L・マイトナーさんの歩みに影響した人物(7) フリッツ・ハーバーさん

前回からの続き。
▼1912年、44才のマイトナーさんは、ベルリン大学の地下木工作業所から、新設のカイザー・ヴィルヘルム研究所にハーンさんの客員研究員という立場で入る。この研究所の所長がフリッツ・ハーバーさん。ハーバーさんもマイトナーさんも共にユダヤ人。ハーバーさんは自分のアイデンティティはドイツ人(国に尽くす思いが毒ガス開発へ)。研究所のマネジメントは能力主義(ユダヤ人を差別しない)。
▼マイトナーさんが研究所に入ってから1年後の1913年からは正式な研究員になり、1918年からは核物理部を管理する立場になった。ハーバーさんが研究所を挙げて軍のために毒ガス開発をしている間も、マイトナーさんは参加せず、放射性物質の研究を続けることができた。他の研究者との交流も盛んだった。
▼この研究所の空気が一変するのは、1933年にヒトラーが政権を取り、研究所からユダヤ人の追放が始まってからだ。ハーバーさんは同年、所長を辞職。マイトナーさんは国籍がオーストリアだったため研究を続けられた。しかし38年にオーストリアがドイツに併合されてからは研究所にいられなくなる。

ハーバーさんのご専門は?
有機化学。空中の窒素からアンモニウムを合成するハーバー・ボッシュ法の生みの親。第一次大戦でドイツが使用した毒ガス兵器の開発者。戦争犯罪人になるかと思いきや、ノーベル化学賞を受賞。

どんな関係?
カイザー・ヴィルヘルム研究所の開設時から所長と所員の関係。共通項は同じユダヤ人。違いはハーバーさんはドイツ人、マイトナーさんはオーストリア人。

どんな人生?
化学者として国に尽くしたい、という強い思いで生きた人生。しかし、最後はナチスに国を追われる。同じ化学者の妻をもっと大事にできなかったのか。考えさせられることが多い人生を過ごされた人物である。
ハーバーさんを資金援助していた星一さん(1873-1951、星製薬社長)の招待で日本に2カ月滞在した時間は、二人にとってよきものであったろう。

フリッツ・ハーバー Fritz Haber 1868-1934 物理化学者。

1868年、ポーランドのヴロツワフ生まれ。裕福なユダヤ人の家庭。父は染料商人。生まれて3週間後に母が死去。
1874年(6才)父が再婚。父とは性格が合わず距離があった。しかし義理の母とは良い関係を築けた。
教育
1879年(11才)ギムナジウムに入学。文学、哲学、化学実験が好き。ユダヤ人としてよりもドイツ人としてのアイデンティティを持っていた。
1886年(18才)ベルリンにあるフンボルト大学に入学、冬学期の間、化学を学ぶ。しかし、期待外れだったので転学。
1887年(19才)ハイデルベルク大学で夏学期の間、ロベルト・ブンゼン先生に師事。
1888年(20才)ベルリン工科大学に入学。
1889年(21才)1年間の兵役につく。
1891年(23才)フンボルト大学で博士号。指導教員は有機化学のカール・リーバーマン先生。
活動
1892年(24才)博士になるとすぐ父親の染色事業を手伝う。しかし、両者の断絶が埋まらないことを父も認める。 イェーナ大学で1年半研究生活を送る。ジアセトコハク酸エステルに関する共同論文を発表。
1894年(26才)カールスルーエ大学の無給助手。大学の研究職に就くためユダヤ教からキリスト教に改宗。
1896年(28才)論文「炭化水素の分解の実験的研究」が評価され私講師になる。
1898年(30才)教科書『理論的基盤による技術的電気化学概論』が評価され助教授になる。
1904年(36才)窒素からアンモニアを合成する方法(ハーバー・ボッシュ法)の研究に着手。12年に化学メーカーのBASF社が実用化。
1906年(38才)カールスルーエ大学の教授。
1912年(44才)カイザー・ヴィルヘルム研究所の所長。マイトナーさんは客員研究員。
1914年(46才)WWI。従軍を志願し却下される。軍からはガソリン凍結防止用の添加剤の開発が命じられる。ドイツ軍用の毒ガス開発を命じられ着手。カイザー・ヴィルヘルム研究所を挙げて取り組む。O・ハーンさんが毒ガスの使用はハーグ条約に違反するのではないかと疑問を表出。妻のクララさんも研究に反対。
1915年(47才)第二次イーペルの戦いで毒ガス作戦を指揮。大きな成果をあげる。妻クララさんが自殺。
1916年(48才)マイトナーさんがオーストリア軍の従軍X線技師・看護婦の仕事を辞めて研究所に戻り、放射性物質の研究を継続。
1918年(50才)マイトナーさんがO・ハーンさんとプロトアクチニウムを発見。マイトナーさんが業績が認められカイザー・ヴィルヘルム研究所の核物理部を任される。
1918年(50才)WWI終戦。ドイツが敗戦したため、戦争犯罪人になるのを恐れ再婚した妻と息子を連れてスイスに逃れる。
1918年(50才)ノーベル化学賞を受賞。研究所の再編に取り組む。日本の星一さんが資金協力。
1919年(51才)ボルン・ハーバーサイクルを提唱。
1924年(56才)世界一周の旅に出る。星一さんの招待で日本に2か月滞在。
1933年(65才)ナチスが政権をとり研究所からユダヤ人の追放が始まる。所長職を辞職。
1934年(66才)死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BChttps://en.wikipedia.org/wiki/Fritz_Haber

L・マイトナーさんの歩みに影響した人物(5) フリッツ・シュトラスマンさん

前回からの続き。マイトナーさんの年表でみると:
1907-12年、ベルリン大学の木工作業所時代。
1912年(34才)カイザー・ヴィルヘルム研究所時代のはじまり。
1920年(42才)ハーンさんとの共同研究が終了、独立して研究を開始。
1933年(55才)ヒトラー政権になり、大学や研究機関からユダヤ人の追放が始まる。
1934年(56才)E・フェルミさんの核反応の論文に刺激を得て、実験結果を確かめるには化学者の協力が必要と考え、ハーンさん、シュトラスマンさんと3人で共同研究を開始

シュトラスマンさんのご専門は?
核物理学、核化学。マイトナーさん・ハーンさんとの共同研究が長かった。

どんな関係?
シュトラスマンから見るとマイトナーさんとハーンさんは24才年上で実績も格も違う存在。マイトナーさんはカイザー・ヴィルヘルム研究所の幹部になっていたので、反ナチスの立場を取ったため働き場を失ったシュトラスマンさんに救いの手を差し伸べてくれた。マイトナーさん・ハーンさんの共同研究の仲間に入れ、実験を任せ、給料も出してくれた。マイトナーさんはナチスから逃れるためドイツを脱出し、ハーンさんは管理業務に追われていたため、ひとりで継続的に実験を続けた。ハーンさんのノーベル化学賞は、シュトラスマンさん、マイトナーさんの力があってこそ。第二次世界大戦が終わってから、マイトナーさんにドイツに戻ってこないかと声をかける。しかし、マイトナーさんは結局、ドイツには戻らないまま。

どんな人生?
反ナチスの立場を取りブラックリストに載ったため、働き場所を失いかけた。しかし、マイトナーさんがハーンさんとの共同研究の仲間に入れ、給料も出してもらった。自分の放射化学の研究がヒトラーに使われて原子爆弾にでもなったら死んだほうがまし、と考えていた。

フリッツ・シュトラスマンFritz Strassmann 1902-1980  化学者、物理学者

1902年、ドイツ西部の都市ボッパルト生まれ。デュッセルドルフ育ち。
子供時代から化学に関心があり自宅で実験を行う。父親が死去して経済的にままならない状態になる。
1914年(12才)WWI
1918年(16才)WWI終戦
教育
1920年(18才)化学を学ぶためハノーバー技術大学に入学。学費はチュータをして賄う。
1924年(22才)同大学から科学技術者の修了証書diplomaを得る。
1929年(27才)同大学で博士(物理化学)。分析化学への志向が強まる。
1929年(27才)奨学金を得て カイザー・ヴィルヘルム化学研究所でオットー・ハーンさんと放射化学の研究を開始。
活動
1932年(30才)奨学金が切れたのでハーンさんの研究室で無給・費用負担なしの研究学生として残る。
1933年(31才)ヒトラー政権。ユダヤ人の追放が始まる。
1933年(31才)ドイツ化学者協会がナチスの管理になったため辞任。そのためブラックリストに登録される。以降、就職も大学での活動もできなくなる。
1933年(31才)マイトナーさんがシュトラスマンさんの窮状を救うためオットーさんに共同研究の仲間に入れて給与を支払うことにする。
1934年(32才)マイトナーさんがE・フェルミさんの論文に触発されハーンさんとシュトラスマンさん3人で共同研究を開始
1936年(34才)ウラン239を発見。
1938年(36才)マイトナーさんはドイツを脱出。ウランに中性子をぶつけるとバリウムが生じる。残った二人は理由が分からずマイトナーさんに手紙で相談。 その答えがハーンさんのノーベル化学賞につながる。
1939年(37才)WWII
1940年(38才)ナチスへの協力を妻と共に拒む。アパートにユダヤ人の音楽家をかくまいながら放射化学の研究を継続。
1944年(42才)ハーンさんが単独でノーベル化学賞を受賞。シュトラスマンさんは共同研究者として認知された。
1945年(43才)WWII終戦。成果が地質年代学にも貢献する。
1946年(44才)マインツ大学の教授(無機化学、核化学)。
1966年(64才)エンリコ・フェルミ賞を受賞。
1967年(65才)ドイツ連邦政府に働きかけ核化学研究所を設立。
1970年(68才)引退。
1980年(78才)死去。

https://en.wikipedia.org/wiki/Fritz_Strassmann
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%84%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%B3

L・マイトナーさんの歩みに影響した人物(4) エリザベート・シーマンさん

前回からの続き。今回は、1907-12年、ベルリン大学の研究所の地下の木工作業所でオットー・ハーンさんと放射線の共同研究をしていた時期に出会った人物を紹介する。研究成果が出るにつれ、フィッシャー先生(9月10日)も認めるようになり、研究所への出入りが許される。次第に、知り合いの輪が広がる。E・シーマンさんもそのひとり。

シーマンさんのご専門は?
植物学者。遺伝学や栽培植物史。マイトナーさんとは異なる専門分野。

どんな関係?
ベルリン大学を舞台に、シーマンさんは学生、3つ年上のマイトナーさんは研究者という友人関係。
マイトナーさんがナチスから逃れてドイツを脱出してからも文通を続ける間柄。最初の出会いから37年後、第二次世界大戦が終わってから、ナチスに対する姿勢の取り方を巡って見解の相違が生じた。

どんな人生?
シーマンさんは、大学の門戸が女性にわずかしか開かれていなかった時から、研究者を目指していた一人。指導教員が力のある先生だったおかげで博士号取得後、専門職につくことができた。ナチスに対しては明確に反対の立場を取っていたため大学で授業ができなくなる目に遭う。戦後は大学に復帰。

エリザベート・シーマン Elisabeth Schiemann 1881-1972 ドイツの植物学者
1881年、エストニア生まれ。父は歴史家。
1887年(6才)ベルリンに転居。
教育
1908年(27才)ベルリン大学に入学。
1909年(28才)リーゼ・マイトナーさん(31才)と出会う
1912年(31才)ベルリン大学で博士号を取得。コウジカビの研究。指導教員はエルヴィン・バウアー先生。
活動
1914年(33才)バウアー先生が監督するベルリン農業大学の遺伝学研究所でsenior assistant。31年まで。
1914年(33才)WWI
1918年(37才)WWI終戦
1924年(43才)教授資格を取得。農業大学で私講師として授業を持つ。
1931年(50才)植物学研究所で客員研究員として研究。作物栽培研究の考古学的アプローチを始める。
1931年(50才)ベルリン大学の教員。
1932年(51才)「栽培植物の起源」Origin of cultivated plants を出版。業界標準のテキストになる。
1938年(57才)リーゼ・マイトナーさんがベルリンを脱出
1939年(58才)WWII
1940年(59才)ナチスの政策に反対の姿勢を示したためベルリン大学の教授職から外される。
1945年(64才)WWII終戦
1946年(65才)ナチスへの対応についてマイトナーさんと意見が食い違う
1946年(65才)ベルリン大学での教授職に戻る。遺伝学と栽培史を教える。
1956年(75才)植物学研究所(このときにはマックス・プランク協会の一部となっていた)を退任。
1972年(91才)死去。

https://en.wikipedia.org/wiki/Elisabeth_Schiemann
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B6%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3

L・マイトナーさんの歩みに影響した人物(3) ヘルマン・エミール・フィッシャーさん

前回の話:1907年、29才のリーゼ・マイトナーさんはベルリンでM・プランク先生の講義の聴講を認められる。並行してベルリンでの自分の研究場所探しを始める。

今回の話:ベルリンでの居場所探しの結果、オットー・ハーンさん(8月24日)という同年齢の化学者とベルリン大学構内で共同研究を行う話がまとまる。但し、ハーンさんのボスのエミール・フィッシャーさんは、女性の研究所の出入りを禁止。実験は研究所の地下の木工作業所で行うという条件がついた。しかし、二人の放射線の共同研究が成果を出すようになると、フィッシャー先生はマイトナーさんに研究所の出入りを認め、援助もするようになる。

フィッシャー先生のご専門は?
有機合成化学。グルコースなどの糖やカフェインなどのプリンを合成した。プリンという用語もフィッシャー先生の命名。プリンPurinは、ラテン語の純粋なpurumと尿酸uricumの合成語。

マイトナーさんとはどんな関係?
マイトナーさんにとってフィッシャー先生は、共同研究相手であるハーンさんの上司、しかも化学部長という偉い立場だったのでマイトナーさんは気を使ったことだろう。最初は研究所本体への立ち入りが禁止されるほどクールな扱いだった。しかし、マイトナーさんが成果を出すにつれ態度が軟化する。成果を出すことが分かれば、男と女の違いで差別する人ではなかった。結果、マイトナーさんにとって木工作業所時代は人との交流も活発で楽しく過ごせたようだ。

どんな人生?
フィッシャー先生の師匠にあたるフォン・バイヤー先生との出会いが専門の道を決めた。二人ともノーベル化学賞を取るのだから、なんというすごいレベルであろうか。不思議なことに受賞の順番が弟子、3年後に師匠だ。ここまではポジティブな話。次から悲しい話。マイトナーさんが木工作業所を出たのが1912年、それから2年後の1914年にWWIが始まる。3人息子の2人を戦争のために失う。WWI終戦の翌年、自殺。

ヘルマン・エミール・フィッシャー Hermann Emil Fischer 1852–1919
化学者。
1852年、ドイツのケルン生まれ。父は実業家。
教育
少年時代、家庭教師と学校の両方で学ぶ。
1871年(19才)父は息子を跡継ぎにしようと試みたもののビジネスの適性がないと判断。大学進学を認める。
1872年(20才)化学を学ぶためボン大学に入学。物理志望に替え、ストラスブール大学に転学。
1874年(22才)指導教員アドルフ・フォン・バイヤー先生の影響で化学を専門にする。ストラスブール大学で博士号を取得。
1874年(22才)同大学のアシスタント・インストラクターになる。
活動
1875年(23才)フォン・バイヤー先生がリービッヒ先生の後任としてミュンヘン大学に転任するので助手(有機化学)としてついていく。
1878年(26才)ミュンヘン大学のAssociate Professor 。
1879年(27才)ミュンヘン大学の助教授(分析化学)。
1881年(29才)エアランゲン大学の教授(化学)。
1882年(30才)プリンの研究に着手。
1884年(32才)プリン (purine) と命名。糖の研究を開始。
1885年(33才)ヴュルツブルク大学の教授(化学)。
1890年(38才)グリセリンからグルコースを合成するのに成功。
1892年(40才)ベルリン大学の教授(化学)、化学部長。19年まで。
1898年(46才)プリンの合成に成功。
1899年(47才)タンパク質の研究を行う。1908年まで。
1902年(50才)ノーベル化学賞を受賞。糖類およびプリン誘導体の合成。
1905年(53才)フォン・バイヤー先生がノーベル化学賞を受賞。有機染料およびヒドロ芳香族化合物の研究。
1907年(55才)マイトナーさんとオットー・ハーンさんとの共同研究開始を承認。但し、実験は地下の木工作業所、研究所には立入らない条件
1912年(60才)マイトナーさんとハーンさんの研究の成果を認め研究所の立ち入りを許す。カイザー・ヴィルヘルム研究所が開設されたのでマイトナーさんはそちらに移る。
1914年(62才)WWI。3人息子のうち一人は戦死、一人は訓練中に自殺。
1918年(66才)WWI終戦
1919年(67才)自殺。死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC
https://www.nobelprize.org/prizes/chemistry/1902/fischer/biographical/

L・マイトナーさんの歩みに影響した人物(2) マックス・プランクさん

L・マイトナーさんの歩みに影響した人物の2回目はマックス・プランクさんだ。
まず、前回の続きからプランクさんに出会うまでのマイトナーさんの歩みを確認しよう。
1901年(23才)ウィーン大学でL・ボルツマン先生(9月8日)の講義を受講。
1906年(28才)ウィーン大学で女性で4人目となる博士号を取得。ボルツマン先生が死去。ウィーンにいても研究者になる道が開けそうにない。そこでヨーロッパの科学の中心地ベルリンに行って、過去に一度会ったことがあるM・プランク先生を訪ね、講義を受講しようと決意。
1907年(29才)ベルリンに出てM・プランク先生と面談、聴講を認められる。マイトナーさんは聴講と並行してベルリンで自分の研究場所探しを始める。

プランク先生のご専門は?
まだプランクさんがミュンヘン大学に入学したばかりの新入生で、熱力学をやりたいと考えていた頃の話。
同大学のP・フォン・ジョリー先生は「この分野の研究はほぼやり尽くされているから、できることは残った小さな穴を埋めることくらいだよ」とアドバイス。それに対しプランクさんは「僕は新発見をしたいのではありません。熱力学の基礎をしっかり理解したいのです」と回答。その言葉通り、熱したプラチナを通過させた水素の拡散実験を続け、理論物理へと進んだ。量子論の父と称される。

どんな関係?
最初はプランク先生がウィーンから来たマイトナーさんの聴講希望を受け入れ。
プランク先生は特別優秀な女性でなければ研究の道を開く必要はないと考えていた。しかし、マイトナーさんの優秀さを認めたことと、共に音楽好きもあって、次第に親しみを持つようになる。
両者とも時期の違いはあるけれどカイザー・ヴィルヘルム研究所で研究している。
そして共に第二次世界大戦のナチスドイツで大変な目に遭っている。マイトナーさんが故郷を出てベルリンを目指す目標としてプランク先生を選んだのは正解だった。

どんな人生?
少年時代からいつも戦争の影がつきまとう人生、と言える。学問と音楽の才能に恵まれ、仕事でも余暇でも充実した人生を過ごした。ドイツの愛国者だが、ナチスとは合わなかった。カイザー・ヴィルヘルム研究所を運営していたとき、ユダヤ人研究者が追放されるのを見てヒトラーに直訴するが状況は変わらないままだった。さらに息子がヒトラー暗殺事件に関わっり処刑されたため、国賊の父とまで言われて非難される。第二次大戦が終われば立場は逆転。世間の手のひら返しも経験している。ひどい環境の中でも研究は滞ることなく量子力学の父と称され、ノーベル賞も受賞する。けた違いの器量の人物である。

マックス・プランク Max Karl Ernst Ludwig Planck 1858-1947
ドイツの物理学者。
1858年、ドイツのキール生まれ。父はキール大学の教授(法学)。
1864年(6才)第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争。日常的に軍楽隊の音楽が鳴る。
1867年(9才)一家でミュンヘンに転居。ピアノ演奏に才能を見せる。音楽を一生の趣味とする。
教育
1867年(9才)マクシミリアン・ギムナジウムに入学。教師から天文学、機械学、数学、エネルギー保存則を教えてもらう。
1874年(16才)ミュンヘン大学に入学。熱力学を専攻。
1877年(19才)ベルリンにあるフリードリヒ・ヴィルヘルム大学に留学。ヘルムホルツ先生やキルヒホフ先生と出会う。
1879年(21才)熱力学の第二法則をテーマにした論文で博士号を取得。
活動
1880年(22才)教授資格を取得。無給の講師になる。
1885年(27才)キール大学のassociate professor(熱力学)。
1889年(31才)フリードリッヒ-ヴィルヘルム大学でキルヒホッフ先生の後任になる。
1892年(34才)フリードリッヒ-ヴィルヘルム大学の正教授になる。
1899年(41才)光の最小単位に関する定数「プランク定数」を発表。
1900年(42才)放射に関するプランクの法則を発表。後にアインシュタインさん、ボーアさんが発展・確立する量子力学の基礎を築く。
1907年(49才)マイトナーさんの弟子入りを受け入れる
1909年(51才)コロンビア大学に招待され講義を行う。
1913年(55才)ベルリン大学の総長。
1914年(56才)WWI
1914年(56才)ドイツの戦争を支援する「世界文明への宣言」に署名。
1918年(60才)ノーベル物理学賞を受賞。エネルギー量子の発見による物理学の進展への貢献。
1918年(60才)WWI終戦
1926年(68才)王立協会外国人会員に選出。
1929年(71才)コプリ・メダル受賞。
1930年(72才)カイザー・ヴィルヘルム研究所の所長。
1933年(75才)ユダヤ人学者の追放についてヒトラーに直接抗議。
1939年(81才)WWII
1943年(85才)ベルリン空襲で自宅を失う。
1944年(86才)次男がヒトラー暗殺計画に関わり逮捕。翌年処刑。国賊の父と言われる。
1945年(87才)WWII終戦
1946年(88才)カイザー・ヴィルヘルム研究所の名誉総裁。
1947年(89才)カイザー・ヴィルヘルム研究所がマックス・プランク研究所に改名
1947年(89才)死去。

https://en.wikipedia.org/wiki/Max_Planck
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF#:~:text=%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%92,%E8%80%85%E3%81%AE%E4%B8%80%E4%BA%BA%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82

L・マイトナーさんの歩みに影響した人物(1) ルートヴィッヒ・ボルツマンさん

▼マイトネリウムMtは、1982年にドイツの重イオン研究所GSIが発見した。GSIは高エネルギー加速器を使い、1981年にボーリウムBh、1984年にハッシウムHs、1994年にダームスタチウムDsとレントゲニウムRg、そして1996年にコペルニシウムCnを発見している。
▼マイトネリウムの名前の由来は、プロトアクチニウムPaの発見者リーゼ・マイトナーさん(8月23日)である。
マイトナーさんは、核物理学のパイオニアであるだけでなく、女性が大学で専門を学びその後のキャリアを開拓するパイオニアであり、第一次と第二次の二つ大戦を生き延びたユダヤ人である。マイトナーさんの人生は山あり谷ありの連続である。その歩みを見ると独特の人間味が感じられ、率直に言って素晴らしい。そこで、マイトナーさんの歩みに影響した人物を20名とりあげ、どんな作用反作用が起きたのかをみていこう。

▼マイトナーさんの復習:1878年、ウィーン生まれ。ユダヤ系の家庭。父は弁護士。8人兄弟。ギムナジウムは女性の入学を認めていなかった時代。
小学校、高等小学校で学ぶ(学問的には回り道)。
1892年(14才)高等小学校を卒業。フランス語教師になり収入を得る。
1899年(21才)フランス語教師を辞め入試勉強を開始。
1901年(23才)大学入学資格試験に合格、ウィーン大学に入学。L・ボルツマン先生(58才)の講義に感銘を受ける。

ボルツマン先生のご専門は?
気体の分子論、熱力学、統計力学を専門とした物理学者、哲学者。エントロピーや原子を概念から統計力学から見直して実在のものと考えた先駆的な科学者。

どんな関係?
熱い講義を行う先生と受講生の関係。マイトナーさんがウィーン大学に入学したとき、ボルツマン先生がちょうどウィーン大学に赴任するタイミングだった。ボルツマン先生の講義は学生に人気で、受講したマイトナーさんも後々までその講義を賞賛した。

どんな人生?
初中等教育は家庭で両親に学ぶ。高校はリンツ。大学はウィーン大学。 ヨーゼフ・シュテファン先生に評価され、助手にしてもらった後、電磁気学のマクスウェルさんを紹介されたり、就職先を世話してもらう。シュテファン先生が退任した後、後継者になる。師匠との関係は非常に恵まれている。また、ブンゼンさん、キルヒホッフさん、ヘルムホルツさん、マクスウェルさんらと学問的交流を盛んに行い、新理論の開拓を進めた。

年表
ルートヴィッヒ・エードゥアルト・ボルツマン Ludwig Eduard Boltzmann
1844年、ウィーン生まれ。 父は税務官。
教育
教育は両親から受ける。
作曲家でオルガニストのアントン・ブルックナーにピアノを習う。生涯、ピアノ演奏をたしなむ。
リンツ高校に入学。
1863年(19才)ウィーン大学に入学。数学と物理学を学ぶ。
1866年(22才)ウィーン大学で博士号を取得。
1867年(23才)物理学者ヨーゼフ・シュテファン先生の助手になる。先生からマクスウェルの学問を紹介される。
活動
1869年(25才)シュテファン先生の推薦でグラーツ大学の教授(数理物理学)。R・ブンゼンさんと知り合う。
1871年(27才)ベルリンでG・キルヒホッフさんやH・ヘルムホルツさんと知り合う。
1872年(28才)熱現象の不可逆性を証明。
1873年(29才)ウィーン大学の教授(数学)。(76年まで)
1876年(32才)グラーツ大学の教授(実験物理学)。
1877年(33才)ボルツマンの関係式やボルツマン定数を発表。
1884年(40才)シュテファン=ボルツマンの法則を発表。
1887年(43才)グラーツ大学の学長。
1890年(46才)ミュンヘン大学の教授(理論物理学)。
1894年(50才)シュテファン先生の後継者としてウィーン大学の教授(理論物理学)になる。
1900年(56才)ライプツィヒ大学の教授。
1901年(57才)マイトナーさんがウィーン大学に入学。
1902年(58才)再度、ウィーン大学の教授(理論物理学)。
1906年(62才)マイトナーさんがウィーン大学から博士号を取得。
1906年(62才)双極性障害。死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%84%E3%83%9E%E3%83%B3https://en.wikipedia.org/wiki/Ludwig_Boltzmann

ニッケルNiの発見者 A・クルーンステットさん

▼ニッケルという言葉は、ドイツ語で「悪魔の銅」を意味するKupfernickelから来たもの。Kupferは銅copperのことなので、nickelは「悪魔の」という意味になる。なぜそんな表現になったのかというと、銅鉱石に似ているので冶金師たちが銅を取り出そうとする。しかし実はニッケル鉱石なので銅は出てこない。それで悪魔にたぶらかされた、といってKupfernickelと呼んだ。ニッケルにとっては迷惑な話だ。
▼発見者のクルーンステットさんの父親はスウェーデン軍に所属する技術者で、軍命で鉱物調査をしたとき一緒について回ったことがある。実際に鉱山を回った経験から、鉱物への関心が高まった。子供の頃から科学少年だったので、予備知識は十分あったところに現場を見て刺激されたのだろう。
▼調査から戻ったあとウプサラ大学でG・ブラント先生の下できっちり化学を学ぶ。見逃せないのは吹菅 blowpipeで鉱物から元素を発見する手法を開拓したことだ。クルーンステットさんも自分の方法論をもっていたことがニッケル発見につながった。人と同じ方法で同じ対象物を分析しても出てくる結果は同じだ。しかし、違う方法を持つと違う結果を導き出せる可能性がある。

アクセル・フレドリク・クルーンステット Axel Fredrik Cronstedt  1722-1765
スウェーデンの化学者、鉱物学者

1722年、スウェーデンのストレープスタ生まれ。父は軍所属の技術者。
教育
1738年(16才)ウプサラ大学の非登録学生として化学のJ・G・Wallerius先生や天文学のA・Celsius先生の講義を聞く。
1743年(21才)父の秘書として軍の調査活動に参加。鉱山や鉱物への関心が高まる。
1746年(24才)ウプサラ大学に入学しコバルトCoの発見者イェオリ・ブラント先生(9月6日)の元で化学と試金法を学ぶ。
1748年(26才)ウプサラ大学を卒業。
活動
吹菅 blowpipe を使った元素分析法を開拓
1751年(29才)吹菅分析法で灰重石(タングステン)を発見
1751年(29才)ニッケルNiの単離に成功
1754年(32才)ニッケルと命名。ドイツ語で悪魔の銅 Kupfernickel が由来。銅鉱石と似ているのに銅を取り出せなかったから冶金師が悪魔の仕業と考えた。
1756年(34才)「ゼオライト」を造語。
1758年(36才)鉱山局の鉱業監督になる。
1765年(43才)死去。

https://en.wikipedia.org/wiki/Axel_Fredrik_Cronstedt
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%83%E3%83%88
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%B1%E3%83%AB

コバルトCoの発見者 G・ブラントさん

▼コバルトは、顔料コバルトブルーの原料、青いガラスなどで身近な元素。コバルトブルーやガラスに添加すると青い色になるのを発見したのもブラントさん。▼ブラントさんに関する情報は少ない。日本語ウィキペディアでは職業を「鉱山局の役人になり後に王立造幣局の冶金部長」と書いていて、ウプサラ大学の教授と書かれていない。一方、英語ウィキペディアにはウプサラ大学の教授と書いていて鉱山局の役人の話はない。日本語の説明と食い違いを見つけると面白くなる。
▼10年くらい前、ウィキペディアは信用ならないから引用してはダメと否定する見方もあった。でも本の辞典は情報にアクセスする手間が大変で、アクセス先から関連情報に飛ぶのはさらに手間がかかる。ウィキペディアはリンクで簡単に知りたい項目に飛んでいける。毎日お世話になっていて本当にありがたい存在なので、ウィキペディアから寄付のお願いメールが来たら少額寄付している。
▼鉱山局の役人になったのは、ウプサラ大学でブラント先生の指導を受けたA・クルーンステットさんだ。クルーンステットさんはニッケルの発見者として歴史に名を残している人物だ。

イェオリ・ブラント Georg Brandt 1694-1768 スウェーデンの化学者、鉱物学者

1694年、スウェーデンのヴェストマンランド県生まれ。父親は元薬剤師の鉱山経営者。
教育
ライデン、ランスで医学・化学を、ハルツで冶金術を学ぶ。
活動
1727年(33才)ストックホルムの鉱山局に入る。 ←正確さに疑問あり
172?年(??才)王立造幣局の冶金部長になる。 ←正確さに疑問あり
1730年(36才)ヴェストマンランド鉱山の鉱石からコバルトを成分とするブルーの顔料を精製
1737年(43才)コバルトCoを発見。抽出した鉱石の名前からコバルトと命名。
17??年(??才)ウプサラ大学の教授(化学)になる。 ←年代の特定ができない
1768年(74才)死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A7%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88

クロムCrとベリリウムBeの発見者 L・ヴォークランさん

▼14才から薬局に弟子入りして専門知識をため、専門家の中で力をつけた叩き上げの人。フランス革命では危険を避けて一時期海外に退避。戻ってくるのはフランス革命終了前だが、ラボアジェさんのようなひどい目には遭ってないようだ。▼20才でフールクロア先生の助手になったこと(25年後には後継者になる)、28才でフランス科学アカデミーの会員になって、化学雑誌の編集に携わり、多くの研究者や専門家と知り合ったことがキャリア作りに影響している。ヴォークランさんの生き方を見ると「いつ・どこにいて・誰と・何をしたか」が大事だ、と認識させてくれる実例だ。
▼無機の分野ではクロムとベリリウムの発見、有機の分野ではアスパラギンの発見、と両方の分野で新発見している幅の広さも見逃せない。アスパラギンは助手の功績が大きかったので、チーム作りや人間関係調整力にも優れていた。
▼弟子入り修業でスタートして、成果を出す生き方ができるのだから、知識を獲得する道筋はいろいろある、と気づかせてくれる。

ルイ=ニコラ・ヴォークラン Louis-Nicolas Vauquelin 1763-1829 フランスの薬剤師、化学者。
1763年、フランスのノルマンディ生まれ。
教育
1777年(14才)ノルマンディの中心地ルーアンにある薬局で弟子修業を開始。
活動
1783年(20才)パリに行き、フランスの化学者A・フールクロアの助手になる。(91年まで)
1789年(26才)フランス革命が始まる。
1790年(27才)単著論文の発表を始める。
1791年(28才)フランス科学アカデミーの会員になる。「化学分析」誌の編集に携わる。
1791年(28才)フランス革命が激しさを増したので海外に逃れる
1794年(31才)帰国。鉱山学校とポリテク学校の教授(化学)になる。
1797年(34才)クロムCrを発見。シベリアで採られた赤い鉛鉱石から単離。化学者のR・アユイ氏がギリシャ語の色chrōmaにちなんで命名。クロムはステンレスやメッキに欠かせない重要元素。無害な元素だが、六価クロムは猛毒。
1798年(35才)ルビーの赤、エメラルドの緑は、クロムの存在によることを発見。
1798年(35才)ベリリウムBeを発見。緑柱石berylから抽出されたのでギリシア語beryllosで命名。命名者はクラプロートさん(7月14日)。ベリリウムは硬度の高い合金を作るときの材料として貴重な元素。
1799年(36才)フランス革命が終わる
1806年(43才)助手のP・ロビケ氏とアスパラギンを発見。アスパラガスの汁から結晶を単離。
1809年(46才)フールクロアさんの後継者としてパリ大学の教授になる。
1816年(53才)スウェーデン王立科学アカデミーの会員になる。
1828年(65才)下院議員になる。
1829年(66才)死去。

https://en.wikipedia.org/wiki/Louis_Nicolas_Vauquelin
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%EF%BC%9D%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%B3

硫黄Sを単離した A・ラボアジェさん

▼硫黄Sは昔々の時代から人が便利に使ってきた元素。だから特定の発見者はいない。ラボアジェさんは単離に成功したフランスの化学者である。
▼ラボアジェさんは、化学実験は趣味、税金の徴収が仕事、と割り切って生活した人。実家は裕福なのに、働くことを厭わないのは分かるとして、なぜ取り立てた税金を着服するような悪人がいて世間の評判もよくない取税人になったのか、そこは意味不明。
▼お嫁さんは国の税金徴収部門の高官の娘。この人が素晴らしくて、夫の研究が進むように、語学を学んで夫が必要とする外国文献や手紙を翻訳したり、実験の様子を正確な図にするためイラストを学んだり(図はwikipediaで見られます)、夫がやっていることを理解するため化学を学んだりする。結果、これ以上ない右腕になる。
▼ラボアジェさんは論理的な仮説を設定すると、ひたすら実験を重ねて実証的に仮説の正しさを確認するタイプ。それまでの前提となっていた概念が、実験結果と合わないことが分かると忖度せず新概念を提唱する。近代化学の父と言われるゆえんだ。

アントワーヌ=ローラン・ド・ラボアジェ Antoine-Laurent de Lavoisier
1743-1794
1743年、パリ生まれ。父は裕福な弁護士。
教育
1754年(11才)マザラン学校に入学。化学、植物学、天文学、数学を学ぶ。
1761年(18才)マザラン学校を卒業。
1761年(18才)パリ大学法学部に入学。
1763年(20才)パリ大学法学部で学士号を取得。
1764年(21才)弁護士試験に合格、高等法院法学士になる。
活動
1766年(23才)フランス科学アカデミーの懸賞論文で1等賞を獲得。ルイ15世から金メダルを授与。
1768年(25才)フランス科学アカデミーの会員になる。
1768年(25才)徴税請負人となる。
1771年(28才)徴税請負人長官の娘マリーさんと結婚。マリーさんは英語・ラテン語・イタリア語・化学・絵画の描き方を習得して夫の研究を応援。
1772年(29才)貴族の地位を購入。
1774年(31才)化学反応の前後で質量が変わらない「質量保存の法則」を発見。
1775年(32才)火薬硝石公社の火薬管理監督官になる。
1776年(33才)砲兵工廠に移り実験室を開設。
1777年(34才)硫黄Sの単離に成功。英語のsulfurはラテン語の硫黄sulpurに由来。
1779年(36才)燃焼を助ける気体に「酸素」と命名。
1789年(46才)「化学原論」を出版。十年に渡りヨーロッパで教科書として使用。
1789年(46才)フランス革命。バスティーユ襲撃事件が発生。
1791年(48才)徴税請負制度が廃止。国家財政委員に任命。
1792年(49才)政府関係の職をすべて辞任、実験に専念する。
1793年(50才)革命政府から徴税請負人の娘と結婚していたことなどを理由に投獄。
1794年(51才)科学に敵愾心を持つ革命政府の裁判官によってギロチンで処刑。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A8