元素周期表の作者 メンデレーエフさん

メンデレーエフさんが周期表を作る前、元素を何かのルールに基づいて並べた表を発表した化学者が二人いた。ひとりはドイツの化学者・医者、もう一人はイギリスの化学者。二人ともヨーロッパの学会で強く支持されることなく時間が過ぎた。▼メンデレーエフさんが前の二人よりも厳密な周期表を作って学会で発表したときも、反応はいまひとつ。周期表は化学者にとってそんな程度のものなのか? ▼その冷やかな雰囲気が熱い支持に代わるのは、周期表で予言されていたガリウムやゲルマニウムが実際に発見されてからである。理論を裏付ける実際の結果が出ると世間の見る目が変わるのだ。▼周期表はノーベル賞ものの成果なのでメンデレーエフさんはノミネートされたものの、残念ながら逃してしまう。ところがどっこい、イギリスのアカデミーからデービー・メダルを貰っていて科学の世界で高い評価はしっかり得ていた。

ドミトリ・イヴァーノヴィチ・メンデレーエフ Dmitrij Ivanovich Mendelejev 1834-1907 ロシアの化学者。元素周期表の作成者。

1834年、ロシア帝国、西シベリアのトボリスク生まれ。14人兄弟の末っ子。父は教育者。
1848年(14才)父を亡くす。母がガラス加工を始めるも、火災で工房消失。
1849年(15才)母がメンデレーエフをモスクワ大学に進学させようと一家でサンクトペテルブルクに転居。
教育
1850年(16才)モスクワ大学に入学できず。サンクトペテルブルク帝国大学に入学。
1855年(21才)卒業後、結核になっていたため療養を兼ねてクリミア半島で過ごす。
1857年(23才)健康を回復しサンクトペテルブルクに戻り修士論文の研究。
活動
1859年(25才)ドイツのハイデルベルクで気体の密度を研究。
1861年(27才)ロシアに戻る。著書「有機化学」を出版し、ペテルスブルグ科学協会から受賞。
1864年(30才)サンクトペテルブルクの高等技術専門学校の教授(化学)。
1864年(30才)ドイツの化学者で医師のロータル・マイヤー氏が元素の周期性について論文を発表。注目されず。
1865年(31才)イギリスの化学者ジョン・ニューランズ氏が元素を原子量順に並べた周期表「オクターブの法則」を発表。受け入れられず。
1865年(31才)博士(科学)になる。サンクトペテルブルク大学の正教授(技術化学)。
1869年(35才)元素が原子量の順に並んだ表の夢を見たので、起きるとすぐ紙に書き写した。これが周期表の元になる。
1871年(37才)ペテルスブルグ大学を化学研究のメッカにする。
1872年(38才)元素の周期性について学会で発表。冷ややかな反応。
1875年(41才)周期表の空欄の予言通り、P・ボアボードランさんがガリウムを発見。周期表が見直される。
1882年(48才)ロンドン王立協会からデービー・メダルを受賞
1885年(51才)周期表の空欄の予言通り、C・ヴィンクラーさんがゲルマニウムを発見。周期表の評価が高まる。
1890年(56才)サンクトペテルブルク大学を辞職。
1893年(59才)度量衡局の所長になる。死去するまでこの職に就く。
1907年(73才)死去。

https://en.wikipedia.org/wiki/Dmitri_Mendeleev
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%9F%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%95

サイクロトロンの発明者 E・ローレンスさん

放射性元素に関わる最大級の学者。今回は、これまで何度もでてきたローレンス放射線研究所のローレンスさん。▼研究そのものが、ローレンスさんの前と後とでは予算・関係者数・規模が大きく変わったと言われる画期の人。▼カリフォルニア大学で史上最も若い29才で教授になる実力。38才でノーベル賞を取る実績(サイクロトロンの発明と発展。サイクロトロンを使った数々の発見。中でも人工放射性元素の創出)。大型予算を獲得し、研究施設のスケールアップを続ける。▼ローレンスさんの放射線研究所の理念は、院生・ポスドク・資金持参の研究者が自由に研究に打ち込める場。WWIIの時期、原爆製造施設建設の指導と運営を大学を挙げてサポート。WWII後の冷戦では、大学内では国家機密に関わる研究は行わず、学外の施設で行われた。

アーネスト・オーランド・ローレンス Ernest Orlando Lawrence 1901-1958
サイクロトロンの発明者
1901年、サウスダコタ州リンカーン郡のカントン生まれ。両親はノルウェー系。父は教育長。
教育
生地のカントンおよび州都ピエールの公立学校に通う。
ミネソタ州にあるSt. Olaf Collegeに入学。1年でサウスダコタ大学に転学。
1922年(21才)サウスダコタ大学で学士(化学)を取得。
1923年(22才)ミネソタ大学でM.A.(物理学)を取得。W・F・G・スワン先生の弟子として学ぶ。
1925年(24才)イェール大学でPh.D.(物理学)を取得。カリウム蒸気の中での光電効果の研究。指導教員はW・F・G・スワン先生。
活動
1925年(24才)米国学術研究会議NRCの奨学金を得てイェール大学でスワン先生の下で研究を継続。
1927年(26才)イェール大学の助教授。
1928年(27才)カリフォルニア大学の助教授。
1929年(28才)大学図書館でマグネトロンの着想を得る。
1930年(29才)カリフォルニア大学で最年少教授になる。
1931年(30才)キャンパスの中に放射線研究所Radiation Laboratoryを設立。
1934年(33才)サイクロトロンの特許を取得
1936年(35才)ローレンスさんの放射線研究所に大型予算がつく。施設の理念は、院生や研究員、資金を持ったゲストが喜んで働ける場にすること。
1939年(38才)サイクロトロンの発明と開発、人工的な放射性元素の発見の功績でノーベル物理学賞を受賞。
1939年(38才)WWII
1940年(39才)大型サイクロン施設の建設計画が決定。
1945年(44才)トリニティ実験に立ち会う
1945年(44才)WWII終戦
1958年(57才)死去。

https://en.wikipedia.org/wiki/Ernest_Lawrence
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9

ローレンシウムLrの発見者 A・ギオルソさん

ギオルソさんは3つ年上のシーボーグさん(8月28日)の研究を装置の開発と運用でバックアップし、結果に導いた神。シーボーグさん自身が高度な実験技術を持っていたので、自分が手掛ける実験にはギオルソさんのもつ高度な測定装置の開発力や実験能力が不可欠と見て取った。マンハッタン計画に参加したのもシーボーグさんから求めがあったから。▼ギオルソさん自身は博士号取得のモチベーションはなかったようで、ひたすらサイクロンと測定装置に磨きをかける。世界トップの研究所にして初めて可能となる高度な実験を重ねた結果、新元素の発見数が12になり、ギネス世界記録になる。▼第一線を退いてからも超重元素の発見、核融合エネルギー、電子ビーム発生装置の研究を続けた。生き方の名人である。

アルバート・ギオルソ Albert Ghiorso 1915-2010 核物理技師。

1915年、カリフォルニア生まれ。イタリアとスペイン系の家系。
教育
10代のとき組み立てた無線機の遠距離受信性能が軍用より良いという評判を得る。
1937年(22才)カリフォルニア大学バークレー校から学士(電子工学)を取得。
活動
1937年(22才)政府に放射線検出器を販売するR・ティベッツ氏のもとで働く。
1937年(22才)カリフォルニア大学放射能研究所との出入りが始まりシーボーグさん(8月28日)と知り合う。
1939年(24才)WWII
1942年(27才)シーボーグさんに誘われマンハッタン計画に参加。測定装置の開発を手掛ける。
1944年(29才)アメリシウムAmを発見。キュリウムCmを発見。
1945年(30才)WWII終戦。バークレーに戻り、シーボーグさんとサイクロトロンで実験を重ねる。
1949年(34才)バークリウムBkを発見。
1950年(35才)カリホルニウムCfを発見。
1952年(37才)アインスタイニウムEsを発見。フェルミウムFmを発見。
1955年(40才)メンデレビウムMdを発見、メンデレエフさんの名前に因んで命名。
1957年(42才)バークレー大学が重イオン線形加速器Heavy Ion Linear Accelerator(HILAC)を建設、担当となる。
1958年(43才)ノーベリウムNoを発見。
1961年(46才)ローレンシウムLrを発見。サイクロトロンの発明者E・ローレンスさんの名前に因んで命名。
1969年(54才)ラザホージウムRfを発見。E・ラザフォードさん(8月18日)の名前に因んで命名。
1970年(55才)ドブニウムDbを発見。ソ連でもドブナ研究所が発見、ドブナの地名に因んで命名。
1974年(59才)シーボーギウムSgを発見。シーボーグさん(8月28日)の名前に因んで命名。
2010年(95才)死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AE%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%BD
https://en.wikipedia.org/wiki/Albert_Ghiorso

プルトニウムPuの発見者 G・シーボーグさん

シーボーグさんはローレンス放射線研究所のサイクロトロンを駆使して多くの元素を発見(作り出す)した物理化学者。その一つがプルトニウム。きわめて毒性が高い危険な物質である。発見の時期がWWIIの真っただ中というタイミング。ただちに原爆製造プロジェクトに組み込まれ、3年のうちにプルトニウム原子爆弾の設計、製造、試験が行われた。そして長崎に投下された。▼WWIIが終わった後はカリフォルニア大学バークレー校に戻り、サイクロトロンで新元素の発見を続ける。1951年にノーベル化学賞をマクミランさん(8月28日)と共に受賞する。

グレン・セオドア・シーボーグ Glenn Theodore Seaborg 1912-1999
物理化学者。
1912年、米国ミシガン州イシュペミング生まれ。
1924年(12年)一家でカリフォルニア州に転居。
教育
1929年(17年)ロサンゼルスのDavid Starr Jordan 高校を卒業。カリフォルニア大学バークレー校に入学。
1937年(25年)カリフォルニア大学から Ph.D.(化学)を取得。
活動
1937年(25年)カリフォルニア大学バークレー校の物理化学者ギルバート・ルイス先生の実験助手となり研究と論文発表に集中。
1939年(27年)WWII
1939年(27年)同校の化学講師になる。
1941年(29年)カリフォルニア大学バークレー校の助教授。
1941年(29年)プルトニウムPuを発見。冥王星Plutoの名に因んで命名。
1942年(30年)マンハッタン計画でプルトニウム部門を率いるため大学を離れる(46年まで)。
1943年(31年)原子爆弾の製造に必要となるプルトニウム生産炉がテネシー州のオークリッジに設立。
1944年(32年)アメリシウムAmを発見、アメリカ大陸の名に因んで命名。キュリウムCmを発見、キュリー夫妻に因んで命名。ロスアラモス国立研究所でプルトニウムを使用する原子爆弾ファットマンが製造される。
1945年(33年)トリニティ実験。ファットマンが長崎市で投下される。
1945年(33年)WWII終戦
1945年(33年)カリフォルニア大学バークレー校の化学の教授。
1946年(34年)マンハッタン計画終了。ローレンス放射研究所の運営メンバーになる。
1949年(37年)バークリウムBkを発見、大学があるバークレー校の地名に因んで命名。
1950年(38年)カリホルニウムCfを発見、カリフォルニアの地名と大学名に因んで命名。
1951年(39年)ノーベル化学賞を受賞
1952年(40年)アインスタイニウムEsを発見、アインシュタインさんの名前に因んで命名。フェルミウムFmを発見、エンリコ・フェルミさんの名前に因んで命名。
1954年(42年)ローレンス放射研究所の副理事(61年まで)
1955年(43年)メンデレビウムMdを発見、メンデレエフさんの名前に因んで命名。
1958年(46年)ノーベリウムNoを発見、アルフレッド・ノーベルさんの名前に因んで命名。
1999年(87年)死去。

https://www.nobelprize.org/prizes/chemistry/1951/seaborg/biographical/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%B0
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%8B%E3%82%A6%E3%83%A0

ネプツニウムNpの発見者 P・アベルソンさん

優れた先生の影響と自分の関心分野を組み合わせて、高校~大学院時代で自分の専門を見つけ出した。高校時代は、化学に熱心な教師の影響で化学に興味を持つ。大学時代は、物理の教え方がうまい先生の影響で物理にも興味を持つ。大学の機械実験室で機械に親しむ。博士課程はサイクロトロンを発明したローレンス先生の下で修業。▼27才のとき、サイクロトロンを使った実験でマクミランさんと共にネプツニウムの発見者になる。WWIIから核エネルギーの軍事利用に関わり、核爆弾製造のカギになる技術を発明する。原子力潜水艦の構想を立てノーチラス号として現実化する。

フィリップ・ホーグ・アベルソン Philip Hauge Abelson 1913-2004
核物理学者。

1913年、ワシントン州タコマの生まれ。父は技術者。
教育
高校時代から熱心な化学教師の影響で化学に興味を持つ。
ワシントン州立大学で化学の学士号。大学の機械実験室で多くの機械に触れる。
ワシントン州立大学で物理学の修士号。
1935年(22才)E・ローレンスさんの講義を聞いてカリフォルニア大学バークレー校に入学。
活動
PhD(核物理学)を取得後、ローレンス先生の下で核分裂の研究を続ける。
1939年(26才)ワシントンDCのカーネギー研究所で物理学助手を務める。
1939年(26才)WWII
1940年(27才)マクラミンさんと共同でネプツニウムを発見
1941年(28才)カーネギー研究所を退任。海軍研究所に入り同位体の拡散分離法を発明。核爆弾製造上の重要な技術となる。
1945年(32才)WWII終戦
1946年(33才)カーネギー研究所に復帰。原子力エネルギーの潜水艦への応用を研究。
1953年(40才)カーネギー地球物理学研究所の理事。
1958年(45才)世界初の原子力潜水艦ノーチラス号(1980年退役)で実現。
1962年(49才)サイエンス誌の編集委員(84年まで)。
1971年(58才)カーネギー地球物理学研究所の代表。
1978年(65才)カーネギー地球物理学研究所の評議員。
科学ライターとして活躍。名言「並外れた主張には並外れた証拠が必要 extraordinary claims require extraordinary evidence」
2004年(91才)死去。

https://en.wikipedia.org/wiki/Philip_Abelson
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%B3

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%A9%E3%82%B9_(%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E6%BD%9C%E6%B0%B4%E8%89%A6)

ネプツニウムNpの発見者 E・マクミランさん

マクラミンさんは、物質にイオンを高速でぶつけて新しい元素を作り出す装置・サイクロトロンを使ってネプツニウムを発見した化学者・物理学者。サイクロトロンの考案者であるE・ローレンスさんの元でサイクロトロンを作り上げた。新時代の研究基盤の登場だ。▼第二次世界大戦が始まったため、物理の知見を活かしてアメリカ軍の防御や探索用のレーダー開発に携わる。その途中、マンハッタン計画を進めていたオッペンハイマーさんから声がかかる。マンハッタン計画では、マクミランさんら多くの科学者の放射性物質に関する研究が核爆弾開発に応用され、数年のうちに核爆弾が完成する。▼戦後はローレンス研究所に戻り、こんどはシンクロトロンという新しいタイプのマシン開発に取り組む。▼マクラミンさんの凄いのは、新しい研究環境(道具や手法)を作る→その環境を使って新発見をする→新発見を応用して成果物を作り出す、という工程を全てやってのけたこと。

エドウィン・マティソン・マクミラン Edwin Mattison McMillan 1907-1991
アメリカの化学者、物理学者。

1907年、カリフォルニア州の Redondo Beach生まれ。父は物理学者。
教育
1913年(6 McKinley Elementary Schoolに入学。
1918年(11才)McKinley Elementary Schoolを卒業、Grant School に入学。
1920年(13才)Grant School を卒業、Pasadena High Schoolに入学。
1924年(17才)Pasadena High Schoolを卒業、自宅からすぐそばのCalifornia Institute of Technology (Caltech) に入学。
1928年(21才)Caltechで学士号を取得。Linus Pauling先生と研究。
1929年(22才)Caltechで修士号を取得。岩石中のラジウム測定法の研究。
1932年(25才)プリンストン大学で博士号を取得。 指導教員は Edward Condon先生。
活動
1932年(25才)National Research Council(NRC)の奨学金を受ける。
1934年(27才)Ernest Lawrence先生の誘いを受けカリフォルニア大学バークレー校バークレー放射研究所に勤務。
1935年(28才)ローレンス先生が考案したサイクロトロンの開発と活用に注力。
1939年(32才)WWII
発見
1940年(33才)サイクロトロンの活用によりネプツニウムNpを発見。海王星のneptuneに因んで命名。
1940年(33才)戦争のため MIT Radiation Laboratory に所属。空軍用マイクロ波レーダーの開発に従事。
1941年(34才)Navy Radio and Sound Laboratoryに所属し、ソナーの開発に従事。。
1942年(35才)オッペンハイマーさんからマンハッタン計画に勧誘される。
1943年(36才)核爆弾の開発に従事。爆発力が不足する問題が浮上、ノイマンさんが explosive lenses を提案し、解決。
1945年(38才)トリニティ核実験を成功させる。
1945年(38才)WWII終戦
1946年(39才)カリフォルニア大学バークレー校教授。
1951年(44才)ノーベル化学賞を受賞。
1958年(51才)ローレンス放射研究所の所長。
1973年(66才)ローレンス放射研究所を退任。
1991年(84才)死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%83%B3
https://en.wikipedia.org/wiki/Edwin_McMillan
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%97%E3%83%84%E3%83%8B%E3%82%A6%E3%83%A0

ウランUが放射線を出していると発見した A・ベクレルさん

ウランが放射線を出していることを発見した物理学者。この発見はセレンディピティの例という。ということは、セレンディピティとは、労せずしてよいものが手に入る意味の「棚から牡丹餅」とは違うことが分かる。なぜかというと、ものすごく労したから。▼ベクレルさんは、蛍光の専門家である(知見の積み重ねがある)、レントゲンさんがX線を発見し学会で報告したのを聞いている(最新情報を入手している)、さらに報告を聞いて自分の蛍光の研究に使えると判断したし(聞いただけで終わらせない)、その上でウラン塩を選んで何が出ているのか毎日写真乾板を感光させる実験を繰り返した(実践)、実験ができないときに未開封の写真看板とウラン塩を近くに置いていたらなぜか感光しているのを発見した(ここは、未開封なのになぜ現像したのかが分からないけどね)。こういう労というか条件が重なってウランが放射能を出していることを確認したわけだ。▼セレンディピティとは、徹底的に準備していながらも、その延長にある結果ではなく、思ってもいなかった斜め上あたりから求めていたものが降ってくる、という現象だ。▼当時は放射性物質の毒性が認識されていかなったので、ベクレルさんはマリさんから貰ったウランをいつも身近に置いていた。これはバリウムやマンガンを発見したシェーレさん(7月16日)が物質を舐める習慣があって、そのために毒にあたって44才で亡くなった例を思い起こさせる。

アントワーヌ・アンリ・ベクレル Antoine Henri Becquerel 1852-1908
フランスの物理学者・化学者。放射線の発見者

1852年、パリ生まれ。4代にわたる物理学者の家系に生まれる。
教育
予備校 Lycée Louis-le-Grand school で学ぶんだ後、エコール・ポリテクニークÉcole Polytechniqueで自然科学を学ぶ。さらに国立土木学校École des Ponts et Chausséesで工学を学ぶ。この間の年代不詳。
活動
1892年(40才)Muséum National d’Histoire Naturelle
1894年(42才)Department of Bridges and Highways の主任技師になる。
1896年(44才)レントゲンさんがX線を発見。以前から調べていたウラン塩のりん光とX線の関連性に興味を持つ。
1896年(44才)ウラン鉱石の隣の未感光の写真乾板が感光しているのを見てウランが放射線を発するのを確認
1903年(51才)ノーベル物理学賞をキュリー夫妻と共に受賞。ベクレルさんの名前に因んで放射線の国際単位がベルレルBqになる。
1908年(56才)死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%99%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%AB
https://en.wikipedia.org/wiki/Henri_Becquerel

プロトアクチニウムPaの発見者 O・ハーンさん

10代で化学者になる夢を持ち、事業を継承して欲しいと願っていた父を説得し大学に入る。イギリス留学中、ラムゼー先生について放射化学を研究した経験がその後の活躍の元になる。第一次と第二次の世界大戦を経験、化学者として国に協力。ノーベル化学賞を受けた年が1944年。ドイツ敗戦の前年。戦後はドイツの化学振興に尽力し、科学者の社会的に責任のスポークスマンになった。

オットー・ハーン Otto Hahn 化学者
1879年、ドイツのフランクフルト生まれ。父はガラス加工事業の経営者。
教育
1894年(15才)化学に興味を持つ。自宅に実験室を作る。化学産業に従事する夢を持つ。
1897年(18才)マールブルク大学に入学。化学のほか数学、物理学、鉱物学、哲学を学ぶ。
1899年(20才)ルートヴィヒ・マクシミリアン大学に移り有機化学を学ぶ。
1901年(22才)ルートヴィヒ・マクシミリアン大学で博士号を取得。
活動
1903年(24才)一年間軍務ついたあと大学に戻り助手として研究を継続。
1904年(25才)University College London に職を得てラムゼー先生のもとで放射化学の研究に着手。放射性トリウムradiothorium (thorium-228)を発見。
1906年(27才)ドイツに戻りカイザー・ヴィルヘルム研究所に入る。
1907年(28才)教育資格を取得し、私講師になる。リーゼ・マイトナーさんと共同研究を開始。
1910年(31才)教授になる。
1914年(35才)WWI。軍務につく。
1915年(36才)F・ハーバーさんと軍事用の毒ガス製造について協議。
1917年(38才)プロトアクチニウムを発見
1918年(39才)WWI終戦
1921年(42才)ウラニウムZを発見。
1928年(49才)カイザー・ヴィルヘルム研究所の所長。
1938年(59才)マイトナーさんのベルリン脱出に協力。
1939年(60才)WWII
1944年(65才)核分裂の発見によりノーベル化学賞を受賞
1945年(66才)WWII終戦
1946年(67才)マックス・プランク研究所の所長。
1954年(75才)科学者の社会的責任を啓発する活動に従事。
1968年(89才)死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B3
https://en.wikipedia.org/wiki/Otto_Hahn

プロトアクチニウムPaの発見者 L・マイトナーさん

プロトアクチニウムは、毒性の強い放射性の物質で、産業的な用途はない元素。しかし、それを発見したマイトナーさんは私にはスペシャルな存在の科学者だ。なぜか? ▼裏切られ、助けられ、これでもかというほど理不尽な目に遭わされ、それでも最後までマイトナーさんらしい生き方をしたから。器用かというとそうでもない、では不器用かというとそんなことは全くない。運が良いかというと、ナチスのドイツにいたユダヤ人なのだからそんなことはない。では運がないかというと、ナチの目が光るベルリンから無事に脱出できたのだから、運が悪いことはない。で、ベルリンから脱出できてハッピーになれたかというと、そうじゃなくて孤独に苛まれる。共同研究していた相手はノーベル賞を受賞し、自分は素通り。ふつうはひねくれるところ。栄誉に縁がなかったかというと、マイトナーさんの名前に因んだ元素名(マイトネリウムMt)がある。核分裂(fission)という用語を生み出した人なのに、核爆弾開発には距離を置いた。猛毒の放射性元素を研究対象にしていながら、90才の長寿。環境の振れ幅が大きいのに最後はマイトナーさんらしい生き方をしているのがスペシャルの由縁だ。▼ドイツでピンチの状態になっていたマイトナーさんを助けたのはハフニウムHfの発見者のひとり、ニールス・ボーア研究所のD・コスターさん(8月7日)。

リーゼ・マイトナー Lise Meitner 1878-1968 物理学者

1878年、ウィーン生まれ。ユダヤ系の家庭。父は弁護士。8人兄弟。
教育
小学校、高等小学校で学ぶ。
1892年(14才)高等小学校を卒業。フランス語教師になり収入を得る。
1899年(21才)フランス語教師を辞め入試勉強を開始。
1901年(23才)大学入学資格試験に合格、ウィーン大学に入学。 L・ボルツマン先生の講義に感銘を受ける。
1906年(28才)ウィーン大学から博士を取得。女性の博士号取得としては4人目。
活動
1907年(29才)ベルリンに出てM・プランク先生に弟子入り。
1907年(29才)オットー・ハーンさんと共同研究を開始。実験は地下の木工作業所、研究所には入らない条件。
1910年(32才)第1回国際ラジウム学会でマリ・キュリーさんと対面。
1912年(34才)カイザー・ヴィルヘルム研究所の無給客員研究員。
1913年(35才)カイザー・ヴィルヘルム研究所の正規研究員。
1914年(36才)WWI
1915年才)オーストリア軍のX線技師兼看護婦として従事。
1916年(38才)カイザー・ヴィルヘルム研究所に戻り放射性物質の研究を継続。F・ハーバーさんが所長。
1918年(40才)WWI終戦
1918年(40才)プロトアクチニウムを発見。アクチニウムに先立つという意味で命名。
1918年(40才)カイザー・ヴィルヘルム研究所の核物理部を担当。
1920年(42才)ハーンさんとの共同研究が終了、独立で研究を開始。物理学者のM・ラウエさんやJ・フランクさんと知り合う。
1922年(44才)ベルリン大学の教授。
1927年(49才)甥のオットー・フリッシュさんがベルリン滞在。
1933年(55才)ヒトラー政権。ユダヤ人の追放が始まる。F・ハーバー所長が辞職。教授職解任。
1934年(56才)E・フェルミの論文から刺激。ハーンさん、F・シュトラスマンと3人で共同研究を開始。
1938年(60才)オーストリアがドイツに併合。圧迫が始まる。
1938年(60才)ボーア研究所のディルク・コスターさん(8月7日)の助けでドイツを脱出。
1939年(61才)WWII
1939年(61才)ストックホルムのM・シーグバーン研究所で原子物理の研究。実験から核分裂が起きたと解釈して連名で発表し、fission(核分裂)と命名 。
1943年(65才)イギリスの科学者から核兵器開発の協力を打診され、断る。
1945年(67才)広島に原子爆弾が投下。取材が殺到。
1945年(67才)WWII終戦
1946年(68才)アメリカの大学の客員教授になり一時期、渡米。
1946年(68才)ハーンさんがノーベル化学賞を受賞。
1948年(70才)プランクの追悼式参加のためドイツ訪問。
1952年(74才)引退。
1960年(82才)ケンブリッジにある甥のオットー・フリッシュさんの家の近くに引っ越し。
1968年(90才)死去。
1997年、109番目の新元素がマイトナーの名に因んでマイトネリウムMtと命名。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%BC
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%88%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%83%81%E3%83%8B%E3%82%A6%E3%83%A0

トリウムThの発見者 J・ベルセリウスさん

ベルセリウスさんは、化学を有機と無機に分けたり、原子量を決定したり、元素の命名法を提案したりと現代化学の土台を整えた化学史の重鎮、スウェーデンの代表的化学者である。化学の流れがベルセリウスさんのところで一度整えられて流れ始めるマイルストーン的な存在。▼トリウムThは放射能を持つ。これは1898年にマリ・キュリーさんが発見している。核燃料になるほか、溶接材料やガラスの添加物として使われるなど用途が広い元素である。

イェンス・ヤコブ・ベルセリウス Jöns Jacob Berzelius 1779-1848 化学者、医師。

1779年、スウェーデン生まれ。父は高校教師、牧師。
1783年(4才)父が死去。継父から教育を受ける。
教育
1793年(14才)ギムナジウムに入学。 昆虫や植物の採集が好き。
1796年(17才)ウプサラ大学医学部に入学。化学をTaの発見者・エーケベリ先生(8月9日)に習う。
1801年(22才)ウプサラ大学医学部卒業。
1802年(23才)ウプサラ大学医学部から医学博士を取得。
活動
1803年(24才)セリウムCeを発見。
1804年(25才)ストックホルムで開業。カロリンスカ医学外科学院で医学と薬学の無給助手。
1807年(28才)カロリンスカ医学外科学院の教授。
1808年(29才)スウェーデン王立科学アカデミーの会員。スウェーデンで最初の女性化学者Anna Sundströmが助手につく。
1810年(31才)スウェーデン王立科学アカデミーの会長。
1813年(34才)元素記号の表記法を提唱、定着。
1817年(38才)セレンSeを発見。
1818年(39才)スウェーデン王立科学アカデミーの終身会員。
1824年(45才)シリコンSiの単離法を発見。
1828年(49才)トリウムを発見北欧神話の雷神トールに因んで命名
1835年(56才)男爵。
1837年(58才)スウェーデン・アカデミーの終身会員。
1848年(69才)死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9#:~:text=%E3%82%A4%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%82%B3%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%EF%BC%88%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3,%E5%87%BA%E8%BA%AB%E3%81%AE%E5%8C%96%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%80%81%E5%8C%BB%E5%B8%AB%E3%80%82
https://en.wikipedia.org/wiki/J%C3%B6ns_Jacob_Berzelius
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%83%A0#%E7%94%A8%E9%80%94