プロメチウムPmの発見者のひとり L・グレンデニンさん

原子爆弾製造のマンハッタン計画の化学者メンバー。放射性物質の研究を進める過程で同僚マリンスキーさんと共にプロメチウムを発見。原爆が完成したとき、研究所の仲間とトルーマン大統領あてに日本投下を思いとどまる嘆願書に署名した人物。

ローレンス・E・グレンデニン Lawrence Elgin Glendenin 1918–2008 化学者

1918年、ミシガン州ベイシティ生まれ。
教育
1941年(23才)シカゴ大学卒業。
1949年(31才)MITからPh.D.を取得。

活動
1941-1945年(23-27才)オークリッジ国立研究所(当時クリントン研究所)でマンハッタン計画の化学者として働く。核分裂によって生じる放射性元素を分離し、特定し、その特長を見極める仕事に従事。

発見
1945年(27才)同じ年のJ・マリンスキーさん(7月30日参照)、C・コリエルさんと三人で61番目の希土類の元素を発見。マリンスキーさんとグレンデニンさんが、ネオジムと中性子を衝突させて抽出。イオン交換クロマトグラフィー法を使って新元素を単離した。戦争時だったので公表はしなかった。元素名はコリエルさんの奥さんの提言(神々から火を盗んだ罪でゼウスから罰を受けた巨人プロメテウスの名前にしてはどうかしら)を受け入れて命名。
1947年(29才)マリンスキーさんとグレンデニンさんがアメリカ化学学会でプロメチウムの発見を発表。

原爆
1945年(27才)グレンデニンさんらマンハッタン計画に参加していた科学者154名は、請願書に書名した。その嘆願とは、トルーマン大統領に史上初となる原子爆弾を何の制限もないまま使わないこと、そして、日本に原爆の威力をよく分からせ、降伏を拒否したどんな結果になるのかを考える機会を与えることだった。

1949-85年(31-67才)アルゴン国立研究所に所属。

https://en.wikipedia.org/wiki/Lawrence_E._Glendenin

プロメチウムPmの発見者のひとり J・マリンスキーさん

原子爆弾製造のマンハッタン計画に参加し、化学者として研究を進める過程で同僚と共にプロメチウムを発見。マンハッタン計画の成果である原爆を日本に投下するかどうかの分かれ目のとき、投下を止める嘆願書に署名。戦後、勤めていた大学から合衆国への忠誠を誓う誓約書への署名を求められたとき、市民の自由を侵すものとして拒否、いったんは失職。だが最後は大学から名誉教授を贈られ表彰も受けている。筋を通す生き方に感動する。

ヤコブ・A・マリンスキー Jacob Akiba Marinsky 1918-2005 化学者

1918年、ニューヨーク州バッファロー生まれ。
教育
1934年(16才)ニューヨークのバッファロー大学に入学。
1939年(21才)バッファロー大学から学士(化学)を取得。

 発見
1944-46年(26-28才)第二次世界大戦中、マンハッタン計画にオークリッジ国立研究所の化学者として参加。
1945年(27才)ローレンス・E・グレンデニンさん、チャールズ・D・コルエルさんと共同で、イオン交換クロマトグラフィー法によって、新しい希土類61番の単離に成功。マンハッタン計画のメンバーでありながら、日本への原爆投下に反対する嘆願書に署名する科学者の一人だった。

命名
コルエルさんの奥さんグレースさんの提案で、神話のプロメテウスの名前からプロメチウムと命名。プロメチウスは神々から火を盗んで人に与えたのでゼウス神から罰せられたというエピソードの神である。オークリッジ国立研究所の当時の名前がClinton研究所だったのでクリントニウムにする案もあった。

その後
1947年(29才)第二次世界大戦が終わったので、アメリカ化学学会でプロメチウム発見報告を行う。
戦争が終わったのMITに入学。
1949年(31才)MITからPh.D.(核無機化学)取得。
1957年(39才)バッファロー大学教員。
1960年代(40代)バッファロー大学が教員に合衆国への忠誠を誓わせる書類への書名を要求。市民の自由を犯すものとして拒絶し、職を失う。
1988年(68才)バッファロー大学の名誉教授になる。

https://en.wikipedia.org/wiki/Jacob_A._Marinsky
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%A1%E3%83%81%E3%82%A6%E3%83%A0#:~:text=%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%A1%E3%83%81%E3%82%A6%E3%83%A0%EF%BC%88%E8%8B%B1%3A%20promethium%20%5Bpro%CA%8A%CB%88mi%CB%90%CE%B8i%C9%99m,%E5%90%8C%E4%BD%8D%E4%BD%93%E3%81%AF%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%82

プラセオジムPrとネオジムNdの発見者 C・ウェルスバッハさん

プラセオジムはガラスの着色剤に、ネオジムは超強力な磁石の原料に使われる。プラセオジムとネオジムの合金はまぶしい光を防ぐクルマの防眩ガラス等に使われる。発見の元になった材料はそれまで単体と思われていたジジミウム。ジジミウムには双子という意味がある。この双子はウェルスバッハさんに発見してもらうのを待っていたのかも知れない。ライターの火打石、電球のフィラメントなどを発明し事業化に成功を収めた。モットーが「もっと光を more light」。オーストリアの紙幣の肖像にもなった人物。

カール・アウアー・フォン・ヴェルスバッハ Carl Auer von Welsbach 1858-1929  オーストリアの化学者、発明家。

1858年、ウィーン生まれ。
父はオーストリア帝国印刷所の技師。
教育
ウィーンのMariahilfとJosefstadtにある学校に通う。
1873-77(15-17才)実科学校に通う。
1877年(17才)軍で兵役を務める。
1878年(18才)少尉に任ぜられて退役。
ウィーン大学に入学。で数学、化学全般、工学物理学、熱力学を学ぶ。
1880年(22才)ハイデルベルク大学に移り、R・ブンゼン先生(7月9日参照)について分光法を学ぶ。
1882年(24才)ハイデルベルク大学からPh.D.を取得。
ウィーン大学A・リーベン研究室の無給助手として着任。希土類元素を対象に化学分離法による研究を行う。

発見
1885年(27才)溶解度の差を利用して物質を精製する「分別晶析」法を開発し、それまでは一つの元素と思われていたジジミウムdidymosの分析に適用。結果、それぞれ色の違う二種類の塩を得た。プラセオジムPrとネオジムNdという二つの元素の分離に成功した。緑のほうをpraseodymium、ピンクのほうをneodidymiumと命名。
同年、ウィーン科学アカデミーに発見を報告。反応は、ブンゼン先生はこの報告を承認してくれた、一方、懐疑的な人たちもいた。

命名
プラセオジム:緑色なのでギリシャ語のニラprasonとジジミウムdidymosを合成して命名。
ネオジム:ギリシャ語の「新しい」意味するneosとジジミウムを合成して命名。
ジジミウムには双子という意味がある。

https://en.wikipedia.org/wiki/Carl_Auer_von_Welsbach
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F

セリウムCeの発見者 W・ヒージンガー&ベルセリウス組とM・クラップロートさん

スウェーデンのヒージンガーさん&ベルセリウスさん(6月29日参照)組とドイツのクラップロートさん(7月14日参照)が同じ年に、同じ鉱山の同じ鉱石から同じ元素(化合物)を発見。第一発見者はどちらか、で国を巻き込む論争になった最初の元素。セリウムの名前は、片方がセリア、片方がテールオクロイトを主張したので、学会がナカとって名付けられた。ベルセリウスさんとクラップロートさんはお馴染みなのでここではヒージンガーさんを紹介する。

ウィルヘルム・ヒージンガー Wilhelm Hisinger 1766–1852
スウェーデンの化学者。

1766年、スウェーデン生まれ。父は大きな精錬所の経営者。
ウプサラ大学で自然科学を学ぶ。
経済力があったのでベルセリウスさんを援助。
私設実験室で鉱物学の研究を行った。

セリウムCe発見@スウェーデン
1803年、ヒージンガーさん(37才)とベルセリウスさん(24才)がイットリウム鉱石から新元素がないか調べる過程でセリアを発見(実は、セリウムとランタンの化合物だったことが後で判明)。
命名
1801年に見つかった小惑星に付けられた名前セレス(ローマ神話の女神Ceres)にちなんでセリアceriaと命名。

セリウムCe発見@ドイツ
1803年、クラップロートさん(60才)が同じくイットリウム鉱石から新元素を発見。
命名
黄色い土という意味のテールオクロイトterre ochroiteと命名。

セリウムCe第一発見者は誰だ?争い
同じ年に発見されたこともあり、国家間で第一発見者を争う最初の事例になる。

1838年、C・モサンデルさん(7月27日参照)がランタンとセリウムを分離し、セリウムの単離に成功。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC
https://en.wikipedia.org/wiki/Wilhelm_Hisinger
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%83%A0

ランタンLa、テルビウムTb、エルビニウムErの発見者 C・モサンデルさん

ランタンは触媒やガラスの添加剤に使われる物質。量的には鉛の3倍。単離・発見したのはスウェーデンの医師・化学者のモサンデルさん。大学時代にベルセリウス先生に出会い、化学研究の本流に入ったことがその後の仕事と大発見につながる。仕事面ではベルセリウス先生の後継者になり、研究面ではランタンのほかエルビウム、テルビウムも発見する。

カール・グスタフ・モサンデル Carl Gustaf Mosander 1797-1858
スウェーデンの化学者 ランタンのほかエルビウム、テルビウムも発見

1797年、スウェーデン南西部の都市カルマル市生まれ
カルマル市で学校に通った。
教育
1809年(12才)母親とストックホルムに転居。薬局で見習い修行。
1817年(20才)薬剤師の試験に合格。医学に興味を持つ。
1820年(23才)カロリンスカ医科大学に入学。化学の教師はベルセリウス先生(6月29日参照)。
ドイツからベルセリウス研究室に留学してきたF・ヴェーラーさん(6月18日参照)と友人になる。

仕事
1825年(28才)医師試験に合格。ベルセリウス研究室で働く。
1827年(30才)外科学の修士号を取得。カロリンスカ医科大学で化学教員、自然歴史博物館で鉱物標本収集助手として働く。
1832年(35才)ベルセリウス先生の後任としてカロリンスカ医科大学の化学と薬学教授に就任。

発見
1839年(42才)硝酸セリウムからランタンを単離。
命名
見つけにくいため「隠れる」という意味の古代ギリシア語lanthaneinから命名。

発見
1843年(46才)イットリウムからテルビウムとエルビウムを単離。
命名
鉱石が見つかったスウェーデンの町イッテルビーに因んで命名。

https://en.wikipedia.org/wiki/Carl_Gustaf_Mosander
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%B3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AB

キセノンXeの発見者 W・ラムゼーさんとM・トラヴァースさん

キセノンはビルや住宅で使われる複層ガラスの断熱効果を出すためにガラスの間に封入されているガス。発見者はノーベル賞化学者のラムゼー先生(6月25日参照)と20才年下の弟子トラヴァースさん。トラヴァースさんは20代で新しい希ガスを発見するという快挙を成し遂げる。その後、30代はインドでイギリス流の理科大学を新設するプロジェクトに身を捧げる。今回は発見と貢献の人トラヴァースさんをご紹介する。

モーリス・ウィリアム・トラヴァース Morris William Travers 1872–1961 イギリスの化学者。

1872年、ロンドンのケンジントン生まれ。父は医師で無菌手術のパイオニア。
教育
ケント州ラムズゲートのブランデル学校で教育を受ける。
ユニバーシティ・カレッジに入りW・ラムゼイ先生の下で、新しく発見されたアルゴンガスやヘリウムガスの性質を見極める作業を行う。

発見
1898年(26才)ラムゼー先生と共に大量の液体空気を作って分離蒸留した。沸点ごとに分留し、スペクトル分析にかけてクリプトン、ネオンそしてキセノンを得た。化学者の仲間から「希ガスのトラヴァース」と呼ばれる。

名称
語源はギリシャ語のxenos。「異邦人」や「なじみにくいもの」という意味でキセノンの揮発しにくさを表わしている。

その後 インドで大学新設
1901-02年(29-30才)インド政府とタタグループの創立者JN Tata氏からインドで理科大学(IIS)を設立するためのアドバイスを求められる。ラムゼー先生からの後押しもあり、協力開始。狙いはインペリアル・カレッジ・ロンドンのインド版だった。途中JN Tata氏と政府の齟齬に悩む。
1904年(32才)ユニバーシティ・カレッジの教授に就任。
1906年(34才)IISの責任者として現地のバンガロールに出張。
1911年(39才)総合、植物、応用化学、電気工学の4学部でIISがスタート。
1914年(42才)第一次世界大戦の勃発のためインドを離れイギリスに帰国。ダクラス社でガラス製造工場を監督。

その後2 技術の応用と普及
1920年(48才)Travers and Clark社を起業。石炭からガスを取り出したり、これに付随する高温炉や燃料制御技術を提供する会社。
1927年(55才)ブリストル大学に応用化学の名誉教授として着任。極低温技術や液体ガスの正確な温度測定技術の研究を継続。ヨーロッパで液体空気を製造する工場建設のサポートも行った。

晩年
1956年(86才)恩師ラムゼー先生の研究活動を網羅した伝記「The life of Sir William Ramsay」を出版。

https://en.wikipedia.org/wiki/Morris_Travers
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%BB%E3%83%8E%E3%83%B3#:~:text=%E3%82%AD%E3%82%BB%E3%83%8E%E3%83%B3%EF%BC%88%E8%8B%B1%3A%20xenon%E3%80%81%E7%8B%AC,%E3%83%A9%E3%83%A0%E3%82%BC%E3%83%BC%20(W.

ヨウ素Iの発見者 B・クールトアさん

ヨードチンキの原料になるヨウ素。これを発見したのはフランスの化学者クールトアさん。お父さんが化学者で起業家。火薬で儲けようと硝酸工場を持つものの見事に失敗して借金が残る。息子のクールトアさんが工場再起のため頑張るものの戦争のため原料の木材が欠乏。代替として海岸で捨てられていた海藻に目を付けたのが幸運を呼ぶことになる。発見者の名前が歴史に残ったのは、ゲイ=リュサックさん(6月16日参照)とH・デービーさん(6月26日参照)の騎士道精神というか科学者道のおかげ。フランスとイギリス、国を超えた化学者の信義が光っている。

ベルナール・クールトア Bernard Courtois 1777-1838 フランスの化学者。

1777年、フランスのディジョン生まれ。
教育
父の仕事場がディジョン・アカデミーという申し分のない環境で育つ。
一家は小さなホテルを研究室に改装した住居に住んでいた。
クールトアさんの父親は、フランスの化学者でディジョンの議員ルイ=ベルナール・ギトン・ド・モルボーさんの助手を務めながら、アカデミーの薬剤師も兼任していた。
1789年(12才)父がフランス革命で火薬の需要が起こると見込み、サン-メダールという町にある硝酸塩の製造工場を購入。一家で転居。クールトアさんも父親の工場で硝酸カリウムの製造方法を学ぶ。
1795-98年(18-21才)実家からオーセールの街に出て化学者の見習い修行に入る。この間、パリのエコール・ポリティークで働き口を見つける。

社会
1799年(22才)軍病院の薬剤師として勤務。
1801年(24才)ルイ・テナールさん(6月17日参照)の研究室で働くため、エコール・ポリティークに戻る。
1802年(25才)エコール・ポリティークでアルマンド・セグインさんとアヘンの研究を行う。セグインと共にモルヒネの単離に成功する。
1804年(27才)エコール・ポリティークでのアヘン研究を終え、父が行っている硝酸カリウム製造事業に参加。
1805-07年(28-30才)父が事業に失敗。借金が返せなくなったため債務者刑務所に入る。この間、クールトアさんは硝石ビジネスマンとして家業の復興に尽力。

ヨウ素の発見
1811年(34才)戦争のため硝酸カリウムの製造に必要な木材の灰が不足し、硝石事業が低迷。
そこで木材の代替としてノルマンディとブルターニュの海岸の(捨てられていた)海藻を試みる。クールトアさんが海藻灰からナトリウムとカリウムの化合物を分離するため硫酸を加えたとき、目にしたことがない紫色の蒸気が発生し銅製の容器が腐食した。これがヨウ素だった。
サンプルを受け取ったゲイ=リュサックさんとH・デービーさんが、新元素を確認。クールトアさんをヨウ素の発見者と認定。

命名
1813年(36才)ゲイ=リュサックさんがギリシャ語の紫「Iode」と命名。蒸気が紫色を示すのにちなんだ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A2
https://en.wikipedia.org/wiki/Bernard_Courtois
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%A6%E7%B4%A0

テルルTeの発見者 F・ライヒェンシュタインさん

新しい金属元素を発見したけれども、名前を付けて発表するまでの踏ん切りがつかない。その状態が20年近く続く。思い切ってドイツの化学者クラプロートさん(7月14日参照)に送って分析してもらった。結果は新しい金属元素で間違いなし。クラップロートさんはテルルと名付け、発見者の名前をライヒェンシュタインさんで届けた。今回の話は、20年という考えられないライヒェンシュタインさんの長考と、新元素発見の栄誉を譲るクラップロートさんの人徳が清々しい。

フランツ=ヨーゼフ・ミュラー・フォン・ライヒェンシュタイン Franz-Joseph Müller von Reichenstein 1740-1825 オーストリアの化学者、鉱物学者。

1740年、ハプスブルグ帝国、下オーストリア生まれ。
教育
ウィーンで哲学と法律を学ぶ。
1763年(23才)スロバキアにある鉱山大学に入学。鉱業、力学、鉱物学、化学を学ぶ。

活動
1768年(28才)公的資格を持つ鉱山測量技師になる。
1770年(30才)バナト王立鉱山委員会に入り、バナト地域の鉱山について大量の知識を身に着ける。上級鉱山技師に昇格し鉱山管理者になる。
1775年(35才)チロルの鉱山管理者になる。

困惑
1778年(38才)地域一体の鉱山の監督者になり、持ち込まれる鉱石サンプルの分析を手掛ける。あるときルーマニアで見つかった鉱石にアンチモニーが含まれているどうかの分析案件があった。分析して、いったんはアンチモニーは含まれてないと結論。
1779年(39才)前年の結論を修正し、当該鉱石は金とアンチモニーによく似た正体不明の金属が含まれると報告。以来、ライヒェンシュタインさんは3年かけて50種類の試験を実施。ある程度の見当はつけたものの、名付けて発表するまでには至らない状況が続く。

発見
サンプルをドイツのクラプロートさんに送る。
1797年(57才)クラプロートさんがライヒェンシュタインさんから送られたサンプルを分析し、新しい金属の単離に成功。これがテルル。
1798年(58才)クラプロートさんが新しい金属をテルルと命名。クラプロートさんは、ライヒェンシュタインさん発見者として届けた。

名前の由来
語源はラテン語のTellus。ローマ神話に出てくる大地の女神テルースの名前。地球という意味もある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%92%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%AB

インジウムInの発見者 F・ライヒさんとH・リヒターさん

25才違いのコンビネーションによる快挙。ライヒさんは視覚障害のため色の判別ができなかった。その弱みをリヒターさんがカバーするという役割分担。インジウムのスペクトルは鮮やかなインディゴ・ブルーを示すことから名付けられた。役割分担の勝利! 発見時の二人の喜びはさぞや、と思われる。

▼フェルディナント・ライヒ Ferdinand Reich 1799-1882 ドイツの化学者

1799年、ドイツのベルンブルク生まれ。
視覚障害(色盲もしくは白黒の判別だけ)があったので、リヒターさんと共同研究していた。
リヒターさんの役割は、実験で得た物質の色の確認だった。

発見
1863年(64才)フラインベルグ鉱山大学でリヒターさんと共にインジウムの単離に成功。

▼テオドール・リヒター Hieronymus Theodor Richter 1824-1898 ドイツの鉱物学者、化学者

1824年、ドイツのドレスデン生まれ。
1843年(19才)フライベルク鉱山大学で学ぶ。
1863年(39才)フライベルク鉱山大学の教授。
1875-96年(51-72才)フライベルク鉱山大学の学長。

発見
1863年(39才)F・ライヒさんと共同で亜鉛鉱石からインジウムの単離に成功。インジウムを発見。

名前の由来
鮮やかな濃い藍色(indigo)の発光スペクトルを示すことから。

https://en.wikipedia.org/wiki/Ferdinand_Reich
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%92
https://en.wikipedia.org/wiki/Hieronymous_Theodor_Richter

カドミウムCdの発見者 F・シュトロマイヤーさん

カドミウムと言えば毒性を連想する人は多いのではないだろうか。日本ではイタイイタイ病を引き起こす原因になった物質である。イタイイタイ病は岐阜県神岡鉱山の製錬で使われた廃水が川に流され、川下で飲料や稲作・耕作に使われた結果、体内蓄積して毒性が現れたもの。性質が明らかになるに従い、産業用途も広がった。カドミウムを見つけたのはドイツの化学者シュトロマイヤーさん。ブンゼンバーナーで有名なブンゼンさん(7月9日参照)の師匠である。

フリードリヒ・シュトロマイヤー Friedrich Strohmeyer 1776-1835
ドイツの化学者

1776年、ドイツの中央部の都市ゲッティンゲン生まれ。父はゲッティンゲン大学の薬学教授。
1800年(24才)化学と薬学をゲッティンゲンとパリで学んだ後、ゲッティンゲン大学からMDを取得。
ゲッティンゲン大学に入り、後に教授になる。弟子にロベルト・ブンゼンがいる。

発見
1817年(41才)ハノーファー公国の薬局の監督長官のとき。炭酸亜鉛の化合物を調べる過程でカドミウムを発見。つまり薬品の研究をしているときに新物質が存在している可能性に気づき、うまく単離ができてそれがカドミウムだった、という流れ。元素ハンティング的方法とは異なる。実務者に訪れたセレンディピティ。

名前の由来
二つの説がある。
・フェニキアの神話に出てくる王子の名前でギリシアの地名でもあるカドムスにちなんで命名説。
・ギリシャ語で菱亜鉛鉱を意味するカドメイア Kadmeia にちなんで命名説。

https://en.wikipedia.org/wiki/Friedrich_Stromeyer
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC#:~:text=%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC%EF%BC%88Friedrich%20Strohmeyer,%E3%81%AB%E3%82%AB%E3%83%89%E3%83%9F%E3%82%A6%E3%83%A0%E3%82%92%E7%99%BA%E8%A6%8B%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%89%E3%83%9F%E3%82%A6%E3%83%A0#:~:text=%E3%82%AB%E3%83%89%E3%83%9F%E3%82%A6%E3%83%A0%EF%BC%88%E8%8B%B1%3A%20cadmium%EF%BC%89%E3%81%AF,%E3%81%AE%E9%87%91%E5%B1%9E%E5%85%83%E7%B4%A0%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82