し日常の世話、講演旅行の同行を担当。
1934年(30才)母マリーさんの死去(66才)を看取る。
1935年(31才)母の伝記執筆プロジェクトを開始。資料の収集や母の若い時代を知るためポーランドに行って取材。
1937年(33才)伝記『キュリー夫人』を出版。世界中でベストセラーになる。
1939年(35才)WWII
1940年(36才)ナチスドイツがフランスに侵入。渡英。反ナチスの自由フランス活動に参加。
1941年(37才)親ナチスのヴィシー政権からフランスの市民権を剥奪され、財産が没収される。
1942年(38才)アメリカのThe Atlantic Monthly誌の特派員として、エジプト、リビア、ソビエト、イラン、中国、インドを歴訪、要人にインタビューした。
1943年(39才)『キュリー夫人』が映画化。旅行記『戦塵の旅 Journey Among Warriors』を出版
1944年(40才)日刊紙パリ・プレスの共同編集者として政治面で活動(49年まで)。
1945年(41才)WWII終戦
1952年(48才)NATOのスペシャルアドバイザー(54年まで)。インターナショナル・スタッフ。
1954年(50才)ヘンリー・リチャードソン・ラブイス・ジュニアさん Henry Richardson Labouisse, Jr. と結婚。
1956年(52才)姉のイレーヌさんが死去(58才)。
1958年(54才)アメリカ市民になる。
1965年(61才)夫のラブイスさんのUNICEFの活動が評価されノーベル平和賞を受賞。夫妻で100ヵ国以上を訪問。エーヴさんはUNICEFのファースト・レディと呼ばれる。
1968年(64才)リーゼ・マイトナーさんが死去(89才)。
1987年(83才)夫のラブイスさんが死去。
2004年(100才)誕生日のお祝いにアナン国連事務総長が訪れる。
2007年(103才)死去。

https://en.wikipedia.org/wiki/%C3%88ve_Curiehttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%BC

L・マイトナーさんの歩みに影響した人物(16) フレデリック・ジョリオ=キュリーさん

前回からの続き。

1930年代にマイトナーさんがベルリンを拠点に研究活動。学会などで多くの科学者と知り合いを持つ。
1938年にナチスの迫害を逃れるためベルリンを出てスウェーデンに拠点を移す。
1945年、アメリカが広島・長崎に原爆を投下。第二次大戦が終わる。
1946年、共同研究者のハーンさんがノーベル化学賞を受賞。
1952年、研究活動を引退。研究者の集まりには参加。

フレデリックさんのご専門は?
原子物理学。

どんな関係?
ライバル。イレーヌさんの夫で同じ研究分野にいる化学者。
1934年にイレーヌさんと共同で行った人工放射性元素の発見は、マイトナーさん、ハーンさん、シュトラスマンさん(そしてフリッシュさんのアドバイス)による核分裂の概念確立につながる。

どんな人生?
漢(おとこ)っぽい人生。学者としてはノーベル賞を受賞。第二次大戦中はパリでナチスに対抗するレジスタンス。
1936年にイレーヌさんとの共同研究を解消している。この理由が不明。後にイレーヌさんは自分たちの実験をヒントにマイトナーさんらがウランの核分裂を突き止めたことを知り、フレデリックさんとの共同研究を解消したことを悔しがっている。
もっともマイトナーさんもハーンさんと1907年に始めた共同研究を20年に終え、34年に再開しているから、テーマの終了が節目だったのかも知れない。

ジャン・フレデリック・ジョリオ=キュリー Jean Frédéric Joliot-Curie 1900-1958 原子物理学者

1900年、パリ生まれ。
教育
1914年(14才)WWI。
1918年(18才)WWI終戦。
1925年(25才)パリ市立工業物理化学高等専門大学を卒業。
活動
1925年(25才)ラジウム研究所でマリー・キュリーさんの助手。
1926年(26才)マリーさんの長女イレーヌさんと結婚。苗字をJoliot-Curieに変更。マリーさんの指示でパリ大学で電気化学の学士と博士を取得。
1933年(33才)ソルベ会議で発表。マイトナーさんから反論を受ける。ニールス・ボーアさんから励まし。
1934年(34才)アルミニウムの薄片にアルファ線を照射する実験。世界初の人工放射性同位元素を作り出す。マリーさんも確認し喜ぶ。
1935年(35才)人工放射性同位元素の発見によりイレーヌさんとノーベル化学賞を受賞
1936年(36才)イレーヌさんとの共同研究を解消。
1937年(37才)ラジウム研究所を辞めコレージュ・ド・フランスの教授。
1939年(39才)WWII。ソビエトの科学者と核分裂の共同研究。
1940年(40才)ナチがパリに侵入。研究データをイギリスに退避。フランス共産党員・国民戦線のメンバーとしてレジスタンス運動。
1945年(45才)WWII終戦。フランス国立科学研究センター総裁、フランス原子力庁長官。
1948年(48才)フランス初の原子炉 Zoé reactor建設を監督。
1950年(50才)ソ連から第1回国際平和賞を受賞。共産主義者であることからフランス原子力委員会の委員長を解任。コレージュ・ド・フランスの教授は継続。
1956年(56才)パリ大学ソルボンヌ校の教授(亡妻の後任)。
1958年(58才)白血病により死去。

https://en.wikipedia.org/wiki/Fr%C3%A9d%C3%A9ric_Joliot-Curie
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AA%E3%82%AA%EF%BC%9D%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%BC

L・マイトナーさんの歩みに影響した人物(15) イレーヌ・キュリーさん

前回からの続き。マイトナーさんの時期:

1938年にマイトナーさんはベルリンを脱出。核分裂を発見(イレーヌさんの実験報告との関連が大きい)。
スウェーデンのストックホルムにあるマンネ・シーグバーンさんの研究所に入るも疎外感を味わいながら過ごす。
1945年、アメリカが広島・長崎に原爆を投下。マイトナーさんに取材が殺到する。第二次大戦が終わる。

イレーヌさんのご専門は?
原子物理学。

どんな関係?
マイトナーさんはイレーヌさんの母親マリー・キュリーさんを若いときから知っている。研究上のライバル。
1933年の学会発表でイレーヌさんの発表に対してマイトナーさんが反論する。
1938年にマイトナーさんがベルリンを脱出した後、ハーンさん、シュトラスマンさん(イレーヌさんの論文にピンと来て、研究を提案)と始めた実験のテーマはイレーヌさんの実験から出てきた謎の解明。これが核分裂の発見につながる。

どんな人生?
二度もノーベル賞を取る母親の娘なので、世界中の注目が集まる立場。ストレスもうまく受け流し、専門性を活かして自らもノーベル賞学者になった。母親と同じく放射線が原因で健康を損なう。

イレーヌ・ジョリオ=キュリー Irene Joliot-Curie 1897-1956 フランスの1897年、パリ生まれ。キュリー夫妻の長女。
教育
1903年(6才)両親がノーベル賞を受賞。
1906年(9 父ピエールが馬車に轢かれて死亡。
祖父で医師のウジェーヌさん(ピエールさんの父親)から教育を受ける。
1910年(13才)ウジェーヌさんが死去。
組合学校を卒業、セヴィーニ学院に入学。
1911年(14才)母マリーが二度目のノーベル賞を受賞。
1914年(17才)WWI。戦争中は、放射線治療やX線検査の技術を身に着けて奉仕。
1918年(21才)WWI終戦。ソルボンヌ大学に戻り学士(数学と物理)。母マリーの研究所の助手。
1925年(28才)ソルボンヌ大学で学位取得。ポロニウムのアルファ線についての研究。
活動
1925年(28才)母マリーの研究所にフレデリック・ジョリオさんが助手。
1926年(29才)フレデリック・ジョリオさんと結婚。体調不良が始まる。
1933年(36才)ソルベ会議で発表。これに対しマイトナーさん(55才)から反論。ニールス・ボーアさんから励ましを受ける。
1934年(37才)アルミニウム薄片にアルファ粒子を衝突させ、人工放射性物質を作る。母マリーさん死去。
1935年(38才)「人工放射性元素の研究」で夫のフレデリックさんと共にノーベル化学賞を受賞
1936年(39才)科学担当国務次官に期間限定で就任。パリ大学ソルボンヌ校の教授(母の後任)。
1937年(40才)ウランから新たな放射性物質を発見。マイトナーさんはこの報告に対し発見できないと反論。ハーンさんは無視。シュトラスマンさんが何かありそうと気づき3人で共同研究を進める。
1938年(41才)マイトナーさんがドイツを脱出。ハーンさんとシュトラスマンさんが実験を続ける。実験結果の謎をマイトナーさんとフリッシュさんが核分裂と見抜く。
1939年(42才)WWII。フランスでレジスタンスのメンバーになる。体調不良に苦しむ。
1945年(48才)WWII終戦。フランス原子力委員会の化学部門の責任者。
1946年(49才)ラジウム研究所の所長。
1950年(53才)フレデリックさんがソ連から第1回国際平和賞を受け、夫妻で会場のクレムリンに行く。
1956年(59才)白血病により死去。国葬。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AA%E3%82%AA%EF%BC%9D%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%BC

L・マイトナーさんの歩みに影響した人物(14) オスカル・クラインさん

マイトナーさん、前回からの続き。

1938年、ベルリンからスウェーデンに脱出したマイトナーさんは、マンネ・シーグバーンさんが長を務めるスウェーデン王国科学アカデミー・ノーベル研究所の所属になる。この研究所では実験装置を使えず、スタッフもなく、疎外された状態が続く。
1939年、WWIIが始まる。
1943年にイギリスの科学者から原爆開発の協力を打診され、断る。
1945年、広島・長崎に原爆が投下される。マイトナーさんのもとに取材が殺到。第二次大戦が終わる。
1945-48年、ボーアさんとクラインさんがマイトナーさんをノーベル賞候補に推薦し続ける。
1946年、共同研究者のオットー・ハーンさんがノーベル化学賞を単独受賞。

クラインさんのご専門は?
理論物理学。通常の.3次元に時間を加え4次元にしさらに新しい次元を加えるような理論。

どんな関係?
ボーアさんと同じく、マイトナーさんを高く評価していた。
マイトナーさんを自分の研究所に受け入れたいと考えていた。また、マイトナーさんをノーベル賞に推薦した。しかし、マンネ・シーグバーンさんとは競争的な立ち位置。1946年のノーベル賞選考委員5人のうちの3人がシーグバーンさんのグループ。マイトナーさんの受賞は叶わなかった。

どんな人生?
WWIとWWIIの両方を経験したユダヤ人学者。学生時代、指導を受けた先生方がノーベル賞学者や当代一流の学者。理論物理学の立場から、マイトナーさんの研究を理解、応援していた。

オスカル・クライン Oskar Klein 1894-1977 理論物理学者

1894年、スウェーデンのストックホルム郊外の町で生まれる。父はラビ。
教育
ノーベル物理学研究所でスヴァンテ・アレニウス先生(1903年ノーベル化学賞)に学ぶ。
パリ高等師範学校のジャン・ペラン先生(1926年ノーベル物理学賞)に学ぶ。
1914年(20才)WWI。兵役に就く。
1917年(23才)コペンハーゲン大学のニールス・ボーアさん(1922年ノーベル物理学賞)の下で研究。
1918年(24才)WWI終戦
1921年(27才)ストックホルム大学で博士。
活動
1923年(29才)アメリカのミシガン大学で講師。
1925年(31才)コペンハーゲンに戻る。オランダのライデン大学でポール・エーレンフェスト先生(理論物理学)と研究。
1926年才)ルンド大学で講師。カルツァ=クライン理論やクライン-ゴルドン方程式を発表。
1928年(34才)コペンハーゲン大学ボーア研究室の研究員・仁科芳雄さんとクライン=仁科の公式を発表。
1930年(36才)ストックホルム大学で教授(物理学)。
1938年(44才)ドイツから逃れたマイトナーさん(60才)がシーグバーンさんの研究所に入る。ボソン交換モデルを発表。
1939年(45才)WWII
1945年(51才)WWII終戦クラインさんはボーアさんと共にマイトナーさんを45年から48年までノーベル賞に推薦
1946年(52才)オットー・ハーンさんがノーベル化学賞を受賞
1961年(67才)ストックホルム大学を引退、名誉教授。
1977年(83才)死去。

https://en.wikipedia.org/wiki/Oskar_Klein
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3