リーゼ・マイトナーさんとキャヴェンディッシュ研究所の神々(3)原子のモデルを示した:E・ラザフォードさん

▼ニュージーランドで農業を営む家庭の生まれ。奨学金で大学に進学。高校の先生になろうとしてして試験を受けると3回不合格。研究職学金を得てニュージーランドを出てイギリスに渡る。ここから世界が広がる。
▼原子核の発見者であり、原子核の「壊し手」でもあった。原子は、原子核を中心に電子が回るモデルを打ち立てた。原子物理学の父と称えられる。
▼リーゼ・マイトナーさんより7つ年長、ほぼ同時代人。
▼参照:8月18日にラドンの発見者として本ブログで紹介している。

アーネスト・ラザフォード Ernest Rutherford 1871-1937 原子物理学の父
1871年、ニュージーランド生まれ。父はイングランド出身の農夫、母は教師。
教育
1882年(11才)Havelock School 中学校(1890年まで)。
1887年(16才)Nelson College(高校)入学。
1890年(19才)奨学金を得てニュージーランド大学カンタベリー校に入学。
1892年(21才)ニュージーランド大学カンタベリー校で鉄の磁化を研究しBA(教養)。
1893年(22才)ニュージーランド大学カンタベリー校で数学と数理物理学を専攻しMA(教養)。高校講師の試験に落ち諦める。
1894年(23才)ニュージーランド大学カンタベリー校で地質学と物理学を専攻しBA(理学)。
1895年(24才)研究奨学金を得てケンブリッジ大学キャヴェンディッシュ研究所研究員。指導教員はJJ・トムソン先生(11月13日)。
活動
1897年(26才)ケンブリッジ大学で学士。
1898年(27才)ウランからα線とβ線が放射されていることを発見。モントリオールのマギル大学で教授(物理学)。
1899年(28才)α線とβ線を分離。
1900年(29才)化学者のF・ソディ氏(1921年ノーベル化学賞受賞)とラドン(と後で命名される物質)、ラジウム、トリウム、アクチニウムの研究を始め、半減期の概念を創出。ニュージーランド大学でPh.D.(理学)。
1902年(31才)放射性元素変換説を提唱。
1903年(32才)ロンドン王立協会会員。
1907年(36才)マンチェスター大学で教授(物理学)。ドイツの物理学者H・ガイガー氏とα粒子の計数に成功。
1908年(37才)ノーベル化学賞を受賞。「元素の崩壊および放射性物質の性質に関する研究」
1910年(39才)23才のH・モーズリーさん(5月27日)が助手になる。
1911年(40才)原子核を発見。ラザフォードの原子模型を発表。惑星が太陽の周りを回るイメージで原子をとらえた。
1914年(43才)WWI。ナイトになる。
1915年(44才)モーズリーさん(27才)が狙撃を受けて戦死。イギリスの原子物理学の打撃となる。以後イギリスは科学者が戦闘参加を禁じた。
1918年(47才)WWI終戦
1919年(48才)ケンブリッジ大学のキャヴェンディッシュ教授、キャヴェンディッシュ研究所長。α線を窒素原子に衝突させ(原子核を壊した)、原子核の人工変換(原子核を壊した)に成功。
1920年(49才)中性子と重水素の存在を予言。
1922年(51才)コプリ・メダルを受賞。
1926年(55才)ロンドン王立協会長。
1931年(60才)英国物理学会長。
1937年(66才)死去。
1937年、原子番号104の元素がラザホージウム (Rutherfordium) と命名。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%B6%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89

リーゼ・マイトナーさんとキャヴェンディッシュ研究所の神々(2) 電子の存在を示した物理学者:J・J・トムソンさん

▼J・J・トムソンさんは、当時世界一の先進国イギリスの最高学府の面目躍如の象徴的存在だ。原子の中に電子があることを示した科学者。リーゼ・マイトナーさんより22才年長の大御所の物理学者。22年の間の物理分野の知識の蓄積はその前の100年に相当するくらい急速だ。それは産業革命のおかげで実験機器を作る材料や加工技術の進化など工業的な基礎技術の進化の大きさが背景にある。
▼恩師のジョン・ストラット先生(11月12日)は、貴族だったのでカントリーハウス(邸宅)で自ら手を動かして実験をする生き方そのものが珍しがられていた。それに比べると弟子のJJトムソンさんは、大学で仕事をしていたので、だいぶ現代的だ。

ジョゼフ・ジョン・トムソン Joseph John Thomson 1856-1940 物理学者
1856年、英国マンチェスター生まれ。父は古書店経営。
教育
私立学校で学ぶ。際立った才能を示し、科学に興味を持つ生徒。
1870年(14才)Owens College(現マンチェスター大学)に入学。
1873年(17才)父が死去。
1876年(20才)ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに転学。
1880年(24才)ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで学士(数学)
1881年(25才)ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジのフェロー。
1883年(27才)ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで修士(数学)。指導教員はジョン・ストラット先生。
活動
1884年(28才)ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジでキャベンディッシュ教授。王立協会のフェロー。
1890年(34才)結婚。
1897年(41才)陰極線の研究。原子に微粒子があると考える(電子のこと。電子の名付け親はジョージ・ジョンストン・ストーニー氏)。
1905年(49才)カリウムの放射性崩壊を発見。
1906年(50才)ノーベル物理学賞を受賞。理由:気体の電気伝導に関する理論および実験的研究。水素原子には電子が1つあると示す
1908年(52才)ナイトになる。
1913年(57才)同位体の存在を確認。(フレデリック・ソディ氏が予言)
1914年(58才)WWI。コプリ・メダル受賞。オックスフォード大学で”The atomic theory” というテーマで講演。
1915年(59才)王立協会会長(1920年まで)
1918年(62才)WWI終戦。トリニティ・カレッジの学長(1940年まで)
1939年(83才)WWII
1940年(84才)死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%A0%E3%82%BD%E3%83%B3

リーゼ・マイトナーさんとキャヴェンディッシュ研究所の神々(1) 空が青い理由を説明した物理学者:W・ストラットさん

▼今回から舞台をイギリスのキゃヴェンディッシュ研究所に移す。舞台は変わっても出てくるのは偉大で変な人たちであることに変わりはない。
▼今回のストラットさんは、空がなぜ青く見えるのか、を理論的に説明したイギリスの物理学者。空の青の話もストラットさんの仕事のワンノブゼム。中学で扱う物理の総仕上げをしたくらいの古典物理学の泰斗。
▼リーゼ・マイトナーさんと年齢を比べると36年の差。その36年間の物理学、化学の進歩は大きい。「エーテル」が信じられていた時代から、原子の解明が進む時代へと変化した。核分裂を命名したリーゼ・マイトナーさんはエーテルと聞いたらどんな反応をするだろう。
▼教訓:人に大切なことは、好きなこと・得意なことを淡々とやり続けることだ。

ジョン・ウィリアム・ストラット John William Strutt 1842-1919 物理学者
1842年、英国東南部のエセックス州生まれ。父は第二代レイリー男爵。
教育
1861年(19才)大学に入るまで教育は家庭教師から受ける。
1861年(19才)ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学。数学を学ぶ。
1865年(23才)ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジを卒業。
1866年(24才)トリニティ・カレッジのフェロー(71年まで)。ターリング・プレイスにある自邸で音波や光波を調べる実験を行う。
活動
1870年(28才)音の共鳴に関する論文を発表。
1871年(29才)結婚。「空が青いのは空気中の塵が光を散乱するから」という登山家で物理学者のティンダル氏の推理を理論的に証明
1872年(30才)リュウマチ熱にかかる。暖かいエジプトのナイル河畔で療養。このとき『音響理論 The Theory of Sound』を執筆、音響学の古典となる。
1873年(31才)父が死去、爵位を継承しレイリー卿になる。貴族になっても研究を継続。王立協会会員になる。
1879年(37才)キャヴェンディッシュ研究所の第2代所長(1884年まで)。所長時代はターリング・プレイスから離れて研究活動。
1884年(42才)電磁気学の単位(アンペア、ボルト、オーム)を設定。レイリー電位計を発明。
1887年(45才)ロンドン王立研究所で教授(自然哲学)(1905年まで)。ターリング・プレイスを拠点に仕事を行う。
1892年(50才)空中の窒素のほうがアンモニアを分解して得た窒素よりわずかに重い。その差の理由が分からなかったのでネイチャー誌に協力依頼論文を投稿。化学者のラムゼーさんと共同研究開始。
1894年(52才)空中の窒素の中にアルゴンが含まれていたのをラムゼーさんと共同発見。
1900年(58才)イギリス国立物理学研究所が設立され運営理事会議長になる(1919年まで)。
1904年(62才)空中の窒素とアンモニア分解で得た窒素の重さの違いの原因がアルゴンであることを発見したことによりノーベル物理学賞を受賞。ラムゼーさんはノーベル化学者賞を受賞。
1905年(63才)王立協会会長。
1908年(66才)ケンブリッジ大学の名誉総長。
1914年(72才)WWI。王立協会からランフォード・メダルを受賞。
1918年(76才)WWI終戦
1919年(77才)エセックス州ターリング・プレイスで死去、爵位を息子が継承。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%88_(%E7%AC%AC3%E4%BB%A3%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%83%BC%E7%94%B7%E7%88%B5)

リーゼ・マイトナーさんと世紀末ウィーン(30) K・ローレンツさん

▼ローレンツさんは動物の「刷り込み」の概念を普及させた動物行動学者。子供の頃から動物が大好きで家じゅうで放し飼いにしていたという。
▼1938年、リーゼ・マイトナーさんはナチスから逃れるためベルリンを脱出する。同じ年、ローレンツさんはナチス党員になっている。

コンラート・ツァハリアス・ローレンツ Konrad Zacharias Lorenz 1903-1989
1903年、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン生まれ。
教育
1922年(19才)コロンビア大学で医学を学ぶ。
1923年(20才)ウィーンに戻りウィーン大学の医学部に入る。
1928年(25才)ウィーン大学でDoctor of Medicine (MD) 。解剖学研究所で助教授(1935年まで)。
1933年(30才)ウィーン大学で二つ目の博士号、動物学のPhD。
活動
1936年(33才)オランダの動物行動学者ニコ・ティンバーゲンさんと出会う。
1938年(35才)ナチス党の党員になる。ドイツがオーストリアを併合。
1939年(36才)WWII
1940年(37才)ケーニヒスベルク大学で教授(心理学)。
1941年(38才)ドイツ国防軍の軍医。
1942年(39才)ソ連軍の捕虜となり捕虜収容所で医師として働く(1948年まで)。
1945年(42才)WWII終戦
1949年(46才)動物行動学を紹介する本『ソロモンの指環』を出版。
1950年(47才)マックス・プランク協会が行動心理学ローレンツ研究所を設立。
1957年(54才)ミュンヘン大学動物学科で名誉教授。
1958年(55才)マックス・プランク行動心理学研究所に移籍。
1973年(70才)ティンバーゲンさん、カール・フリッシュさんと共にノーベル医学生理学賞を受賞。マックス・ブランク研究所を退職。
1974年(71才)オーストリア科学アカデミー動物社会科学研究所の所長。
1989年(86才)ウィーンで死去。

https://en.wikipedia.org/wiki/Konrad_Lorenz
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%84

リーゼ・マイトナーさんと世紀末ウィーン(29) C・ビルロートさん

▼リーゼ・マイトナーさんが生まれたときにビルロートさんは49才。ブラームスさんとイタリア旅行をしている。それほど年齢が違うのでもちろん同時代人ではない。けれど、リーゼ・マイトナーさんが出たウィーン大学(で教鞭を取った外科医師)つながりがあり、音楽という共通項がある。
▼ビルロートさんは、外科医としての手術と教育に並行して音楽家として音楽の研究や演奏を続けた人。外科医としては先進的な術法の開拓を進めた。音楽家としてはブラームスさんから楽曲の献呈を受けたり本番にかける前のアドバイスやリハーサルを求められたりしていた。ウィーンの文化的な豊かさが伝わってくる。

クリスティアン・アルベルト・テオドール・ビルロート Christian Albert Theodor Billroth 1829-1894 外科医
1829年、プロシア帝国(北ドイツ)リューゲン島生まれ。
教育
1834年(5才)父が結核のため死去。
1848年(19才)高校の卒業資格を得る。学問よりピアノの練習に熱意。ヴァイオリン、ヴィオラも習得。紹介、音楽家になるかその他か決めかねるも、母の希望で医学を学ぶためグライフスヴァルト大学に入学。しかし音楽研究のため授業に出なかった。その様子を見たゲッチンゲン大学のWilhelm Baum先生が弟子にして同大学で医学の勉強を開始。
1852年(23才)ベルリン大学で博士(医学)。
活動
1853年(24才)ベルリン大学病院でベルンハルト・フォン・ランゲンベック先生の助手(1860年まで)。
1860年(31才)チューリッヒ大学医学部で教授(外科)。学生や同僚から好かれ数年のうちに重要な立場になる。
1865年(36才)ブラームスさん(10月16日)を自宅に招く。友人になる。
1867年(38才)ウィーン大学医学部で教授(外科)。医師が白衣を着る習慣を始めた最初期の一人となる。
1873年(44才)ブラームスさんから弦楽四重奏曲の1番と2番の献呈を受ける。
1878年(49才)ブラームスさんとイタリア旅行
1881年(52才)切除した後の残った胃と十二指腸を接続する術法「ビルロートI法」を実施
1882年(53才)”Textbook of General and Special Surgery” を発表。
1887年(58才)肺炎で重体になる
1893年(64才)アドリア海岸の町アバツィアで療養生活。民謡の研究に取り組む。
1894年(65才)アバツィアで死去。

https://en.wikipedia.org/wiki/Theodor_Billroth#:~:text=Christian%20Albert%20Theodor%20Billroth%20(26,father%20of%20modern%20abdominal%20surgery.
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AA%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%88

リーゼ・マイトナーさんと世紀末ウィーン(28) K・ラントシュタイナーさん

▼リーゼ・マイトナーさんより10才年長の医学者、ウィーン大学の先輩。血液型の発見者、ポリオウィルスの発見者。これだけ見てもどれだけ人類に貢献した医学者か分かる。医学研究者の成し遂げることは偉大だ。
▼ウィーン大学の教授で、論文を大量に発表して活発な研究活動を行っていたのに、家庭の経済が思わしくなく改善のためにウィーンを出てオランダに拠点を移す。結局、アメリカに移住する。行った先はロックフェラー研究所。アメリカの財閥ロックフェラーの社会貢献事業の一環だ。この時代(1920年代)にはすでにヨーロッパとアメリカの経済力の差が出ている。リーゼ・マイトナーさんはベルリンで充実した研究の日々を過ごしている時期だ。

カール・ラントシュタイナー Karl Landsteiner 1868-1943 医師、血液型の発見者
1868年、オーストリア=ハンガリー帝国 バーデン・バイ・ウィーン生まれ。ユダヤ人。父は法学博士で新聞編集者。
教育
1874年(6才)父が死去。母に育てられる。
1891年(23才)ウィーン大学で博士論文(医学)を提出。ドイツに出てエミール・フィッシャー先生やアルトゥル・ハンチュ先生の下で化学を研究(1893年まで)。多くの研究論文を発表。
活動
1893年(25才)ウィーンの衛生研究所で Max von Gruber先生の助手になる。
1897年(29才)ウィーン大学病理解剖学研究所で病理学者の Anton Weichselbaum先生の助手になる(1908年まで)。この間、75本の研究論文を発表。
1900年(32才)ABO式血液型を発見
1901年(33才)ABO式血液型の発見を論文にして発表
1908年(40才)ウィーン大学の教授(病理学)(1920年まで)。
1909年(41才)ポリオウイルスを発見
1914年(46才)WWI
1916年(48才)結婚。家計と研究環境の改善を目指してオランダに移住。
1918年(50才)WWI終戦
1923年(55才)米国に渡りNYにあるロックフェラー研究所で研究。
1937年(69才)アレクサンダー・ウィーナー氏とRh因子を共同発見。
1939年(71才)WWII
1943年(75才)心臓発作で死去。

https://en.wikipedia.org/wiki/Karl_Landsteiner
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%BC

リーゼ・マイトナーさんと世紀末ウィーン(27) G・メンデルさん

▼メンデルさんが死去した1884年は、リーゼ・マイトナーさんが6才。世紀末ウィーンの人と言うのもやや無理気味。でもなぜ取り上げたかというと、今の中学理科にも出てくるほどの科学者だから。
▼メンデルさんは農家の生まれ。経済的にそれほど豊かでなかったため、ギムナジウムには入れたけれど、その後の高等教育は修道院に入って修道僧修業をしながら学問に励んだ。ここから見ても、リーゼ・マイトナーさんの時代は比べものにならないほど進歩している。
▼メンデルの法則が現代でも中学で学ばれているのは、実験の条件整備が整っており、手法が数学的論理的だったから。同時にそれが当時の学者にメンデルの法則が理解できなかった理由でもある。そう、メンデルの法則は学会にも世の中にも受け入れられなかった。その代わり修道僧としては人望があり、修道院長にまでなってしまう。
▼リーゼ・マイトナーさんが「核分裂」という用語を使ったのは、生物の細胞分裂から援用したものだ。

グレゴール・ヨハン・メンデル Gregor Johann Mendel 1822-1884 メンデルの法則の発見者
1822年、オーストリア帝国(現在のチェコ)生まれ。実家は農家。庭仕事と養蜂の手伝いをする。
教育
ギムナジウムに入学。
1840年(18才)University of Olomoucに入学。哲学研究所で哲学や物理学を学ぶ。
1843年(21才)University of Olomoucを卒業。
家庭の経済状態が苦しいため学術研究を活発に行う修道院に入り修道僧修業をしながら学問に励む。
1847年(25才)司祭になる。自然科学に興味を持ち独学を始める。ツナイムという町のギムナジウムで数学とギリシア語を教える。
1850年(28才)高校教師資格試験を受け、3段階目の口頭試問で落ちる。
1851年(29才)ウィーン大学に留学。 ドップラー先生に物理学・数学、フランツ・ウンガー先生に解剖学・生理学・動物学を学ぶ(2年間)。
活動
1853年(31才)ブリュンの高等実技学校で自然科学を教える。上級教師の資格試験を受けて落ちる。園芸や植物学を独学。修道院の畑でエンドウマメの交配実験を始める(1868年まで)。
1865年(43才)ブリュン自然協会で「メンデルの法則」を口頭発表
1866年(44才)『ブリュン自然科学会誌』で「メンデルの法則」を論文発表。メンデルが採用した数学的手法が理解されずに終わる。
1898年(76才)ブルノ修道院長になる。多忙な生活になり交配の研究から遠ざかる。代わりに気象の研究を行い、この分野で有名になる。
1884年(62才)メンデルの法則が認められないまま死去。
1900年、3人の学者が個別にメンデルの研究を発掘・評価。日の目を見る。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%A0%E3%83%88

リーゼ・マイトナーさんと世紀末ウィーン(26) H・ホーフマンスタールさん

▼ホーフマンスタールさんはオペラ『エレクトラ』や『薔薇の騎士』の台本を担当した世紀末ウィーンの劇作家。リヒャルト・シュトラウスさんが作曲を担当。
▼リーゼ・マイトナーさんの4つ年上でウィーン大学の先輩。リーゼ・マイトナーさんが『エレクトラ』や『薔薇の騎士』をベルリンやスウェーデンの劇場で鑑賞したかどうかは・・・不明。

フーゴ・ラウレンツ・アウグスト・ホーフマン・フォン・ホーフマンスタール Hugo Laurenz August Hofmann von Hofmannsthal 1874-1929 作家、劇作家。
1874年、ウィーン生まれ。富裕な商家。ユダヤ人。
教育
幼年期から家庭教師。ギリシア・ラテン文学、中世、ルネサンス文学を学ぶ。
1884年(10才)ギムナジウムで学ぶ。ギムナジウムの生徒時代から戯曲や随筆を発表
1891年(17才)戯曲『きのう』
1892年(18才)ウィーン大学に入学。最初は法律を学び、次にロマンシュ諸語の詩法を研究。戯曲『ティツィアーノの死』
1893年(19才)戯曲『痴人と死』。名声を得る。
1898年(24才)ウィーン大学で博士。2年間の研究旅行に出る。
1899年(25才)パリ旅行。メーテルリンクさんとロダンさん(10月27日)に会う。リルケさん(10月25日)と友達になる。
1900年(26才)リヒャルト・シュトラウスさん(10月30日)と出会う。
1901年(27才)教授資格取得のためウィーン大学に論文提出。しかし、教授職にはつかず作家として進むことにする。結婚。
活動
1902年(28才)『チャンドス卿の手紙』
1903年(29才)歌劇『エレクトラ』。作曲リヒャルト・シュトラウス。コンビの第1作目。
1911年(37才)歌劇『薔薇の騎士』『ナクソス島のアリアドネ』。共に作曲リヒャルト・シュトラウス。
1914年(40才)WWI。体調がすぐれないまま軍務に就く。健康への配慮から内務省の戦争福祉事務所勤務になる。文化的・政治的任務を担当。
軍務の海外出張でオーストリア=ハンガリー帝国が文化国家であることを講演で強調。
1918年(44才)WWI終戦。ハプルブルグ家のオーストリア=ハンガリー帝国崩壊に衝撃を受ける。
1919年(45才)歌劇『影のない女』。作曲リヒャルト・シュトラウス。
1920年(46才)ベルリン、ワルシャワ、スカンジナビア、イタリア、スイス、パリ、モロッコ、ロンドン、オックスフォード、シシリーの各地を旅行(1927年まで)
1929年(55才)ウィーンで死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%BC%E3%82%B4%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB
https://de.wikipedia.org/wiki/Hugo_von_Hofmannsthal (日本語訳)

リーゼ・マイトナーさんと世紀末ウィーン(25) S・ツヴァイクさん

▼ツヴァイクさんは世紀末ウィーンの文化的滋養を吸収し表現した作家。
▼リーゼ・マイトナーさんとは年齢が3つ違い。大学は(学部は違うけど)同じウィーン大学。マイトナーさんが入学したのが1901年、この年にツヴァイクさんは初めての詩集を出している。博士号を取ったのがツヴァイクさんが1904年、マイトナーさんが1906年。2年違い。
▼WWIを経験した後、またWWIIが始まり、これが精神的に大きな負担になったようだ。WWIIの終戦を迎える前に自殺してしまった。

シュテファン・ツヴァイク Stefan Zweig 1881-1942 作家
1881年、ウィーン生まれ。ユダヤ人。父は織物工場のオーナー。裕福な家庭。
教育
ギムナジウムで学ぶ。
ウィーン大学で哲学と文学史を学ぶ。世紀末ウィーンの文化を吸収。ホーフマンスタールの流れを汲む。
1901年(20才)詩集『銀の弦』
1904年(23才)ウィーン大学で博士(哲学)。
活動
1914年(33才)WWI。オーストリア戦時文書課で軍務に就く。
劇『エレミヤ』初演。スイスのチューリッヒに転居。
『ウィーン新自由新聞』のチューリヒ駐在特派員となり記事を送信。
1918年(37才)WWI終戦
1919年(38才)チューリヒを出てザルツブルグに戻る(1934年まで)。
1920年(39才)結婚。
1927年(46才)『人類の星の時間』
1928年(47才)ソ連旅行。マクシム・ゴーリキーと会う。
1930年(49才)アメリカ旅行。アルベルト・アインシュタインと会う。
1933年(52才)『マリー・アントワネット』 ヒトラーがドイツ帝国首相就任。反ユダヤ活動が活発化。
1934年(53才)ナチスから武器所有の疑いでザルツブルクの自宅を捜索される。イギリスへ亡命。
1935年(54才)『メアリー・スチュアート』。オペラ『無口な女』の台本でリヒャルト・シュトラウスが作曲。ドイツで初演。
1939年(58才)WWII
1940年(59才)イギリスを出てアメリカへ渡る。
1941年(60才)アメリカを出てブラジルに移住。ナチスがウィーン大学の博士号をはく奪(2003年に回復)。
1942年(61才)ブラジルで自殺。

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リーゼ・マイトナーさんと世紀末ウィーン(24) E・シーレさん

▼エゴン・シーレさんの年齢はリーゼ・マイトナーさんのちょうど一回り下。クリムトさんがメンターになってくれたおかげで世に出られる。軍隊生活も終え、ウィーンでアトリエを開き、さあこれからという時にスペイン風邪に罹って死去。
▼世紀末ウィーンの画家。作品には独特の苦みがある。

エゴン・シーレ Egon Schiele 1890-1918 画家
1890年、ウィーン近郊のトゥルン・アン・デア・ドナウ生まれ。父は鉄道員、後に駅長。
教育
初等教育のためクロスターノイブルク市へ移住。美術の先生から褒められる。
1905年(15才)父が死去。叔父に育てられる。
1906年(16才)ウィーンにあるVienna Kunstgewerbeschule美術・工芸学校(現、ウィーン応用美術大学)に入学。同じ年のうちにウィーン美術アカデミーに進学。
1907年(17才)クリムトさん(45才)がメンターになる。絵を買ってくれたり、モデルを紹介してくれたり、ウィーン工房への入会を勧めてくれたりなど援助を受ける。『マリア・シーレ』
1908年(18才)クリムトさんの支援を得て初の個展。
1909年(19才)ウィーン美術アカデミーを退学。仲間と「新たなる芸術の集いNeukunstgruppe」を設立。『アントン・ペシュカ』
活動
1910年(20才)『アーサー・ロスラー』Portrait of Arthur Rössler、『マックス・オッペンハイマー』Max Oppenheimer
1911年(21才)『ノイレンバッハの居間』Living room in Neulengbach
1912年(22才)『自画像』『ウォリー』Portrait of Wally
1914年(24才)結婚。WWI。オーストリア=ハンガリー帝国軍に入隊、上層部が芸術家として尊重し仕事環境に配慮してくれる。プラハ捕虜収容所の看守。
1915年(25才)『死と乙女』
1917年(27才)軍での所属地がウィーンになり、制作を再開。『紫色の靴下をはいて座っている女』
1918年(28才)第49回ウィーン分離派展で50点以上の新作を発表。注文が入る。富裕層地区にアトリエ開設。スペイン風邪に夫妻とも罹患、死去(10月)。WWI終戦(11月)。

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https://en.wikipedia.org/wiki/Egon_Schiele