塩素Cl元素の発見 H・デービーさん(3) 正体不明の対象から要素を選り分ける達人

元素の発見に大きな貢献をしたデービーさん。デービーさんが報告するまで塩素Clは化合物と思われていた。しかし実験で元素であることを示した。

ハンフリー・デービー Sir Humphry Davy 1778-1829
プロフィール → 6月27日、28日参照

▼塩素Clの発見、命名
1801年(23才)王立研究所のスタッフになってからは化合物を電気分解して元素を見つける方法に熟達する。
1810年(32才)塩酸を電気分解すると水素と塩素が得られ、酸素は出てこない。そこでシェーレ氏の認識は間違っていてClは元素だと指摘。気体の色が黄緑色なので「黄緑色」を意味するギリシャ語からchlorineと命名した。

▼先立つ発見
1774年、スウェーデンの化学者カール・ヴィルヘルム・シェーレ氏(6月29日、ベルセリウスさんの師匠)が二酸化マンガンと塩酸を加熱して塩素を単体分離。分離した気体を観察して、リトマス染料を脱色する、虫を殺す作用がある、色は黄緑色などの特徴を把握。しかし、酸素を含んだ「化合物」と認識。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E7%B4%A0#%E6%AD%B4%E5%8F%B2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%BC
THE MYSTERY OF MATTER: SEARCH FOR THE ELEMENTS | Davy’s Greatest Failure | PBS

子供時代の学び方 Siの発見 J・ベルセリウスさん 収集と分類でアタマを整理

分類し体系化が好きで得意。化学を有機化学と無機化学に分け、世人の目から鱗を落とした。近代化学の父。AlアルミニウムやBeベリリウムを発見したF・ヴェーラーさんの指導者。業績が大きいのでここでは子供から大学時代を見ます。

イェンス・ヤコブ・ベルセリウス Jöns Jacob Berzelius 1779-1848 スウェーデンの化学者、医師

1779年スウェーデン生まれ。父親は学校の教師、母親は主婦。両親は同じ教区の出。生まれた年に父親が死去。しばらくして母親は牧師と再婚。ベルセリウスさんは二度目の父親から理系の知識を含む基礎教育を与えられる
1787年(8才)母親が死去。ベルセリウスさんは親戚の家に移され、そこから学校に通う
10代で近所の農家の家庭教師になる。この時期から、花や昆虫を採集し分類に興味を持つ
1796-1801年(17-22才)Uppsala大学の医学生。この時期、タンタルTaを発見したA・G・エーケベリ先生から化学を習う。また、薬局ではガラス吹きのような実験室で必要な技能も修得。(6月23日のプリーストリーさんと別に)酸素の発見者であるC・W・シェーレ先生(1742-86)から化学実験のトレーニングも受けた。シェーレ先生は材料をなめて確かめる癖があり、44才にして亡くなったのは毒性の物質をなめてしまった可能性がある、とされている。ベルセリウスさんが指導を受けた時、シェーレ先生は30代後半の頃だった
1800年(21才)安定した電流を確保できるのでボルタの電池を研究。材料を変えて自分用のオリジナル電池を開発し、電気化学の扉を開く。この年、Uppsala大学を修了して医学博士となる
卒業後はストックホルム近辺で医師として働く。しばらくしてカロリンスカ医科大の助手になる
1807年(28才)カロリンスカ医科大の教授になる
1823年(44才)シリコンSiの単離に成功。siliconとは火打石という意味のラテン語で、命名したのはA・ラボアジェ氏。この年にF・ヴェーラーさんがドイツから留学してくる

https://en.wikipedia.org/wiki/J%C3%B6ns_Jacob_Berzelius
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%82%A4%E7%B4%A0
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9#:~:text=%E3%82%A4%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%82%B3%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%EF%BC%88%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3,%E5%87%BA%E8%BA%AB%E3%81%AE%E5%8C%96%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%80%81%E5%8C%BB%E5%B8%AB%E3%80%82

KI:s founder Jöns Jacob Berzelius

子供時代の学び方 Alの発見 F・ヴェーラーさん(2) 継続力と手法の力

医学部学生時代から下宿で化学実験する実験オタク。ヨーロッパの科学者ネットワークで情報を得ながら確かな手法で確実な結果を追及した。アルミニウム発見の報告を知って追試の結果、間違いだと確信したあと、20年かけて自力でアルミニウムを作り出す。ヴェーラーさんは継続力と手法の威力を形にした。

Friedrich Wöhler 1800-1882 ドイツの化学者 Alアルミニウムの発見者

プロフィール → 6月18日参照

▼アルミニウム発見の経緯
1825年(25才)デンマークの化学者H・C・エルステッド氏が「金属アルミニウムの作製に成功した」と発表し金属サンプルを展示
1827年(27才)ヴェーラーさんはエルステッド氏の実験を自分で行ってみた。しかしアルミニウムを発見できない。そこで留学時の指導教員で化学の権威であるベルセリウス氏に「エルステッド氏がアルミニウムとしたものは、アルミニウムを含有する不純物」と報告。自分の方法でアルミニウム作成実験を継続する
1845年(45才)小さなアルミニウムの塊の作製に成功。論文にして発表。これをもってヴェーラーさんが金属アルミニウムの発見者となる
一方、エルステッド氏の方法では誰もアルミニウムを得られなかったため、発見者とみなされずに終わった

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%83%8B%E3%82%A6%E3%83%A0#%E6%AD%B4%E5%8F%B2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9#:~:text=%E3%82%A4%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%82%B3%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%EF%BC%88%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3,%E5%87%BA%E8%BA%AB%E3%81%AE%E5%8C%96%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%80%81%E5%8C%BB%E5%B8%AB%E3%80%82

子供時代の学び方 Mgの発見 H・デービーさん(2) 学んだ知識を巧みにアウトプット

幼少から知識欲旺盛で弁が立っていた。8才の頃、市場で遊んでいる子供を集め荷車の上から最近読んだ本の話を聞かせていた。得た知識を聞き手が喜ぶようにアウトプットするのに長けていた。この能力は21才から王立研究所で花開く。

ハンフリー・デービー Sir Humphry Davy 1778-1829 イギリスの化学者

1799年(21才)貴族向けに公開実験で科学知識を普及する「王立研究所」をロンドンで開設。デービーさんの実験と講演は面白くて評判を呼ぶ
1801年(23才)王立研究所の化学講演助手兼実験主任に着任
1802年(24才)講演助手から正講演者に昇格

ボルタの電池で化合物を電気分解し次々に6つの元素を発見する
1807年(29才) (1)水酸化カリウムKOH → Kカリウムを発見
(2)水酸化ナトリウム → Naナトリウムを発見
1808年(30才) (3)石灰と酸化水銀の混合物 → Caカルシウムを発見
(4)酸化マグネシウムと酸化水銀の混合物 → Mgマグネシウムを発見
(5)ホウ酸溶液 → Bホウ素を発見
(6)バリウム塩 → Baバリウムを発見

1813年(35才)三塩化窒素の実験中に爆発が起き一時的に視力失う。前から知っていた13才年下のマイケル・ファラデーに声をかけ秘書として雇う。王立研究所の化学助手に欠員が出たのでファラデーを後任にする。

▼アントワーヌ・ビュシー氏(Antoine Alexandre Brutus Bussy 1794-1882 フランスの化学者)はデービーさんとは別にMgの単離に成功している
1809年(15才)デービーさんがMgの単離に成功
1830年(36才)Mgマグネシウムを単離

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%BC
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%A9%E3%83%87%E3%83%BC

子供時代の学び方 Naの発見 H・デービーさん 生みの父より義理の祖父

Naを発見した人。デービーさんは幼いころから読書好きで賢く、医師の祖父が良い教育を受けさせるために世話を焼いてくれた。その時々で人との出会いにも恵まれた。祖父は医師を望んだが、20才で本人が化学の道を希望すると認めた。一人で発見した元素の数が6つ。史上最高記録。

ハンフリー・デービー Sir Humphry Davy 1778-1829 イギリスの化学者

1778年、イングランド南西端のコーンウォール生まれ。5人兄弟。父は旧家の出、利益よりも芸術性を追求するタイプの木彫職人。妻も旧家の出。ペンザンスという町にある先祖代々の土地で育つ。妻方の祖父で外科医のトンキンさんが幼いデービーが記憶力がよく聡明さであることを認め、父親を説得してペンザンスのグラマースクールからJ. C. Coryton という聖職者の指導が受けられる私立学校に転校させる。▼近所にいたR・ダンキンさんという馬具製作者は趣味でボルタ電池やライデン瓶を作ったり、数学の原理が分かる模型を作っていた。そのダンキンさんと知り合ったことで科学や実験に興味を持つようになる。
1793年(15才)トルーローという町でCardew博士のゆるい指導を受ける。「型にはめられずに放っておかれたことが自分にとってはよかった」(デービーさん)「当時はあの子の才能に気づかなかった」(Cardew博士)
1794年(16才)父親が死去。トンキンさんはデービーを知人の外科医に見習い弟子入りさせる
1795年(17才)見習い弟子期間が終了。病院の薬局で化学を学び、トンキンさんの自宅の屋根裏で化学実験を行うなどして過ごす
1798年(20才)ブリストルの気体研究所に入り、実験の指揮を担当
1801年(23才)王立研究所で化学講演助手兼実験主任になる
1803年(25才)王立協会フェローに選任
1807年(29才)ナトリウムの単離に成功。Naは炭酸ソーダのラテン語natronやギリシア語に由来。英語はsodiumと言い、こちらはアラビア語sudaに由来。ドイツ語はNatrium。日本にはドイツ語で入ったのでナトリウム
1812年(34才)ナイトになる
1813年(35才)ファラデーを王立研究所の化学助手にする
1814年(36才)ミラノでボルタの電池で有名なアレッサンドロ・ボルタと会う
1819年(41才)当時のイギリスの科学者(平民)としては最高の栄誉である準男爵になる
1820年(42才)王立協会会長に就任
1829年(51才)療養のため訪れていたスイスで死去。その後の研究はファラデーが引き継ぎ発展させた

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%BC
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%83%A0

子供時代の学び方 Neの発見 W・ラムゼーさん 社会経験の後、大学で専門家に

ネオンNeの発見者ラムゼーさんは若い時、造船技師になろうとする。しかし化学の専門家になるため造船見習いを辞めて大学に進む。方針転換とよき人とのつながり(師匠、研究者ら)の効用で希ガスを発見できた。Neはギリシャ語で「新しい」の意味。

ウィリアム・ラムゼー William Ramsay 1852–1916 Neを発見したスコットランドの化学者
1852年、グラスゴー生まれ。父は技師・測量士。初等・中等教育は、3才から18才までの子供を教育するグラスゴー・アカデミーで学ぶ。卒業して造船技師の見習いなる
1866年(22才)造船技師の道を辞め、化学を学ぶためグラスゴー大学に入学。T.アンダーソン先生の指導を受ける
1869年(25才)グラスゴー大学を卒業し、ドイツのTübingen大学に留学
1873年(29才)Tübingen大学でPhD取得。グラスゴー大学に戻り、アンダーソン先生の助手を務める
1879年(35才)ブリストル大学の化学教授に就任
1881年(37才)ブリストル大学の学長に就任、有機化学とガスの研究は継続
1895年(51才)イギリスの物理学者レイリーさんと共にアルゴンを発見
1898年(54才)ネオンを発見(クリプトン、キセノンも発見)
1904年(52才)空気中の希ガスの発見によりノーベル化学賞を受賞、レイリーさんはノーベル物理学賞を受賞

https://en.wikipedia.org/wiki/William_Ramsay
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%A0%E3%82%BC%E3%83%BC

子供時代の学び方 Fの発見 H・モアッサンさん 人助けの経験から化学の道を志す

フッ素Fの研究と単離によってフランスに初めてノーベル化学賞をもたらした人。学校を中退しているので、それほど学校には興味はなかった。薬局で働いたときヒ素中毒患者を救う経験をし、化学の道を志す。そのとき師事した化学者に学歴をつける意義を説明され受験勉強から始める。

フェルディナン・フレデリック・アンリ・モアッサン Ferdinand Frédéric Henri Moissan 1852–1907 フッ素Fの単離に成功した人

1852年、東部鉄道の管理職の父、裁縫師でユダヤ系の母のもと、パリで生まれる
1864年(12才)一家でモーという町に転居し、その地の学校に通う
1870年(18才)大学入学資格バカロレアを得ないまま学校を中退。パリの薬屋で働き始める。ヒ素中毒の人を助けるという体験をする。これで化学の道に進もうと決意。デランDehérain先生に師事。先生は学歴の必要性を説明。バカロレアに挑戦を開始
1874年(22才)バカロレアを取得。デラン先生と共同で植物の二酸化炭素と酸素の代謝に関する論文を発表。その後、植物生理学から無機化学へ専門を変える
1880年(28才)シアンとシアン化合物の研究でÉcole Pratique des Haute Étudesの博士号を取得。友人の紹介があった研究所に就職。フッ素の分離の研究に注力。自前の実験室を持っておらず、シャルル・フリーデルらの実験室を借りて研究を続けた
1886年(34才)フッ化水素の電気分解によってフッ素の分離に成功
1906年(54才)フッ素の研究と分離、モアッサン電気炉製作によってノーベル化学賞を受賞
1907年(54才)パリで急死

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%82%A2%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%B3#:~:text=%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%82%A2%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%B3,%E3%81%99%E3%82%8B%E6%96%B9%E6%B3%95%E3%82%92%E9%96%8B%E7%99%BA%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82
Henri Moissan short documentary English version
https://www.youtube.com/watch?v=WndM6FUQCGY

子供時代の学び方 J・プリーストリーさん 実家を出されても聡明さが身を助ける

酸素Oの発見者。プリーストリーさん単独の発見というより実験している人たちがそれぞれの方法で存在を把握していた。幼少時代は実家の都合で里子に出されたけど、聡明さを認めてくれる環境だったのが幸い。

ジョゼフ・プリーストリー Joseph Priestley 1733-1804

1733年、イングランドで布地の仕上げ業を営む父の元に生まれる。
1734年(1才)6人兄弟の長男として母親の負担を軽くするため、祖父に預けられる。「ウェストミンスター小教理107の問答」を4歳で全て暗唱してみせるほど頭脳明晰な子
1739年(6才)母が亡くなったので、実家に戻る。
1741年(8才)父が再婚したので、裕福な叔父夫婦一家に出される。叔母は聡明なプリーストリーさんが聖職者に向いていると考え最良の教育を目指す。地元の学校でギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語を学ぶ。
1749年(16才)重病を患い死を覚悟。一命をとりとめたものの後遺症で吃音が残る。リスボンに転地、貿易商を営む親戚に身を寄せる。フランス語、イタリア語、ドイツ語など様々な言語を学ぶ。牧師に個人指導を受け、高等数学、自然哲学、論理学、形而上学を学ぶ。
1752年(19才)ダヴェントリーAcademyに入学。学力があったので2学年を飛び越して進級。猛勉強を続ける
1755年(22才)サフォーク州の町に聖職者として着任
1758年(25才)チェシャー州の町に転任、学校も開設。自然哲学を教え、実験器具も揃えた。英文法の教科書がダメだったので、自分で『英文法の基礎』を書いて出版。
1761年(28才)ウォリントンAcademyの教師に着任。言語、修辞学、数学の講師を務める。ウォリントンは「北のアテナイ」と言われほど学問が活発な土地柄。知人らの影響もあり電気や化学実験に親しむ。
1774年(41才)酸素を発見し、論文にまとめる。酸素と名付けたのはラボアジェさん。ギリシア語で「酸の素」という意味のoxysにちなんで命名。なぜ酸の素と考えたのかは当時の論理展開の結果。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC

Joseph Priestley Discovers Oxygen

子供時代の学び方 A・ラボアジェさん 先生との出会で科学好きが開眼

酸素Oの命名者。なぜモノは燃えるのか、その理由を説明する当時の常識「フロギストン説」を覆した「近代科学の父」。

アントワーヌ=ローラン・ド・ラボアジェ Antoine-Laurent de Lavoisier 1743-1794 パリ出身の化学者、貴族。

1743年、フランス王国パリに裕福な弁護士である父の下に生まれる
1748年(5才)母を失う。莫大な遺産を相続。叔母に育てられる
1754年(11才)マザラン学校に入学。
1760–61年(17-18才)マザラン学校最後の2年で、卓越した数学者のラカイル先生に出会い化学、植物学、天文学、数学へ一生続く強い関心を持つ。
1761-63年(18-20才)パリ大学法学部に進学。自然科学への関心が深かったので、天文学はラカーユ先生から(そのため喜望峰に滞在)、地質学と鉱物学をゲタール先生から(そのためフランスの地質図作成に協力)。植物学をジュシュー先生から、化学をルエル先生から学ぶ
1763年(20才)パリ大学法学部学士
1764年(21才)弁護士試験に合格。高等法院法学士となる
1766年(23才)フランス科学アカデミーに投稿した論文が1等賞になり、国王ルイ15世から金メダルが授与される
1768年(25才)徴税請負人になる
1771年(28才)徴税請負人長官の娘マリー=アンヌと結婚。マリーさんはラボアジェさんが論文に使用する説明図作成に能力を発揮
1777年(34才)燃焼は「物質と気体が結合すること」と説明
1779年(36才)その気体を「酸素oxygène」と名付ける
1789年(46才)33の元素のリストを載せ、質量保存の法則を説明した『化学原論』を出版。図版はマリーさん担当。10年間にわたりヨーロッパ化学の標準教科書として使われた
1792年(49才)政府関係の職を全て辞任、科学アカデミーの活動に専念
1793年(50才)徴税請負人の娘と結婚していたので投獄
1794年5月8日、ロベスピエール派の裁判で「フランス人民に対する陰謀」でギロチンの刑に処せられる
7月28日、こんどはロベスピエール派がギロチンにかけられる(恐怖政治の終わり)

https://en.wikipedia.org/wiki/Antoine_Lavoisier
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A8#:~:text=%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%8C%EF%BC%9D%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A8,%E5%87%BA%E8%BA%AB%E3%81%AE%E5%8C%96%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%80%81%E8%B2%B4%E6%97%8F%E3%80%82
THE MYSTERY OF MATTER: SEARCH FOR THE ELEMENTS | Lavoisier’s Better Half | PBS

子供時代の学び方 D・ラザフォードさん 恵まれた環境を活かす力

ラザフォードさんは大学在学中、先生から出された課題をやった結果、窒素を発見した。課題をまじめにやると良いことがあるという例。

ダニエル・ラザフォード Daniel Rutherford 1749-1819 窒素Nを発見した

1749年、エジンバラ大学医学部教授の父の元に生まれる
1765年(16才)自宅の近くにある私立Mundell’s Schoolで学んだあと、エジンバラ大学に入学。J. Black先生の元で薬学を学ぶ。
1772年(23才)二酸化炭素の研究をしていたBlack先生から、燃焼後の空気に二酸化炭素以外のものがあるので、その正体をつきとめなさいという課題を貰う。実験を行い、それを「有毒な空気noxious air」と報告。これが窒素だった
1772年(23才)エジンバラ大学医学博士になる
1775-86年(26-37才)医師として経験を積む
1786年(37才)エディンバラ大学教授に就任

▼窒素の英語名「nitrogenナイトロジェン」は、ギリシア語の「硝石」と「生じる」を組み合わせたもの
▼ドイツ語名「Stickstoffシュティクシュトフ」は「窒息させる」と「物質」を組み合わせたもの ▼日本語の「窒素」はドイツ語訳

https://en.wikipedia.org/wiki/Daniel_Rutherford
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%8B%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%B6%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AA%92%E7%B4%A0

【気体の性質】窒素