リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(77)霧箱に代わる泡箱で素粒子物学を前進させた:D・グレーザーさん

▼グレーザーさんは泡箱の発明者である。泡箱は「ウィルソンの霧箱にとって代わる」荷電粒子の観測装置。「(霧箱が)冷却された気体中の水滴の飛跡を観察する代わりに、加熱された液体中の泡の飛跡を観察」する。この泡箱の業績でグレーザーさんは1960年にノーベル物理学賞を受賞。
▼あるときビオラ奏者でもあるグレーザーさんとピアノを弾くフリッシュさんが合奏する。演奏の後、グレーザーさんがフリッシュさんに「泡箱で撮った写真の解析に1時間かかっている。研究のボトルネックだ。素早い飛跡の解析方法の早急な開発が必要」と語る。この話をきいたフリッシュさんは「飛跡解析装置の開発は、まさに私の心にかなう挑戦」(p.266)となる。結果、スイープニクという名称の装置が完成。製造販売会社を作り、フリッシュさんは会長に就任することになる。

ドナルド・グレーザー Donald Glaser 1926-2013
1926年、オハイオ州クリーヴランド生まれ。ロシア系ユダヤ人。父はビジネスマン。
教育
音楽好きでピアノ、バイオリン、ビオラを演奏。
クリーヴランドのハイツ高校で学ぶ。物理学に興味。
1939年(13才)WWII
1945年(19才)WWII終戦
1946年(20才)ケース・ウェスタン・リザーブ大学で学士(物理学と数学)。素粒子物理学に興味。クリーヴランドオーストラリアでビオラ奏者
1949年(23才)ミシガン大学で講師。
1950年(24才)カリフォルニア工科大学でPh.D.(物理学)。指導教員は Carl David Andersonさん。霧箱を使った宇宙線の実験。
活動
1957年(31才)ミシガン大学で教授。泡箱の開発。
1959年(33才)カリフォルニア大学バークレー校で教授(物理学)。
1960年(34才)ノーベル物理学賞(泡箱の発明)
1964年(38才)カリフォルニア大学バークレー校で教授(物理学と分子生物学)。
1989年(63才)カリフォルニア大学バークレー校大学院で教授(物理学と神経生物学)。
2013年(87才)バークレーで死去。

▼師匠・弟子・関係筋
師匠
□ カール・デイヴィッド・アンダーソン Carl David Anderson 1905–1991 1936年にノーベル物理学賞を受賞したアメリカの物理学者。
関係筋
■ オットー・フリッシュ Otto Frisch 1904-1979

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳 「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」 吉岡書店、2003年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%BC
https://en.wikipedia.org/wiki/Donald_A._Glaser

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(76)規則正しい信号を発信する星パルサーを発見:A・ヒューイッシュさん

▼1967年、ヒューイッシュさんら宇宙天文学者が、宇宙に規則正しいパルスを発生する星があることに気づく。これが新聞などに知れると地球外に知的生命体がいると大騒ぎする。そのような事態を防ぐため、発見当初は秘密にした。それほどの大発見がパルサーの存在。ヒューイッシュさんらはこの発見でノーベル物理学賞を受賞する。
▼フリッシュさんの自伝では「偶然見つかった珍しい星の研究が、原子核のような稠密な物質についての新たな知識を与えてくれる(中略)。宇宙をのぞきこむための電波望遠鏡は、原子核の内部をのぞきこむための顕微鏡である巨大加速器を補足する装置となっている」(p.264)
▼聞く正しいパルスを発生する星の正体について、フリッシュさんは「大部分中性子からできている崩壊した星」「高速で回転し、一秒間に数回、電波のビームを空の周りに掃射している」「重力で結合された数マイルの大きさの巨大な原子核」(p.264)と説明している。

アントニー・ヒューイッシュ Antony Hewish 1924-
1924年、イギリスのコーンウォール州フォイ生まれ。
教育
トーントンのキングスカレッジで学ぶ。
1939年(15才)WWII
ケンブリッジ大学Gonville and Caius校で学ぶ。
途中、軍務に就き王立航空研究所で空軍用レーダー研究。マーティン・ライルさんと出会う。
1945年(21才)WWII終戦。ケンブリッジ大学でBA。キャベンディッシュ研究所でライルさんの下で研究。
1952年(28才)ケンブリッジ大学でPhD。星の間で起こるきらめきの研究を理論と実用の両面で開拓。
マラード電波天文台 (MRAO) に惑星間シンチレーションを研究する電波望遠鏡アレイInterplanetary Scintillation Arrayの建設を提案。
活動
1950年(26才)結婚。
1967年(43才)Interplanetary Scintillation Arrayが完成。指導学生のジョスリン・ベルさんがパルサー CP 1919を発見
1968年(44才)王立協会フェロー。
1969年(45才)英国王立天文学会エディントン・メダル受賞。
1971年(47才)キャベンディッシュ研究所で教授(電波天文学)(1989年まで)。
1974年(50才)ノーベル物理学賞(電波天体物理学の先駆的研究、パルサーの発見における決定的役割)
1982年(58才)ケンブリッジ大学マラード電波天文台 (MRAO) で所長(1988年まで)。

▼師匠・弟子・関係筋
師匠
■ マーティン・ライル Martin Ryle 1918-1984 1974年ノーベル物理学賞を受賞した天文学者。
弟子
□ ジョスリン・ベル=バーネル Jocelyn Bell Burnell 1943- パルサーを発見した天体物理学者。
関係筋
□ フレッド・ホイル Fred Hoyle 1915-2001 ケンブリッジ大学天文学研究所所長。

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳 「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」 吉岡書店、2003年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%A4%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5
https://en.wikipedia.org/wiki/Antony_Hewish

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(75)プログラム内蔵方式コンピュータをイギリスで最初に完成させた:M・ウィルクスさん

▼フリッシュさんは汽車の中で偶然フォン・ノイマンさんに会った時、ウィルクスさんのEDSACのことを話す。するとノイマンさんから「いいかい、オットー、そのトリックは誰だって知っているよ。でも、確かに、EDSACはひとつ優れた点がある。あれは本当に動くんだ」と言われる(p.261)。
▼ウィルクスさんは渡米してENIACを実際に見て学び、イギリスに帰ってプログラム内蔵方式のコンピュータを組み立た実績でチューリング賞を受賞したコンピュータ科学者。
▼ウィルクスさんはもともと数学者・物理学者で大学の微分解析機に夢中なっていた計算機オタク。そんな人だからノイマンさんのプログラム内蔵方式コンピュータに関するレポートを一晩で読んで、これだ!と確信した。
▼フリッシュさんも計算機が大好き人間。「ウィルクスから、いくつかの真空管をグループにして数字や命令の貯蔵庫に使うという、新しいトリックを教わり、ぞくぞくするものを感じ」るタイプだから、ノイマンさんの顔を見たとき、その話をしたくなったのも無理はない。ノイマンさんとの話で、「ケンブリッジで私たちのやっていることはそれほど間違っていないと。創造主から直接聞くことができ、元気も出た」(p.261)

モーリス・ウィルクス Maurice Wilkes 1913-2010
1913年、イングランドのウスターシャー ダドリー生まれ。父はダドリー卿の資産管理人。
教育
1914年(1才)WWI
1918年(5才)WWI終戦
キングエドワード6世グラマースクールで学ぶ。高校時代、アマチュア無線に親しむ。
1931年(18才)ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジで数学を学ぶ(1934年まで)。
1934年(21才)ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジでBA(数学)。
1935年(22才)キャヴェンディッシュ研究所で超長波の研究学生。
1936年(23才)ケンブリッジ大学でMA(数学)。マンチェスター大学でDouglas Hartreeさんが行った計算機の講義に参加。MITのヴァネバー・ブッシュさんが発明した微分解析機“differential analyzer”を知る。
1937年(24才)ケンブリッジ大学でPhD(物理学)。電離層での長波の伝播研究。Lennard-Jonesが立ち上げた新設の計算機研究所で副所長。
活動
1939年(26才)WWII。軍でレーダー開発とORに協力。戦後コンピュータ開発で役立つ人脈を形成。
1945年(32才)WWII終戦。ケンブリッジ大学に戻り数学研究所で副所長と所長(1980年まで)。ノイマンさん著「EDVACに関する報告書の第一草稿」を入手。
1946年(33才)ペンシルベニア大学ムーアスクールで開催されたコンピュータのレクチャーに参加。アメリカのコンピュータ情報を収集。帰国の船中でEDSAC:Electronic Delay Storage Automatic Calculatorの構想を練る。
1947年(34才)数学研究所の自前の資金でEDSAC開発開始。
1949年(36才)EDSAC稼働開始。主記憶装置に水銀遅延線を使用。
1950年(37才)ケンブリッジ大学でフェロー(2010年まで)。
1951年(38才)「Preparation of Programs for Electronic Digital Computers」発刊。
1956年(43才)王立協会フェロー。
1957年(44才)英国コンピュータ協会を創設。初代会長(1960年まで)。
1965年(52才)ケンブリッジ大学で教授(コンピュータ技術、1960年まで)。
1967年(54才)第2回チューリング賞を受賞(EDSACの設計者および開発者として)。
1980年(67才)ケンブリッジ大学の教授と研究所所長を引退。渡米しDECで技術スタッフ。
1986年(73才)イギリスに戻る。Olivetti-AT&T研究所で理事。
2000年(87才)ナイトに叙される。
2002年(89才)ケンブリッジ大学コンピュータ研究所で名誉教授。
2010年(97才)ケンブリッジで死去。

▼師匠・弟子・関係筋
師匠
□ John Ashworth Ratcliffe 1902–1987 無線工学者。
弟子
□ Michael Kay
□ Peter Wegner
□ David Wheeler
関係筋
■ ヴァニーヴァー・ブッシュ Vannevar Bush 1890-1974
■ ジョン・フォン・ノイマン John von Neumann 1903-1957
■ ジョン・モークリー John Mauchly 1907-1980 ENIACの設計・製造。
■ ハーマン・ゴールドスタイン Herman Goldstine 1913-2004 数学者。

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳 「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」 吉岡書店、2003年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9
https://amturing.acm.org/award_winners/wilkes_1001395.cfm
https://en.wikipedia.org/wiki/Maurice_Wilkes

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(74)電離層研究の父:E・アップルトンさん

▼フリッシュさんがケンブリッジ大学ジャクソニアン教授職の受託をためらった理由が偉大な人物が座っていた椅子だから。前回のデュワーさんに続いて今回はアップルトンさん。アップルトンさんは電離層の発見者。地上から発信した電波が空中で反射して遠方まで届く現象は確認され、電離層が予言されていた。アップルトンさんは二つの電離層の存在を実験で確認した。この功績で1947年にノーベル賞を受賞。
▼電離層の研究は、WWIIの時期のレーダー開発に大いに貢献した。
▼電離層を使った地震予知の研究がある。地震が発生する前、地下では地殻変動が起きている。地殻の捻じれ・圧迫・ズレ・破壊などによって電磁気が発生する。この電磁気が上空に届き、電離層に影響を及ぼす。地殻変動が発生した上空の電離層が上下変動することより、超長波の伝播状態に変化が起きる。この変化を捉えて地震予知を行うのである。地震発生のほぼ1週間前に起こる現象という。詳しくは、http://hi-seismo-em.moo.jp/profile1.html

エドワード・アップルトン Edward Appleton 1892-1965
1892年、イギリスのブラッドフォード生まれ。父は倉庫経営。
教育
ハンソン・グラマースクールで学ぶ。
1909年(17才)ブラッドフォード・カレッジで技師(1911年まで)。
1911年(19才)奨学金を得てケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジに入学。物理学を学ぶ。
1913年(21才)ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジを優等で卒業。
活動
1914年(22才)WWI。イギリス軍の工兵隊に入隊。
1918年(26才)WWI終戦
1920年(28才)キャベンディッシュ研究所で実験物理学の助手。
1922年(30才)フリーメイソンに入る。
1924年(32才)ロンドン大学で教授(物理学、1936年まで)。電離層を発見。地表100kmの電離層ケネリー・ヘビサイド層(E層)を確認。
1926年(34才)地表200~300kmに電離層アップルトン層(F層)を確認。
1927年(35才)王立協会フェロー。
1936年(44才)ケンブリッジ大学で教授(自然科学)。
1939年(47才)WWII。政府の科学・産業研究部署で秘書官(1949年まで)。
1941年(49才)ナイトに叙せられる。
1945年(53才)WWII終戦
1947年(55才)ノーベル物理学賞受賞(上層大気の物理的研究、特にアップルトン層の発見)。
1949年(57才)エディンバラ大学で学長、副学長(1965年まで)。
1950年(58才)ロイヤル・メダル受賞。
1965年(73才)スコットランドのエジンバラで死去。

▼師匠・弟子・関係筋
師匠
■ ジョゼフ・ジョン・トムソン J. J. Thomson 1856-1940
■ アーネスト・ラザフォード Ernest Rutherford 1871-1937
弟子
□ John Ashworth Ratcliffe 1902–1987 電波物理学者。
□ Charles Oatley 1904–1996 電子工学者。
関係筋
□ 早川正士 Hayakawa Masashi 1944- 電磁気学者。

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳 「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」 吉岡書店、2003年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B3
https://en.wikipedia.org/wiki/Edward_Victor_Appleton

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(73)低温物理学の力で世界で初めて酸素と水素を液化した:J・デュワーさん

▼1947年、フリッシュさんはケンブリッジ大学のジャクソニアン教授職の提示を受け、数日ためらった後で受諾する。なぜためらったかというと「ひとつには、ただの怠け癖から」。もうひとつは「提示された椅子がたいへん著名な椅子だったこともある」(p.250)
▼その職にあった先人の一人が、今回の低温物理学の権威であり、親しみやすいところでは魔法瓶を発明したジェイムス・デュワーさんだ。
▼デュワーさんは気体の液体化競争の時期に、酸素と水素の液化を成功させ量産化技術も開発した化学者。低温下で物質が通常とは違う性質を示すことを次々に発見。81才で亡くなるまで現役のジャクソニアン教授だった。フリッシュさんを躊躇させるのに十分な歴史的大物科学者だ。

ジェイムズ・デュワー James Dewar 1842-1923
1842年、スコットランドのキンカーディン=オン=フォース生まれ。
教育
Kincardine Parish学校とドラーアカデミーで学ぶ。
1852年(10才)リウマチ熱にかかり長期療養。
1857年(15才)両親が死去。
1859年(17才)エディンバラ大学入学。指導教員はライアン・プレイフェアさん。
活動
エディンバラ大学卒業。プレイフェアさんの助手(1873年まで)。
1867年(25才)化学構造モデルに関する論文を発表。アウグスト・ケクレさんの目に留まりケント研究室に招かれ共同研究。ベンゼンの立体異性体デュワーベンゼンを発表。
1869年(27才)王立獣医学校で講師を兼任。低温物理学の研究を開始。
1871年(29才)結婚。
1875年(33才)ケンブリッジ大学で教授(アンドリュー・ジャクソン実験自然哲学と化学、1923年まで)。George Livingさんとスペクトルの共同研究を開始。
1877年(35才)ロンドン王立研究所でフラー化学教授(1923年まで)。気体の液化と低温物性を研究。
1878年(36才)酸素の液化に成功。王立協会で実演。
1885年(43才)液体酸素の量産法を確立。
1888年(46才)火薬に関する政府諮問委員。
1889年(47才)フレデリック・エイベルさんと共同で無煙火薬「コルダイト火薬」を発明。ノーベルさんと特許紛争。
1891年(49才)液体酸素と液体オゾンが磁性を持つことを発見。
1892年(50才)200度からマイナス200度の間の電気抵抗をロンドン大学のフレミングさんと共同で研究(1895年まで)。絶対零度近くで0になると予言(超伝導)。デュワー瓶(魔法瓶の元)を発明
1894年(52才)王立協会からランフォード・メダルを受賞(物質の低温研究)。
1895年(53才)水素の液化に成功
1898年(56才)液体水素の量産法を確立。
1899年(57才)マイナス259℃で水素の凝固に成功。
1904年(62才)ドイツのガラス職人により魔法瓶の商品化に成功。 フランス科学アカデミーからラヴォアジエ・メダルを受賞。
1905年(63才)魔法瓶のガラスに銀メッキして放射を防ぐ技術を開発。
1914年(72才)WWI。戦争の間、研究費削減のため低温から薄膜の研究に切り替え。
1918年(76才)WWI終戦
1921年(79才)液体酸素を使った機器で太陽放射を測定。
1923年(81才)ロンドンで死去。

▼師匠・弟子・関係筋
師匠
□ ライアン・プレイフェア Lyon Playfair 1818–1898 スコットランドの化学者。
関係筋
□ フレデリック・エイベル Frederick Abel 1827–1902 イギリスの化学者
□ アウグスト・ケクレ August Kekulé 1829-1896 ドイツの有機化学者。ベンゼン環を考案。
□ ジョージ・リーヴェイング George Liveing 1827–1924 イギリスの化学者。

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳 「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」 吉岡書店、2003年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%AF%E3%83%BC
https://en.wikipedia.org/wiki/James_Dewar

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(72)原爆製造の情報を漏洩した理論物理学者:K・フックスさん

▼フックスさんは極めて優秀な物理学者でマンハッタン計画で理論物理チームで活躍した。リーダーのベーテさんは「我々のチームで最も優秀な理論物理学者のひとり」と賞賛する能力の持ち主。
▼原水爆製造の鍵になる重要な計算を担当した。しかし情報をソ連に流し続けていたことが分かりWWIIの終戦後イギリスで逮捕される。
▼フリッシュさんはフックスさんの逮捕のニュースを聞いたとき「ある種のでっち上げに過ぎないと思った」という。「しかし、最後には、フックスが容疑を認め、それが小さな罪であり(中略)すぐにハーウェル(仕事場)に戻れると無邪気に考えていたと聞いたときは、茫然としてものが言えなかった」という。しかし「私は今でも、フックスは全く誠実な動機から行動したと信じている」(p.250)

クラウス・フックス Klaus Fuchs 1911-1988
1911年、ドイツのリュッセルスハイム生まれ。父はルター派の神学者。
教育
1914年(3才)WWI
1918年(7才)WWI終戦
ギムナジウムで学ぶ。
1930年(19才)父が神学教授のライプツィヒ大学に入学。数学と物理を学ぶ。ドイツ社会民主党Social Democratic Party of Germany (SPD)の学生支部に入る。
キール大学に転学。数学と物理を学ぶ。
1931年(20才)母親が自殺。
1932年(21才)SPDを追放されドイツ共産党 Communist Party of Germany (KPD)に入党。
1933年(22才)ヒトラーがドイツ首相に就任。ヒトラーのNational Socialist German Workers’ Party (NSDAP) とKPDは対立していたのでキールを出てベルリンのカイザーヴィルヘルム物理学研究所に入る。しばらくして追放される。
1934年(23才)渡英しブリストル大学のネヴィル・モットさんの研究助手。
1937年(26才)ブリストル大学でPh.D.(物理学)。指導教員はネヴィル・モットさん。
エディンバラ大学でDSc 指導教員はマックス・ボルンさん。
活動
1939年(28才)WWII。敵国人として拘束。
1940年(29才)ボルンさんの執り成しで釈放。ルドルフ・パイエルスさんの指名で英国の原爆計画Tube Alloysに参加。
1941年(30才)イギリスの原爆計画をソ連と共有するためロシア連邦軍参謀本部情報総局ロンドン支部のエージェントと接触。
1942年(31才)イギリス市民になる。
1943年(32才)渡米しマンハッタン計画に参加。コロンビア大学で働く。
1944年(33才)ロスアラモス国立研究所理論物理学部門ハンス・ベーテさんのチームで働く。
1945年(34才)トリニティ実験に参加。WWII終戦。イギリスに戻る。KGBのスタッフに原水爆の製造理論の漏洩を継続。
1950年(39才)イギリスの情報機関MI5の尋問を受け情報漏洩を告白。裁判で懲役40年の判決。英国籍剥奪。
1959年(48才)9年の服役後、釈放されて東ドイツのドレスデンにある核研究所で仕事。
1963年(52才)ドレスデン工科大学で教授(理論物理学)。
1988年(77才)東ドイツのドレスデンで死去。

▼師匠・弟子・関係筋
師匠
■ マックス・ボルン Max Born 1882-1970
□ ネヴィル・モット Nevill FMott 1905–1996 1977年ノーベル物理学賞受賞。
関係筋
■ リーゼ・マイトナー Lise Meitner 1878-1968
■ ジョン・フォン・ノイマン John von Neumann 1903-1957
■ ロバート・オッペンハイマー Robert Oppenheimer 1904-1967
■ オットー・フリッシュ Otto Frisch 1904-1979
■ ハンス・ベーテ Hans Bethe 1906-2005
■ ルドルフ・パイエルス Rudolf Peierls 1907-1995
■ エドワード・テラー Edward Teller 1908-2003
■ リチャード・ファインマン Richard Feynman 1918-1988

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳 「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」 吉岡書店、2003年。
https://en.wikipedia.org/wiki/Klaus_Fuchs
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(71)X線天文学のパイオニア:B・ロッシさん

▼ブルーノ・ロッシさんは、フリッシュさんが1943-45年の間、マンハッタン計画でロスアラモス研究所で生活していた時期の同僚。1938年、イタリアのファシスト党によるユダヤ人政策からアメリカに逃れてきたX線天文学者。
▼フリッシュさんの自伝に「戦争は大勢の優秀な男たちを、それまで座っていたベンチから駆り出したが、それは物理学にとって災いだったのだろうか。実際はそうではなかった。私たちは戦争のためにだけではなく、私たち自身の兵器庫にも新しい武器を作り上げた」(p.221)とある。
▼ロッシさんはWWIIの後、MIT教授になり、NSF、DARPA、NASAの仕事を行う。史上初めて太陽系の外にあるX線天体の発見者のひとりになる。

ブルーノ・ロッシ Bruno Rossi 1905-1993
1905年、イタリアのヴェニス生まれ。ユダヤ人。父は電気技師。
教育
1914年(9才)WWI
1918年(13才)WWI終戦
1919年(14才)家庭での教育を終え、ギムナジウムとリセで学ぶ。
パドヴァ大学とボローニャ大学で学ぶ。
1927年(22才)ボローニャ大学でLaurea in Physics。指導教員はQuirino Majoranaさん。
活動
1928年(23才)フィレンツェ大学でAntonio Garbassoさんの助手。
1929年(24才)最初の指導学生ジュセッペ・オキャリーニさんが博士号取得。宇宙線の研究を開始。
1932年(27才)パドヴァ大学で教授。
1938年(33才)ムッソリーニ政権のユダヤ人政策のため、デンマークのニールスボーア研究所で研究。
1939年(34才)WWII。マンチェスター大学を経てシカゴ大学とコーネル大学で准教授。
1943年(38才)マンハッタン計画に参加。ロスアラモス研究所で研究。Hans H. Staubさんと同じグループで研究。フリッシュさんと知り合う。
1945年(40才)WWII終戦
1946年(41才)MITで教授(1970年まで)。
1962年(57才)さそり座X-1をリカルド・ジャコーニさんらと共同発見。
1974年(69才)パレルモ大学で教授(1980年まで)。
1983年(78才)アメリカ国家科学賞受賞。
1993年(88才)マサチューセッツ州ケンブリッジで死去。

▼師匠・弟子・関係筋
師匠
■ Quirino Majorana 1871–1957 イタリアの実験物理学者。
弟子
■ ジュセッペ・オキャリーニ Giuseppe Occhialini 1907-1993
関係筋
■ ニールス・ボーア Niels Bohr 1885-1962
■ エンリコ・フェルミ Enrico Fermi 1901–1954
□ ハンス・スタウブ Hans H. Staub ロスアラモス研究所時代の同僚。
□ リカルド・ジャコーニ Ricardo Giacconi 1931-2018 X線天文学のパイオニア。

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳 「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」 吉岡書店、2003年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%B7
https://en.wikipedia.org/wiki/Bruno_Rossi

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(70)クオークの父:M・ゲル-マンさん

▼フリッシュさんの自伝でゲル-マンさんはクオークの提唱者で紹介されている。
▼サイクロンの登場によって、原子を作るやつ、というか、もの、というか、素みたいなのがたくさんあることが分かってきた。分かってきたことは、分からなくなったということでもある。ストレンジネスという名前の粒子があることからもそれが伝わる。
▼新しく出てきた粒子をファミリーに分けてそのひとつにバリオンbarryonsというのがある。「そのひとつの解釈は、アメリカの理論家のミュレイ・ゲル-マンによる提案であり、バリオンは三種類のクオークquarksから作られているというものである」(p.234)

マレー・ゲルマン Murray Gell-Mann 1929-2019
1929年、ニューヨーク生まれ。ユダヤ人。
教育
1939年(10才)WWII
1943年(14才)Columbia Grammar & Preparatory School卒業。
1945年(16才)WWII終戦
1948年(19才)イェール大学でB.Sc.(物理学)。
1951年(22)マサチューセッツ工科大学でPh.D.(物理学)。指導教員はヴィクター・ワイスコフさん。
活動
1951年(22才)IASプリンストン高等研究所でポスドク研究員。
1952年(23才)イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校で客員研究教授(1953年まで)。
1953年(24才)コロンビア大学で客員准教授。
1954年(25才)シカゴ大学で准教授(1955年まで)。 ストレンジネス理論strangeness theory、八道説eightfold way theoryを発表。
1955年(26才)カリフォルニア工科大学で教授(1993年まで)。結婚。弱い力の理論theory of weak interactionsの研究を進める。
1958年(29才)ファインマンさんと共同研究開始。
1959年(30才)アメリカ物理学会からダニー・ハイネマン賞を受賞。米国科学アカデミーNAS会員。
1964年(35才)クォーク模型を提唱。
1969年(40才)ノーベル物理学賞受賞(素粒子の分類およびその相互作用に関する発見)
1992年(63才)再婚。
2019年(90才)サンタフェの自宅で死去。

▼師匠・弟子・関係筋
師匠
■ ヴィクター・ワイスコフ Victor Weisskopf 1908-2002
弟子
□ ケネス・ウィルソン Kenneth Wilson 1936-2013 1982年、ノーベル物理学賞を受賞(相転移に関連した臨界現象に関する研究)。
関係筋
■ リチャード・ファインマン Richard Feynman 1918-1988

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳 「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」 吉岡書店、2003年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3
https://en.wikipedia.org/wiki/Murray_Gell-Mann#cite_note-nobelprize-59
https://www.nobelprize.org/prizes/physics/1969/gell-mann/biographical/

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(69)写真乳剤の研究でシュレーディンガーさんから高評価を得た:M・ブラウさん

▼フリッシュさんの自伝では「今世紀(20世紀)の初めには、アルファ粒子により形成された粗い飛跡が写真乳剤の中に観察され」写真乳剤の研究が進む。「1920年代には、より緻密な飛跡を得るため、写真乳剤を改良する試みがウィーンの女性科学者のグループによって追求された」(p.232)と写真乾板による粒子の解析法の進展が紹介されている。
▼それに出てくる女性科学者グループのメンバーに今回のマリエッタ・ブラウさんが入っている。
▼ブラウさんはウィーン大学出身の物理学者。リーゼ・マイトナーさんが1878年生まれなので、1894年生まれのブラウさんと16才の違い。二人ともユダヤ人でナチスから逃れるため研究を中断せざるを得なかった経験を持つ。さらに女性であるため名誉ある賞を受けてもアカデミー会員には迎え入れられないという経験も持つ。

マリエッタ・ブラウ Marietta Blau 1894–1970
1894年、ウィーン生まれ。ユダヤ人。父は法律家・楽譜出版業。
教育
Association for the Extended Education of Womenが運営する女子高で教育を受ける。
1914年(20才)WWI。ウィーン大学入学。物理と数学を学ぶ。
1918年(24才)WWI終戦。ウィーン大学卒業。
1919年(25才)ウィーン大学でPhD。
活動
1919年(25才)オーストリアやドイツの企業や大学の研究所で活動。
1921年(27才)ベルリンのX線管製造会社で勤務の後、フランクフルトアンマイン大学医学物理学研究所で助手。
1923年(29才)ウィーンにあるオーストリア科学アカデミーのラジウム研究所で無給研究員。写真を使ったアルファ粒子とプロトンの検出技術を追求。
1932年(38才)Austrian Association of University Womenの奨学金を得てゴッチンゲン大学とパリで研究。
1937年(43才)オーストリア科学アカデミーからリーベン賞を指導学生のHertha Wambacherさんと共同受賞(原子核乾板を使ったニュートロンの測定)。海抜2300メートルの地点に設置した原子核乾板に記録された宇宙線から崩壊星を共同発見。
1938年(44才)ナチスがオーストリア併合。オーストリアからオスロへ脱出。
アインシュタインさんの紹介でメキシコシティにある国立工科大学で教員。のちミチョアカン大学で教員。
1939年(45才)WWII
1944年(50才)メキシコでは研究環境が劣悪なため渡米。企業に勤める(1948年まで)。
1945年(51才)WWII終戦
1950年(56才)セシル・パウエルさんがノーベル物理学賞を受賞。シュレーディンガーさんの推薦(Hertha Wambacherと共に)でノーベル物理学賞にノミネートされる。原子核乾板による原子物理学の進展への貢献。
1948年(54才)コロンビア大学、ブルックリン国立研究所BNL、マイアミ大学で研究(1960年まで)。
1960年(66才)オーストリアに帰国しラジウム研究所で無給指導者(1964年まで)。 CERNで粒子の写真軌跡の解析チームを率いる。
1962年(68才)オーストリア科学アカデミーからエルヴィン・シュレーディンガー賞を受賞。しかしオーストリア科学アカデミーの会員にはなれなかった。
1970年(76才)ウィーンで死去。

▼師匠・弟子・関係筋
弟子
□ Hertha Wambacher 1903–1950 物理学者。
関係筋
■ アルベルト・アインシュタイン Albert Einstein 1879-1955
■ エルヴィン・シュレーディンガー Erwin Schrödinger 1887-1961
■ セシル・パウエル Cecil Powell 1903-1969

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳 「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」 吉岡書店、2003年。
https://en.wikipedia.org/wiki/Marietta_Blau
https://ja.everybodywiki.com/Matilda_effect
https://en.wikipedia.org/wiki/Matilda_effect

 

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(68)湯川さんが予言したパイオンの発見者のひとり:G・オキャリーニさん

▼オキャリーニさんは写真用の乳剤を使い核利用の研究の第一人者。セシル・パウエルさんのノーベル物理学賞の受賞につながるパイオンの発見に貢献した。熱心な登山家だった。
▼ノーベル賞には謎があって、パイオンの発見ではパウエルさん一人が受賞、サイクロトロンの発明ではローレンスさん一人が受賞、核分裂の発見ではハーンさん一人が受賞し、仲間は受賞に与かっていない。
▼フリッシュさんの自伝でオキャリーニさんについて次のように触れられている。「新しい章は、セシル・パウエルとギゼッペ・オッチャリーニが、非常に細かい粒子で作られた写真乾板を用いて、宇宙線の飛翔の研究を一躍拡大した時に始まった」(p.232)

ジュセッペ・オキャリーニ Giuseppe Occhialini 1907-1993
1907年、イタリア中部のマルケ州フォッソンブローネ生まれ。父は物理学者。
教育
1914年(7才)WWI
1918年(11才)WWI終戦
1929年(22才)フィレンツェ大学卒業。
1932年(25才)キャヴェンディッシュ研究所でブラケットさんの下で霧箱を用いて宇宙線からポジトロンを発見する研究に従事。
活動
1937年(30才)Gleb Wataghinさんの招きでサンパウロ大学物理学研究所で研究(1944年まで)。
1939年(32才)WWII
1944年(37才)帰国。
1945年(38才)WWII終戦
1947年(40才)ブリストル大学H. H. Wills Laboratoryでパウエルさん、ミュアヘッドさん、セザーレ・ラッテスさんと湯川さんが予言したπ中間子を発見
1950年(43才)ジェノヴァ大学。パウエルさんがノーベル物理学賞を受賞(写真による原子核崩壊過程の研究方法の開発および諸中間子の発見)。
1952年(45才)ミラノ大学。
1974年(67才)王立協会外国人会員。
1993年(86才)イタリアの中部マルケ州ペーザロで死去。英語版Wikipediaではパリで死去。

▼師匠・弟子・関係筋
師匠
■ パトリック・ブラケット Patrick Blackett 1897–1974
□ ブルーノ・ロッシ Bruno Rossi 1905–1993 宇宙物理学者。
関係筋
□ Gleb Wataghin 1899–1986 物理学者。
■ セシル・パウエル Cecil Powell 1903-1969
■ 湯川秀樹 Yukawa Hideki 1907-1981
□ H・ミュアヘッド
□ セザーレ・ラッテス Cesare Lattes 1924-2005 ブラジルの実験物理学者。π中間子の共同発見者。

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳 「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」 吉岡書店、2003年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%82%BB%E3%83%83%E3%83%9A%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8B