白金Ptの発見者 A・デ・ウジョーアさん

ウジョーアさんは科学調査隊の一員として南米に行き、調査で歩いていたときに白金を見つける。それまで、白金を見つけた人や国に持ち帰った人はいる。しかし、なぜウジョーアさんが発見者になれたのか? ▼それは、第一に科学者としての仕事上での発見であったこと、第二に(縁あって)王立協会のフェローになったこと、第三に発見のことを本に記述して出版したこと(それも英語)などの条件が重なったから、と言える。▼それにしてもイギリスはスペインとずっと戦争している間柄だったのに、そしてウジョーアさんは捕虜だったのに、科学知識の豊富さをイギリスの科学者は正しく評価し、フェローにまでして短期間で解放して母国への帰還を許した。イギリスの長所が現れたエピソードだ。

アントニオ・デ・ウジョーア Antonio de Ulloa 1716-1795
スペインの軍人、天文学者。

1716年、スペインのセビリア生まれ。
1733年(17才)スペイン海軍に入隊。
1735-44年(19-28才)フランス科学アカデミー測地遠征隊のメンバーとして赤道の子午線測定のため南米エクアドルに渡る。9年間、エクアドルに滞在。この間、コロンビアのピント川で白金を発見。「ピント川の小さな銀(platina del Pinto)と呼んだ。これが元素名 platinum の由来となる。
1745年(29才)科学調査が完了。スペインに戻るために乗り込んだ船が、対戦中のイギリス海軍によって拿捕。戦争捕虜としてイングランドに連行される。イングランドではウジョーアさんの科学知識が尊重され、科学者の友だちができる。そしてなんとロンドン王立協会のフェローにまでなる。王立協会会長のはからいでイングランドから解放されスペインに戻れた。
1748年(32才)プラチナ鉱石について科学的な見地で記述した『南米諸王国紀行』を出版。
1758年(42才)同書の英語版『南米航海記』が出版。これによりプラチナ発見者とされる。

https://en.wikipedia.org/wiki/Royal_Society
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%A2

オスミウムOsとイリジウムIrの発見者 S・テナントさん

オスミウムは万年筆のペン先、イリジウムは指輪や万年筆のペン先に使われる貴金属。オスミウムが白金鉱石から特定されるまで、多くの化学者が分離に挑戦していた。白金を王水に溶かした残留物から金属を見つけるというテナントさんの方法が優れていたことと、発見をすぐ王立協会に報告したことで発見者の地位を獲得。残念なことに、54才のとき、橋を馬で渡っていた時に、橋が落下する事故が発生し、帰らぬ人となる。

スミソン・テナント Smithson Tennant 1761-1815 イギリスの化学者

1761年、イギリス、ヨークシャー州の貴族の家に生まれる。
ビバリー中等学校の卒業。同校には2つの元素を発見したテナントさんのパネルが掲げられている。
1781年(20才)最初はエディンバラ大学で薬学を学ぶ。しかし、数か月でケンブリッジ大学に移り、植物学と化学に没頭。
1796年(35才)ケンブリッジ大学からM.D.を取得。チェダーという町の土地を購入し、農学の実験を行う。
1813年(52才)ケンブリッジ大学の化学教授になる。
1815年(54才)橋の落下事故で死去。

発見
1804年(42才)白金を王水で溶かした残留物からイリジウムとオスミウムを発見。

命名
オスミウム 精製途中で臭いを発することから、ギリシア語の臭いosmeから命名。
イリジウム 塩類の色調が虹のようなので、ギリシャ神話の虹の女神イリスIrisに因んだ。

https://en.wikipedia.org/wiki/Smithson_Tennant
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%82%A6%E3%83%A0
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%82%B8%E3%82%A6%E3%83%A0

レニウムReの発見者 W・ノダックさん、I・タッケさん、O・ベルグさんのチーム

レニウムは触媒や合金に使われる貴重なレアメタル。メンデレーエフの周期表の時代から存在が予測されているのになかなか見つからなかった存在。それをドイツの化学者チームが発見に乗り出し、2年で発見。チーム3人のうちノダックさんとタッケさんの2人はレニウム発見の翌年結婚。タッケさんはドイツの女性化学者の草分けとして活躍しノーベル化学賞に三度もノミネートされた実力者である。

(1)イーダ・タッケ Ida Noddack 1896–1978 ドイツの物理学者、化学者
1896年、北ライン地方でワニス工場を営む家庭に生まれる。
物理と化学に能力を示す。将来、学校の先生にはなりたくなかった、かといって当時、ドイツの産業界では物理学者の採用はほとんどなかった。そこで父の賛同を得て化学者を目指した。
1915年(19才)ベルリン工科大学に入学。ここで3つ年上のW・ノダックさんと出会う(11年後に結婚)。
1918年(22才)化学と冶金工学の学位を得て卒業。ドイツで化学を専門にする女性の第一世代。第一次世界大戦前、女性の化学専攻率は3%だったのに対し、戦後は35%に跳ね上がった。
卒業後、GEと提携しているベルリンにあるAEGタービン工場に就職。
ノーベル化学賞に三度ノミネートされる化学者である。

(2)ワルター・ノダック Walter Noddack 1893-1960 ドイツの化学者
1893年、ドイツのベルリン生まれ。
1923年(30才)新元素の発見に取り組む。
1926年(33才)イーダ・タッケさんと結婚。
1935年(42才)フライブルク大学で物理化学の教授。
1941年(48才)ストラスブール州立大学。
第二次世界大戦後
1945年(52才)バンベルグ大学。
1956年(63才)バンベルク大学が新設した地球化学研究所の所長に就任。

(3)オットー・ベルグ Otto Berg 1873–1939 ドイツの化学者 詳細不詳

レニウムRe
発見
1925年、W・ノダックさん(32才)、I・タッケさん(29才)、OI・ベルクさん(52才)のワーキンググループがレニウムを発見。
1928年、660kgのモリブデナイトから1gのレニウムの抽出に成功。

命名 I・タッケさんの故郷のライン川からレニウムと命名。ラテン語のレニウスRhenusはライン川Rhineの意味。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%80%E3%83%83%E3%82%AF
https://en.wikipedia.org/wiki/Ida_Noddack
https://en.wikipedia.org/wiki/Walter_Noddack
https://en.wikipedia.org/wiki/Otto_Berg_(scientist)

タングステンWの発見者 エルヤル兄弟

タングステンは融点が高く細い線に加工できることから電球のフィラメントとして長らく使われている金属。タングステンがなぜTではなくWなのだろうか。スズ鉱石を精錬するときタングステンが混った鉱石が混じるとタングステンがスズをオオカミWolfのように貪り食って複雑な化合物になってしまうことに由来する。なので発見者のデルヤル兄弟はウォルフラムWolframと名付けた。でも前にシェーレさん(7月16日)が灰重石から酸化タングステンを単離してタングステン酸と命名していた。デルヤル兄弟はタングステン酸からタングステンを単離したものをウォルフラムと呼んでいたので、正式名称としてはタングステンが採用された。ただドイツでは今でもWolframと呼んでいる。

 ファン・ホセ・デ・エルヤル Juan José de Elhuyar y de Suvisa 1754-1796 スペインの化学者、鉱物学者

1754年、フランス出身の両親の下、スペインに生まれる。
大学は、パリで学ぶ。ドイツのフライベルク鉱山専門学校で冶金学を学ぶ。
1781-82年(27-28才)スウェーデンのウプサラで科学者のT・ベリマン氏に学ぶ。
ベルガラ大学の教授になる。

 ファウスト・デ・エルヤル Fausto de Elhuyar y de Suvisa 1755-1833 スペインの化学者

1755年、スペイン生まれ。
1773-77(18-22才)パリで兄と一緒に薬学、外科、化学、数学・物理・自然科学を学ぶ。
卒業してスペインに戻り、バスクやナヴァレの鉱物を独学で調べる。
1781年(26才)バスク王立学校とベルガラ大学先生になり、鉱物学と冶金学を教えながら、多くの論文を発表。
1790年(35才)国王の命を受けメキシコ王立鉱山院の長官になる。

発見 1783(29才)兄弟でタングステンの単離に成功。
命名 ウォルフラムwolframと命名。

https://en.wikipedia.org/wiki/Fausto_Elhuyar
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%82%BB%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%A4%E3%83%AB
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%A4%E3%83%AB

タンタルTaの発見者 A・エーケベリさん

タンタルは電子機器用コンデンサの原料になる元素。幼いころ難聴になり、大学の先生として授業で苦労する。さらに実験中の爆発で片目を失明するなど健康面で恵まれなかった。友人や教え子によると、エーケベリさんは親切で紳士的な人物だったという。46才で亡くなる。

アンデシュ・グスタフ・エーケベリ Anders Gustav Ekeberg 1767-1813
スウェーデンの化学者、数学者、ギリシア文学者。

1767年、ストックホルム生まれ。父は船大工。
幼い頃にひどい風邪を患ったのが原因で難聴になる。
教育
学校の成績は優秀。
1784年(17才)ウプサラ大学に入学。
1788年(21才)ウプサラ大学を卒業。種から油を抽出する研究。
1789-90年(22-23才)ドイツに留学。M・クラプロートさん(7月14日)らの講義を受ける。

活動
1794年(27才)ウプサラ大学で教員として教え始める。
1795年(28才)A・ラボアジェ先生が提案した元素命名法の賛同者だったので元素命名法を紹介する記事をスウェーデン語で執筆、出版。
1798年(31才)燃焼理論の授業を担当。
1799年(32才)ウプサラ大学の実験担当者となり、化学教授T・バーグマン研究室の演習担当として働く。

発見
1802年(35才)イッテルビー村で見つかった鉱物を分析してタンタルを発見。タンタルは酸にも溶けないため分析が困難だった。
命名
ギリシャ神話のタンタロスにちなんで、タンタルと命名した。英語のtantalizeは「じらして苦しめる」の意味がある。タンタロスはその行為で神々の怒りを買い、罰を与えられる。その罰が、欲しいものが見えているのに手に取ろうとすると届かないところに行ってしまう、というもの。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%83%99%E3%83%AA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%AB
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%AD%E3%82%B9

ハフニウムHfの発見者のひとり G・ヘヴェシーさん

1943年度ノーベル化学賞の受賞者。本人曰く「一般の人はノーベル賞が最高と思っている。でも化学賞はそうではない。この受賞者は4-50名いる。しかし、権威ある英国王立協会で、外国人の会員はわずか10名。その中から英国王立協会の最高栄誉のコプリー賞を貰えたのはボーア先生と私だけ」という。自慢?いやそうではない。受賞した年はナチスが迫っていて危険、という判断でデンマークからスウェーデンに逃れている時だった。自慢などしていられる状況ではなかったから、本当にそう思っていたのだろう。受賞理由は、放射性同位元素をトレーサーとして活用する研究。1958年には、原子力平和利用賞を受賞している。

George de Hevesy 1885-1966 ハンガリーの化学者

1885年、ブダペストの裕福な貴族の家に生まれる。
教育
1903年(18才)ブダペストのピアリスタ高校を卒業。
ブダペスト大学で化学を1年間学んだあと、ベルリン工科大学に移って数か月在籍し、さらにフライベルグ大学に転籍。
1906年(21才)G・メイヤー先生のもとで研究開始。
1908年(23才)フライベルグ大学からPh.D.を取得。
スイスの大学から教員の誘いがあったものの、経済的に豊かで急いで就職する必要もなかったので見送る。代わりにドイツではフリッツ・ハーバーさんの下で、英国ではE・ラザフォードさんの下で研究を行う。英国ではN・ボーアさんとの出会いがあった。

活動
1918年(33才)ブダペストに戻り、物理化学の教授になる。
1924年(39才)フライベルグ大学の物理化学の教授になる。
1930年(45才)アメリカに渡りコーネル大学の講師になる。
1934年(49才)コペンハーゲンのニールス・ボーア研究所に所属。
1943-61年(54-72才)ナチスの侵攻でコペンハーゲンが危険になったのでスウェーデンに逃れ、ストックホルム大学の教授になる。

発見 1922年(37才)D・コスターさん(8月7日)と共同でハフニウムを発見。
命名 ニールス・ボーアさんの生地、コペンハーゲンのラテン語ハフニアに因んで名付けた。

ノーベル賞受賞
1943年(58才)同位体のトレーシング応用の業績でノーベル化学賞を受賞。

https://en.wikipedia.org/wiki/George_de_Hevesy
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%82%B7%E3%83%BC

ハフニウムHfの発見者のひとり D・コスターさん

ハフニウムを発見したD・コスターさんの武器はX線分光法。この武器を磨いてニールス・ボーア研究所に入り、共著を出したり新元素を見つけたりと大活躍。ヨーロッパをナチズムが席巻するとユダヤ人の脱出に力を貸す人物だった。ハフニウムの利用は、原子炉の制御棒とか身近なところでは蛍光灯にも使われている。

ディルク・コスター Dirk Coster 1889–1950 化学者

1889年、オランダのアムステルダムで鍛冶屋を営む大家庭に生まれる。
教育重視の家庭だったので、十分な教育を受ける。
教育
1904-08年(15-19才)ハーレルムの教員養成学校。
1908-13(19-24才)教師になる。
支援を得てライデン大学で数学と物理を学ぶ。P・Ehrenfest先生から影響を受ける。
1916年(27才)ライデン大学からM.Sc.を取得。
1916-20年(27-31才)デルフト技術大学でW・Haas先生の助手を務める。
1919年(30才)電子工学のEngineer’s degreeを取得。
1920-21年(31-32才)ルンド大学でM・Siegbahn先生の下でX線分光法で元素を見分ける技術を磨く。
1922年(33才)再びP・Ehrenfest先生の下で論文「X線分光法とボーアの原子論」を提出、ライデン大学のPh.D.を取得。

活動
1922-23年(33-34才)コペンハーゲンにあるニールス・ボーア先生の研究所でスタッフとして働く。入所してすぐボーア先生とX線分光法の論文を共著。
1924年(35才)フローニンゲン大学の教授に就任。W・Haas先生の後任になる。

発見
1923年(34才)G・ヘベシーさん(8月8日)と共同でジルコニウム鉱石をX線分光分析法で調査し、ハフニウムを発見。

命名
発見地のコペンハーゲンのラテン語名Hafniaに因んで名付ける。

1938年以降
化学者として活動する一方、ナチスの台頭に伴い、ユダヤ人の脱出に尽力。

https://en.wikipedia.org/wiki/Dirk_Coster
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%95%E3%83%8B%E3%82%A6%E3%83%A0

ルテチウムLuの発見者 G・ユルバンさん

ランタノイドのツアーもユルバンさんのルテチウムをもって完了。ホルミウムは発見者3人が名を連ねたけど、ルテチウムの場合はC・ヴェルスバッハ(7月29日)と発見者争いが起きてユルバンさんが勝った。

ジョルジュ・ユルバン Georges Urbain 1872-1938  化学者

1872年、パリ生まれ。
教育
Lycée CharlemagneとLycée Lavoisierを経て、ESPCI Parisに入学。
1894年(22才)トップの成績でESPCI Parisを卒業。同時にソルボンヌ大学から物理と化学の学位を取得。
1894-99年(22-27才)物理・化学の予備校で教えたり、研究所に勤めの暮らしを送る。
1899年(27才)希土類の分離に関する研究論文を完成。

活動
1899-1904(27-32才)CGEという会社の研究所でアーク灯の製造に使う希土類酸化物の研究に携わる。
1905-08年(33-34才)物理・化学学校やソルボンヌ大学の教師。
希土類の分離を効率的に進める技術の開発を進めた。

発見
1907年(25才)新元素ルテチウムを発見。
命名
出身地パリの古名ルテチアLutetiaからルテチウムと命名。

その後
1914-18年(42-46才)第1次世界大戦の間、戦争省で砲兵や爆発物に関する技術アドバイザーや研究所のディレクターを務める。

https://en.wikipedia.org/wiki/Georges_Urbain
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%83%A6%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%B3

ホルミウムHoの発見者3名 ドラフォンテーヌさん・ソレさん組、クレーベさん

ホルミウムHoの発見者は3名。順に紹介。希土類は発見したかと思っていると隠れていた元素が発見されて・・・が重なるのと発見者と思っていたら実は別の人が単離に成功した・・・とかランタノイドは一筋縄ではいかなくて面白い。ホルミウムはスイスの化学者2人グループとスウェーデンの化学者が別々に発見。発見者争いも起きず仲良く3人が発見者となった元素。

(1)マルク・ドラフォンテーヌ Marc Delafontaine 1837-1911
スイスの化学者

ジュネーヴ大学J・マリニャック先生(8月4日)のもとで研究。ジュネーヴ大学で教えたこともある。
1870年(33才)アメリカに渡り帰化。シカゴ市立高校や女子大学の教師やシカゴ警察の分析化学者として働く。
発見
1878年(41才)J・ソレスイスさんと共同で研究を進め、分光学的な方法でホルミウムHoを発見。スイスの化学者フィリッペ・プランタモー氏にちなんでPhilippiumと名づける。
1879年(42才)スウェーデンの化学者クレーベさんがツリウムとエルビウムからホルミウムを化学的に分離。3名が発見者となる。

(2)ジャック=ルイ・ソレ Jacques-Louis Soret 1827–1890
スイス人の化学者

1827年、ジュネーヴ生まれ。
1865年(38才)オゾンが3個の酸素原子が相互に結合した分子構造を持つと発表。
1873年(46才)ジュネーヴ大学で化学教授。
1876年(49才)ジュネーヴ大学で医学物理学の教授。
発見
1878年(51才)マルク・ドラフォンテーヌさんと共に分光測色法を用いてホルミウムを発見。

(3)ペール・テオドール・クレーベ Per Teodor Cleve 1840-1905
スウェーデンの化学者、地質学者。ホルミウム、ツリウムを発見した。

1840年、ストックホルム生まれ。
1863年(23才)ウプサラ大学で博士号取得。ウプサラ大学で働いた後、複数の国に留学。
1874年(34才)ウプサラ大学の一般化学、農芸化学の教授。

発見
1879年(39才)ホルミウムとツリウムを発見。
命名
ホルミウムは、ストックホルムのラテン名holmiaに因んで名付ける。ツリウムは、スカンジナビアのラテン語の旧名で最北の地を意味するトゥーレThuleに因む。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%8C
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%AC
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%AA%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%99
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%82%A6%E3%83%A0#:~:text=%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%82%A6%E3%83%A0%20(%E8%8B%B1%3A%20holmium%20%5B%CB%88ho%CA%8Almi%C9%99m,%EF%BC%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%8E%E3%82%A4%E3%83%89%E3%81%AB%E3%82%82%E5%B1%9E%E3%81%99%EF%BC%89%E3%80%82

ガドリニウムGdとイッテルビウムYbの発見者 マリニャックさん

マリニャックさんは19世紀の化学~とりわけ無機化学の分野で~最も偉大な学者の一人と言われた人物。学び方が独特だ。大学での修業を終えた後、すぐ仕事に就くのではなくて、ベルセリウス先生をはじめとするヨーロッパの高名な先生を訪ね歩く旅に出る。リービッヒ先生の研究室や磁器工場では短期インターンシップをしている。お金と時間がかかるけど、人脈と最新の知識が得られる賢いやり方だ。ジュネーブ大学の先生になると同時に自宅にも私設実験室を作る。年齢的に体が動かなくなるまで研究を続けた。

ジャン・シャルル・ガリサール・ド・マリニャック Jean Charles Galinard de Marignac 1817-1894
スイスの化学者

1817年、スイスのジュネーヴ生まれ。母の兄弟が化学者で一家と同じアパートに薬局を持っていた。
教育
1833年(16才)鉱山技師を目指してパリのエコール・ポリテクニークに入学。
1837-39年(20-22才)エコール・デ・ミーヌ(国立鉱山学校)で学ぶ。
遊学
1840年(23才)高名な科学者を訪ね歩く旅に出る。ドイツではリービッヒ先生(6月19日)の研究室で短期間インターンシップ。パリ近郊のセーヴル磁器工場でもインターンシップ。スウェーデンでベルセリウス先生(6月29日)にも影響を受ける。
活動
1841-78年(24-61才)ジュネーヴ大学の化学教授。
1845-78年(28-61才)ジュネーヴ大学の鉱物学教授も兼ねる。
1845-84年(28-67才)自宅の研究室で弱って動けなくなるまで研究を継続。

実験方法の特徴
注意く厳密な原子の重量測定で有名。基本、一つのサンプルを二つ以上の方法で試験。

発見 1878年(61才)エルビニウムからイッテルビウムYbの分離に成功。
命名 鉱石の発見地スウェーデンのイッテルビーYtterbyに因んで命名。

発見 1880年(63才)サマルスキー石からサマリウムSmとガドリニウムGdの分離に成功。
命名 イットリウムを発見したJ・ガドリンさん(7月14日)の名前に因んで命名。

https://en.wikipedia.org/wiki/Jean_Charles_Galissard_de_Marignac
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF