リーゼ・マイトナーさんと世紀末ウィーン(9) クララ・シューマンさん

▼クララさんはロベルト・シューマンさん(10月17日)の奥さんでピアニスト。リーゼ・マイトナーさんとは60才違い。それだけ違うけれど、やわらかくて強いという共通点がある。
▼女性を押さえつける環境に少し違いがある。クララさんの時代は女性が作曲するのはダメとされていたので、作曲は諦めてピアノ一筋にした。マイトナーさんの時代になると女性も大学に入れるようになる。
▼クララさんは結婚後、次々生まれる子と夫の世話とピアノ練習、演奏旅行、と超多忙が続く。夫のロベルトさんを何かと気遣いながらも、ロベルトさんの早い死のため37才で寡婦になる。しかし以後40年、ピアニストとして演奏を続け、また、ロベルト・シューマンの作品を後世に伝える努力を続けた。
▼リーゼ・マイトナーさんも、クララ・シューマンさんも、とことん芯が強い。

クララ・シューマン Clara Schumann 1819-1896 ピアニスト
1819年、旧ドイツのザクセン王国ライプツィヒ生まれ。父はピアノ教師フリードリヒ・ヴィーク氏。
教育
1824年(5 離婚した父がピアノ、音楽教育を施す。
活動
1828年(9才)ライプツィヒ・ゲヴァントハウスでモーツァルト・ピアノ協奏曲のピアニストとしてプロデビュー。ロベルト・シューマンさんが父に弟子入り。
1830年(11才)ロベルトさんが住み込みで父のレッスンを受ける。
1831年(12才)父とヨーロッパの演奏旅行に出発。行く先々で絶賛される。
1835年(16才)ゲヴァントハウスやロベルトさんの故郷ツヴィッカウで演奏会を開く。ロベルトさんも参加。
1836年(17才)ロベルトさんとの交際を父から禁止される。ライプツィヒを出てドレスデンに転居。ロベルトさんが追う。怒った父が監視下に置く。
1837年(18才)ライプツィヒで開いたリサイタルでロベルトさんから献呈されたピアノソナタ第1番を演奏。結婚を承諾。父は反対。
1838年(19才)ウィーンでの演奏会を成功させる。オーストリア皇帝フェルディナント1世が「天才少女」と高く評価し「王室皇室内楽奏者」の称号を授与。ショパンも絶賛。
1839年(20才)ロベルトさんが父を訴訟する手続きを進める。父と離婚していた母はロベルトさんとの結婚に同意。父は依然として大反対。
1840年(21才)ロベルトさんと結婚。ロベルトさんの収入では不足するため演奏を継続。練習時間の確保に苦労。
1841年(22才)ロベルトさんを中傷した父が2週間の禁固刑。長女誕生。
1842年(23才)演奏旅行に同行したロベルトさんが妻との待遇の差に傷つく。
1843年(24才)父と和解。次女誕生。
1844年(25才)ロシアに演奏旅行。
1845年(26才)ドレスデンで開いた演奏会は体調不良のため代役を立てる。14才のヨアヒムさん(10月20日)がメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を弾いた。三女誕生。
1846年(27才)ウィーンで夫妻がシューマン作品の演奏会を開催。失敗と成功を体験。長男誕生。
1847年(28才)ロベルトさんに精神障害の症状が出始める。長男エミールが死去。
1848年(29才)次男誕生。
1849年(30才)三男誕生。
1850年(31才)一家でデュッセルドルフに転居。ロベルトさんが管弦楽団と合唱団の指揮を担当。最初の演奏会は成功。
1851年(32才)ロベルトさんが不調になる。四女誕生。
1853年(34才)ロベルトさんの精神障害の悪化が進む。ヨアヒムさんの紹介でブラームスさん(10月16日)が来訪。ピアノを弾くブラームスさんにロベルトさんが喜ぶ。
1854年(35才)ロベルトさんと演奏旅行に出る。ヨアヒムさんやブラームスさんも一部同行。その後、ロベルトさんの症状が急激に悪化。医師と相談しているときロベルトさんが河に身投げ。すぐ救助され精神病院に入れられる。この件は妊娠中のクララさんには知らされなかった。四男誕生。
1856年(37才)精神病院でロベルトさんの死去を看取る。少人数で葬儀を済ませ、ベルリンに転居。
1863年(44才)バーデン=バーデンを拠点に外国演奏旅行。この時代の最高の女性ピアニストとして名声を確立。
1877年(58才)ロベルト作品全集の編集を開始。
1896年(77才)死去。
1897年、ブラームスさん死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3

リーゼ・マイトナーさんと世紀末ウィーン(8) J・ヨアヒムさん

▼ヨアヒムさんはシューマンさん(10月17日)、ブラームスさん(10月16日)と関係が深いハンガリーのヴァイオリニスト。
シューマンさんより21才年下、ブラームスさんより2才年上。クララ・シューマンさんが体調不良でステージに上がれないとき、代わりに演奏したのが14才のときだから、ヴァイオリンの神童だ。ヴァイオリンの教師としても超一流だった。
▼ブラームスさんとは、仲違いしたり仲直りしたり。
▼リーゼ・マイトナーさんがヨアヒムさんの演奏を聞いたかどうかは不明。音楽好きの一家だし、ベルリン時代も甥のオットー・フェリッシュさん(音楽好き)と音楽会に行ったりしていたから、ヨアヒムさんの名声を耳にしたことはあっただろう。

ヨーゼフ・ヨアヒム Joseph Joachim 1831-1907 ヴァイオリニスト

1831年、現在のオーストリア、ブルゲンラント州に相当するハンガリー王国領生まれ。
1833年(2才)一家でハンガリーの首都ブダペストに転居。
教育
1836年(5才)ヴァイオリンのレッスンを開始。ウィーンに行き、ウィーン音楽院で修行。
1843年(12才)ライプツィヒ音楽院に入学、メンデルスゾーン先生に師事。ゲヴァントハウスでメンデルスゾーン先生、クララ・シューマンさんらと共演。
1845年(14才)ドレスデンでシューマンさんが開いた演奏会でメンデルスゾーン先生のヴァイオリン協奏曲を演奏。
1846年(15才)メンデルスゾーン先生とロンドンで演奏会。
1847年(16才)メンデルスゾーン先生が死去。
活動
1848年(17才)ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団に在籍(1850年まで)。ゲヴァントハウス弦楽四重奏団で第2ヴァイオリン。
1850年(19才)ドイツ中央部の都市ヴァイマルのオーケストラでコンサートマスター。
1852年(21才)北ドイツのハノーファーに移る。シューマン夫妻、ブラームスさんと交流。
1853年(22才)シューマンさんにブラームスさんを紹介。
1866年(35才)ベルリンで王立音楽アカデミーの創設と指導。自分のオーケストラを創設。
1869年(38才)「ヨアヒム弦楽四重奏団」を創設。
1879年(48才)ブラームスさんのヴァイオリン協奏曲にアドバイス、初演。その後、仲違い。
1887年(56才)ブラームスさんのヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲の初演でヴァイオリンを演奏。仲直り。
1907年(76才)ベルリンで死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%82%A2%E3%83%92%E3%83%A0

リーゼ・マイトナーさんと世紀末ウィーン(7) J・シュトラウス2世さん

▼ワルツ『春の声』はマイトナーさんが4才の時にシュトラウス2世さんが作った曲なんだ、と思うと、マイトナーさんは何ともすごい時代のすごい町に生まれたんだと頭がクラクラする。
▼シュトラウス2世さんの親父はデタラメな人。母親の応援で救われる幼年、少年時代を過ごす。この時代のウィーンでのピアノやヴァイオリンなどの楽器と住民の関係は現代では推し量れないほど生活の中にあったようだ。
▼お金の話でいうと、ウィーンよりロシアのほうがずっと報酬が良かった。ロシア宮廷の報酬で財を成せた。音楽で食っていくのは当時も今も大変というのは変わらない。
▼マイトナーさんは化学の最新知識はベルリンにあり、と考えてウィーンを出た。経済もロシアに比べ大したことがなく、化学もベルリンより遅れていたウィーン。にしても、なぜウィーンはウィーンなの?

ヨハン・シュトラウス2世 Johann Strauss II. 1825-1899 作曲家
1825年、ウィーン生まれ。作曲家ヨハン・シュトラウス1世の長男。
父は子供が生活が不安定な音楽家になるのは反対、銀行家を望む。ウィーンの家庭の常識だったピアノは許す。
教育
1830年(5才)36小節のワルツを作曲。母が譜面にして『最初の着想』と命名。
1833年(8才)近所の子供にピアノを教え、レッスン代でヴァイオリンを購入。父のマネをして演奏。しかし父に見つかり叩き壊され、体から音楽を叩き出すと言って体罰を受ける。母はすぐ新しいヴァイオリンを買い与える。父の楽団のヴァイオリニスト、フランツ・アモンさんにレッスンを受けているのがバレ、アモンさんは楽団をクビになる。
1841年(16才)ショッテン・ギムナジウム卒業。
1842年(17才)音楽に専念すると決意。教会のオルガン奏者ヨーゼフ・ドレクスラー先生について楽典を学ぶ(独学の父親と対照的)。
活動
1844年(19才)デビューコンサートの準備を開始。息子をライバル視する父が徹底的に妨害。妨害にめげず演奏会を成功させる。
1845年(20才)母が父と離婚。
1846年(21才)親子で作曲で競争(47年まで)。
1848年(23才)ウィーンで1848年革命が起こる。時流の流れに乗って『革命行進曲』『学生行進曲』『自由の歌』当局からにらまれる。『皇帝フランツ=ヨーゼフ行進曲』を作曲。
1849年(24才)父が死去。父が務めていた宮廷舞踏会音楽監督の役職は前年の行動が宮廷に嫌われて引継げず。父の楽団を引き取り、毎晩、舞踏場やレストランを回って演奏。各会場に楽団員を置いたので200名ほどになる。
1850年(25才)過労のため倒れる。
1851年(26才)フランツ・ヨーゼフ1世の式典にカドリーユ『万歳!』を作曲、献呈。
1852年(27才)宮廷の怒りが3年経つうちに薄れ、謝肉祭で宮廷のダンスの指揮を任される。
1853年(28才)『皇帝フランツ・ヨーゼフ1世救命祝賀行進曲』『ミルテの花冠』。多忙が続くため、母の提案で弟ヨーゼフに代役指揮をやらせ負担を軽くする。様々の団体から行事があるごとに作曲の依頼が来るので多忙さは変わらず。しかし、お金にはならない。ウィーンは規模も小さくマーケットとしてのうまみに欠けていた。
1856年(31才)経済状態を改善するためロシアの鉄道会社と契約。夏シーズンはパヴロフスク駅舎で演奏会を指揮。報酬が破格で楽団も生活も潤う。ロシア宮廷では大事にされ、皇帝と親しく交流。戴冠式や祝賀行事に招待されるまでになる。
1859年(34才)パヴロフスクでの演奏契約更新。報酬UP。1年の半分をロシアで過ごすようになる。
1863年(38才)宮廷舞踏会音楽監督を獲得。
1865年(40才)パヴロフスクでの演奏契約更新。契約金が56年に比べ倍にUP。このおかげで財を成すことができた。
1867年(42才)『美しく青きドナウ』
1868年(43才)『ウィーンの森の物語』
1869年(44才)パヴロフスクで演奏会。
1870年(45才)母、弟ヨーゼフ、叔母が次々に死去。精神的に参る。妻や友人が元気づけにオペレッタの作曲を勧める。
1871年(46才)作曲に専念するため、宮廷舞踏会音楽監督の地位を末弟エドゥアルトに譲る。オペレッタ『インディゴと40人の盗賊』が完成。初演成功。
1872年(47才)アメリカ独立100周年祝典『世界平和記念祭』『国際音楽祭』で『美しく青きドナウ』を指揮。2万人の演奏者と歌手、100人の副指揮者の総指揮。ボストンとニューヨークで実施。
1874年(49才)オペレッタ『こうもり』
1882年(57才)『春の声』
1883年(58才)オペレッタ『ヴェネチアの一夜』
1885年(60才)オペレッタ『ジプシー男爵』
1886年(61才)パヴロフスクで演奏会。
1889年(64才)『皇帝円舞曲』
1894年(69才)ウィーンで音楽家生活50周年の祝賀行事。
1899年(74才)死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B92%E4%B8%96

リーゼ・マイトナーさんと世紀末ウィーン(6) J・ブルックナーさん

▼世紀末ウィーンで文化が栄えたのは皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の方針によるところが大きい。ブルックナーさんは晩年、足が悪くなり自宅の階段の昇降が難しくなった。それを知ったヨーゼフ1世は宮殿の宿舎をブルックナーさんに提供した。身分の差、人種の違いで差別が大きかった時代に、心温まる話だ。
▼ブルックナーさんは20代は小学校の先生や農業手伝いをして生計を立てる時代を経験している。それが嫌になり、本来やりたかったオルガニストになって道が開けた。道が開けたのは数多いオルガニストの中で、ダントツに即興演奏がうまかったから。即興演奏はその場で作曲することなので、作曲の才能を活かすため30代からブルックナーさんは作曲家を目指して本格的に勉強する。
▼ブラームスさん(10月16日)とブルックナーさんの間は対立のようなものがあった。しかし、心の交流があったように見受けられる。
▼さて、マイトナー家でブルックナーさんの曲が演奏されたかどうかについては、されなかったのではないかと思う。理由は、ブルックナーさんはオルガン奏者出身の交響曲作家なので、マイトナー家のピアノのレパートリーには入りづらかったのではないかという推測。

ヨーゼフ・アントン・ブルックナー Joseph Anton Bruckner 1824-1896
1824年、オーストリアのリンツ近く生まれ。
教育
1834年(10才)教会で父の代理でオルガン演奏。
1835年(11才)ブルックナーの名付け親でオルガニストのヨハン・ヴァイスの門下生になり音楽教育を受ける。
1836年(12才)父が死去。ザンクト・フローリアン修道院の聖歌隊に入る。
1840年(1才) リンツの教員養成所に入り、小学校の補助教員免許を取得。
活動
1841年(17才)ボヘミア国境近くの村の小学校の補助教員。授業、教会オルガニスト、畑仕事の手伝い、農民の踊りのヴァイオリン伴奏など多忙。バッハの『フーガの技法』を研究。肥やし撒き作業を拒否して転勤。
1846年(22才)ザンクトフローリアン修道院の教師。
1851年(27才)修道院のオルガニスト。
1855年(31才)リンツ大聖堂の専属オルガニスト。ミサで必要な即興演奏技術に優れる強みを発揮し、国内外で評判を得る。改めて作曲を学び直すため非番時にウィーンのジーモン・ゼヒター先生の弟子になる(1861年まで)。
1861年(37才)楽式や管弦楽法を学ぶためオットー・キッツラー先生に弟子入り(1863年まで)。
1863年(39才)ワグナーに傾倒。
1868年(44才)ウィーン国立音楽院の教授。パリ・ノートルダム大聖堂での演奏でサン=サーンスさんの絶賛を受けたりロンドンでのオルガンコンクールで第一位になるなど、オルガニストとしての国際的地位を固める。
1873年(49才)リヒャルト・ワーグナーさんと会見。良好な関係を築き『交響曲第3番ニ短調』を献呈。
1874年(50才)『交響曲第4番変ホ長調』
1875年(51才)ウィーン大学で無給講師(音楽理論)。マーラーさんが聴講。
1876年(52才)『交響曲第5番変ロ長調』
1877年(53才)『交響曲第3番』の初演をマーラーさんが聞く。
1879年(55才)『弦楽五重奏曲ヘ長調』
1880年(56才)ウィーン大学から授業料が支払われるようになる。
1881年(57才)『交響曲第6番イ長調』『テ・デウム』
1883年(59才)『交響曲第7番ホ長調』
1884年(60才)『交響曲第8番ハ短調』に着手。
1891年(67才)ウィーン大学から名誉博士号。
1892年(68才)『交響曲第8番ハ短調』初演に成功。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に献呈。ヨーゼフ1世は階段の上り下りが困難になったブルックナーさんにベルヴェデーレ宮殿内の1Fの住居を提供。死去するまでその部屋で作曲を行った。
1893年(69才)『ヘルゴラント』
1896年(72才)『交響曲第9番』の作成中に死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%BC

リーゼ・マイトナーさんと世紀末ウィーン(5) R・シューマンさん

▼シューマンさんは20才のブラームスさんが出会ったドイツの作曲家。世紀末ウィーンのちょっと前の時代の人。ここで取り上げたのはブラームスさんとの縁に加え、多くのピアノ曲を作曲していたので、マイトナー家で演奏されていた可能性があるから。
▼30代から精神障害の波に苦しむ。40代になってからブラームスさんやヨアヒムさんとの出会いはシューマンさんにとって、とても良いものだった。

ロベルト・アレクサンダー・シューマン Robert Alexander Schumann 1810-1856 作曲家
1810年、ドイツのザクセン州ツヴィッカウ生まれ。父は書店と出版業を営む裕福な家庭。住み込みの家庭教師から教育。
教育
1816年(6才)私立の小学校(1820年まで)。
1817年(7才)父に連れられベートーヴェンの交響曲を聴いて感動。ピアノで舞曲の作曲を始める。
1819年(9才)父に連れられイグナーツ・モシェレス氏のピアノ・リサイタルを聴いて感銘。ピアニストを目指す。モーツァルトの『魔笛』にも感動。
1820年(10才)ギムナジウムに入学。学校内で音楽活動を活発に行う。父もサポート。
1821年(11才)合唱と管弦楽のためのオラトリオ『詩篇第150番』を作曲。
1823年(13才)父が刊行する雑誌に短文を寄稿。
1825年(15才)「ドイツ文学」サークルに入る。
1826年(16才)父が死去。
1828年(18才)ギムナジウムを優秀な成績で卒業。ライプツィヒ大学法科に進学。
ピアノ教師のヴィークさんに師事、娘クララさん(9才)と親しくなる。
1829年(19才)ハイデルベルク大学に転学。ピアノと作曲に没頭。ピアニストとしての評判が広がる。
1830年(20才)『アベッグ変奏曲』完成。ニコロ・パガニーニさんのヴァイオリン演奏に影響。ハイデルベルクを出てライプチッヒのヴィーク家に住込みでレッスンを受ける。音楽理論も学ぶ。
活動
1832年(22才)手の不調もありピアニストから作曲家に転向。
1834年(24才)音楽批評の水準を上げようと仲間と「新音楽時報」を創刊。『謝肉祭』『交響的練習曲』
1835年(25才)クララさんとの恋愛が始まる。クララさん(16才)がゲヴァントハウスでピアニストデビューを果たす。
1836年(26才)クララさんの父ヴィークさんが二人の恋愛に怒り。
1837年(27才)『ピアノソナタ第1番』『幻想小曲集』『ピアノソナタ第3番』『子供の情景』『クライスレリアーナ』『幻想曲』
1839年(29才)ヴィークさんが結婚を許さないので法的手続きを開始。
1840年(30才)シェイクスピアと音楽の論文でイェーナ大学から哲学博士。シューマンとクララの結婚を許可する判決が出て結婚。式にはフランツ・リストさんも出席。『リーダークライス』『ミルテの花』『女の愛と生涯』『詩人の恋』
1841年(31才)クララさんとバッハ先生の『平均律クラヴィーア曲集』を研究。交響曲の年:『交響曲第1番』『序曲、スケルツォと終曲』『ピアノ協奏曲第1楽章』『交響曲第4番』
1842年(32才)室内楽曲の年:3曲の弦楽四重奏曲、ピアノ五重奏曲、ピアノ四重奏曲。過労で倒れる。
1843年(33才)オラトリオ『楽園とペリ』 ヴィークさんがシューマン夫妻に和解を求める。
1844年(34才)クララさんのロシア演奏旅行に同行。その後疲れが出て倒れる。
1845年(35才)ドレスデンに転居。バッハ先生を再び勉強し直す。『練習曲』『スケッチ』『BACHの名による6つのフーガ』
1847年(37才)オペラ『ゲノフェーファ』に着手。精神障害に苦しむ。
1848年(38才)『子供のためのアルバム』
1850年(40才)「バッハ協会」の設立に尽力。デュッセルドルフの音楽監督。『チェロ協奏曲』『交響曲第3番 ライン』
1852年(42才)神経症の症状が出て仕事に支障。
1853年(43才)ヨハネス・ブラームスさん(20才)と出会う。激賞。ヨアヒムさんも合流。ヨーゼフ・ヨアヒムさんとの交流で『ヴァイオリン・ソナタ』『ヴァイオリンと管弦楽のための幻想曲』『ヴァイオリン協奏曲』
1854年(44才)ブラームスさん、ヨアヒムさんとオランダで演奏会を成功させる。入水自殺を図るも救出され療養所に入る。
1856年(46才)クララさんに看取られ療養所で死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3

リーゼ・マイトナーさんと世紀末ウィーン(4) J・ブラームスさん

▼今回から音楽家です。まずブラームスさん。
▼ブラームスBrahmsさんはバッハBach先生、ベートーヴェンBeethoven先生と並んでドイツ音楽の3大Bと言われる作曲家。活躍したのがウィーンだけど、生まれはドイツ。
▼ウィーンでリーゼ・マイトナーさんが生まれた1878年、ブラームスさん(45才)の自宅をドヴォルザークさん(37才)が訪れている。これだけで驚きがある。
▼マイトナーさんが10代のときブラームスさんはすでにウィーンの大作曲家。マイトナー家のピアノではブラームスさんの曲も弾かれていたのだろうか。

ヨハネス・ブラームス Johannes Brahms 1833-1897
1833年、ドイツのハンブルク生まれ。父はコントラバス奏者。
教育
幼少よりヴァイオリンとチェロを学ぶ。
1840年(7才)O・コッセル先生についてピアノのレッスンを開始。才能を示す。
1843年(10才)初ステージ。これを見たアメリカの興行師が両親にアメリカ演奏旅行を打診。両親は喜ぶもコッセル先生が反対。もっと学ぶべきと自らの師匠で作曲家・ピアニストのE・マルクスゼンに弟子入りさせる。
1846年(13才)家が貧しいため居酒屋や料理店でピアノを弾いて家計の足しにする。
ピアノ演奏より作曲に方針転換しマルクスゼン先生の下で修業を重ねる。
活動
1853年(20才)ヴァイオリニストのE・レメーニさんジプシー音楽を教えてもらい作曲活動に着火。
レメーニさんとヴァイオリニストで作曲家のヨーゼフ・ヨアヒムさんと会う。意気投合。
レメーニさんと仲違い。ヨアヒムさんの紹介でロベルト・シューマンさんと妻クララ・シューマンさんに会う。意気投合。
1854年(21才)シューマンさんが自殺未遂(56年に死去)。シューマン家を救うため協力。
1857年(24才)ドイツの連邦国家であるリッペ=デトモルト侯国で音楽家として働く(59年まで)。『ピアノ協奏曲第1番』
1862年(29才)ウィーン・ジングアカデミーの指揮者に就任。
1868年(35才)『ドイツ・レクイエム』
1871年(38才)ウィーンに居を定める。
1876年(43才)『交響曲第1番』(完成に19年を要した作品)。
1877年(44才)『交響曲第2番』
1878年(45才)ドヴォルザークさんが訪問。
1879年(46才)こんどはドヴォルザークさんを訪問。ヨアヒムさんのヴァイオリンで『ヴァイオリン協奏曲』初演。
1883年(50才)『交響曲第3番』
1885年(52才)『交響曲第4番』
1889年(56才)エジソンさんの依頼で『ハンガリー舞曲第1番』ほかを蓄音機に録音、レコーディング史上初となる。
1890年(57才)意欲の衰えを感じ遺書を書く。
1891年(58才)『クラリネット三重奏曲』『クラリネット五重奏曲』『クラリネット・ソナタ』『ヴィオラ・ソナタ』を完成。これはクラリネット奏者リヒャルト・ミュールフェルトの演奏に触発されたもの。『7つの幻想曲』
1892年(59才)『4つの小品』
1896年(63才)『4つの厳粛な歌』 クララ・シューマンさん死去。
1897年(64才)死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%B9

リーゼ・マイトナーさんと世紀末ウィーン(3) C・ユングさん

▼分析心理学の創始者。大学の指導教員の紹介でフロイトさんを知る。ユングさんとフロイトさんの交流は、1907年に始まり、1914年に終わる。アドラーさんの場合は1902年に始まり1911年に終わる。ということは1907年から1911年の間は、精神分析の学会で2人が顔を合わせる機会が何度もあった。それぞれ、フロイトさんと決裂した後、一家を成した。
▼マイトナーさんの専門の化学では、誰がやっても同じ実験結果が得られるのが基本。精神分析の場合は、相手が人間だから化学でやるような実験はできない。方法と結果の因果検証が難しいところが化学との違いだ。
▼マイトナーさんもさんざん理不尽な目に遭い、大苦労をしたのに、同時代の精神分析との関連は見えてこない。マイトナーさんは、フロイトさん・アドラーさん・ユングさんという心理学の超大御所がそろい踏みしたすごい時代の同時代人だ。

カール・グスタフ・ユング Carl Gustav Jung 1875-1961 心理学者

1875年、スイスのケスヴィル生まれ。父は哲学博士で牧師。
教育
1886年(11才)父にラテン語を習った後、バーゼルのギナジウムに入学。
1895年(20才)バーゼル大学医学部に入学。
1896年(21才)父が死去。経済状態が悪化。
1900年(25才)バーゼル大学医学部を卒業。
活動
1900年(25才)兵役につく。
1901年(26才)チューリヒ大学精神科クリニック「ブルクヘルツリ」でオイゲン・ブロイラー先生の助手。
1902年(27才)ブロイラー先生の勧めで学位論文『いわゆるオカルト的現象の心理と病理』を執筆。パリに留学。
1905年(30才)チューリッヒ大学で医長。教授(精神医学)資格を取る。私講師。
1906年(31才)『早発性痴呆の心理』を発表。
1907年(32才)ブロイラー先生主催の大学内勉強会でフロイトさんの『夢判断』のレポートを担当。このときからフロイトさんとの交流が始まる
1908年(33才)『精神病の内容』を発表。
1909年(34才)大学を辞めクリニックを開業。
1911年(36才)フロイトさんらが国際精神分析協会を設立、初代会長。
1914年(39才)WWI。フロイトさんとの意見の相違が目立つようになり国際精神分析協会を退会。チューリヒ大学医学部私講師も辞任。
1916年(41才)「心理学クラブ」を設立、分析心理学の確立を目指す。
1918年(43才)WWI終戦
1921年(46才)『心理学的類型』を発表。
1922年(47才)スイスのボーリンゲンで塔の建設を開始。
1929年(54才)『黄金の華の秘密』を発表。
1939年(64才)WWII
1945年(70才)WWII終戦
1948年(73才)チューリッヒにユング研究所を設立。
1961年(86才)死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%A6%E3%83%B3%E3%82%B0

リーゼ・マイトナーさんと世紀末ウィーン(2) A・アドラーさん

▼アドラーさんは自己啓発の父と言われる心理学者。年齢でいうとマイトナーさんより8才年上。同じウィーン大学で学部違いの先輩になる。専門は心理学。アドラーさんは医学部を出たあと眼科クリニックを開業する。患部を診るだけでなく、患者の全体を見る医者だった。だから人の心の動きに関心が向いたのだろう。32才からフロイトさんの勉強会に参加する。
▼しかしフロイトさんとの考え方の違いがだんだん出てきて9年目で両者の関係は決裂。別々の道を歩む。
▼第一次世界大戦の後から、アドラーさんの関心が子供や教師の教育に向くようになる。ヨーロッパだけでなく、アメリカで受け入れられ、一年を半分ずつ過ごす生活になる。ナチスが台頭しユダヤ人への圧迫が始まると1935年にはオーストリアからアメリカに移住する。マイトナーさんがベルリンを出るのが1938年。人によって、また、その人の周りの環境によって、ナチスの脅威を感じて実際に脱出するまでの時間に差がある。

アルフレッド・アドラー Alfred Adler 1870-1937 心理学者

1870年、ウィーン生まれ。ユダヤ人。父は穀物商人。
1874年(4才)肺炎で一時重体から回復。医師を志すきっかけになる。
教育
ギムナジウム
1888年(18才)ウィーン大学医学部に入学。
1895年(25才)ウィーン大学医学部を卒業。
活動
1895年(25才)中下層階級のユダヤ人が多い地区で眼科医を開業。
1897年(27才)結婚。
1898年(28才)最初の著作『仕立て業のための健康手帳』を出版。
1902年(32才)フロイトさんが始めた「心理学水曜会」に参加
1907年(37才)『器官劣等性の研究』を出版。
1910年(40才)ウィーン精神分析協会の議長、『精神分析中央雑誌』の編集長。フロイトさんと意見の相違が目立つようになる。
1911年(41才)フロイトさんと袂を分かち仲間と自由精神分析協会を設立。
1912年(42才)『神経質について』を出版。
1913年(43才)自由精神分析協会の名称を個人心理学会に変更。
1914年(44才)WWI
1916年(46才)軍医として従軍。負傷者、神経症患者を診る。共同体感覚の重要性を認識。
1918年(48才)WWI終戦
1922年(52才)児童相談所を設立。
1924年(54才)ウィーン教育研究所治療教育部門の教授。教師の再教育を行う。
1926年(56才)渡米し講演旅行。講評を博す。以降、アメリカ(ニュースクール大学)とヨーロッパを半々で過ごす
1932年(62才)ロングアイランド医科大学で招聘教授(医学心理学)。大学付属教育診療所の指導も担当。『人生の意味の心理学』を出版。
1935年(65才)オーストリアが政情不安定となりアメリカに移住
1937年(67才)死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%BC

リーゼ・マイトナーさんと世紀末ウィーン(1) S・フロイトさん

▼世紀末ウィーンとは19世紀末から1938年までのオーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンで成熟した文芸全体を言う。1878年ウィーンに生まれ、30才になるまでウィーンで暮らしていたリーゼ・マイトナーさんの時代背景とも言える。
▼これからしばらく、この時代のウィーンに登場する人物を見ていく。最初は精神分析分野から、フロイトさん。フロイトさんの特徴は、主張と反発、出会いと反目。そしてナチスの影響。
▼マイトナーさんがカイザー・ヴィルヘルム研究所時代に「水曜コロキウム」に参加していたように、フロイトさんも「心理学水曜会」を開いていた。学問仲間が集まって勉強会をするやり方は、知を共有・交換して発展・深化させるには良い方法だ。

ジークムント・フロイト Sigmund Freud 1856-1939 精神分析

1856年、オーストリア帝国モラヴィア生まれ(現、チェコ)。ユダヤ人。父は毛織物商人。
1859年(3才)一家でウィーンに転居。
教育
1866年(10才)シュペルル・ギムナジウムに入学。
1873年(17才)ウィーン大学に入学。両生類・魚類の脊髄神経細胞を研究。
1881年(25才)ウィーン大学卒業。
活動
1884年(28才)局所麻酔薬としてコカイン研究。
1885年(29才)留学奨学金を得てパリ留学。神経学者ジャン=マルタン・シャルコーのもとで催眠によるヒステリー症状の治療法を学ぶ。
1886年(30才)ウィーンに戻り「男性のヒステリーについて」を発表。反発を受ける。クリニックを開業しヒステリー治療を実践。自由連想法、精神分析。
1889年(33才)実践の積み重ねで精神分析の方法を深化、発展させる。
1895年(39才)ヒステリーは幼少期に受けた性的虐待が原因と結論づける。「お話し療法」「自由連想法」を編み出す。
1896年(40才)父親の死去にショック。自ら診療を受けながら考察を重ね「エディプス・コンプレックス」を発見。
1900年(44才)『夢判断』を出版。
1902年(46才)「心理学水曜会」を開始。アドラーさんが参加。
1905年(49才)『性に関する三つの論文』を発表。悪評を浴びる。
1907年(51才)「心理学水曜会」にユング氏が参加。
1908年(52才)「心理学水曜会」が「ウィーン精神分析協会」に発展、初代会長にユングさんが就任。
1909年(53才)渡米しクラーク大学創立20周年式典で講演、博士号を受ける。
1910年(54才)ウィーン精神分析協会の議長にアドラーさんが就任。次第にアドラーさんと意見の食い違いが増える。
1911年(55才)アドラーさんが離脱し自由精神分析協会(後に個人心理学会)を設立。国際精神分析協会を設立、ユングさんが初代会長に就任。
1913年(57才)第4回の国際精神分析大会でユングさんと決裂。
1914年(58才)ユングさんが国際精神分析学会を退会。
1914年(58才)WWI
1918年(62才)WWI終戦。戦争神経症の患者を診察。
1920年(64才)弟子や娘のゾフィさんが相次いで死去。
1922年(66才)姪が睡眠薬で死去。
1923年(67才)長年の仲間で精神科医のオットー・ランク氏が離反。孫のハイネルレ(娘ゾフィさんの息子)が5才で死去。『自我とエス』を発表。
1924年(68才)ウィーン名誉市民。
1926年(70才)誕生日の祝辞がヘブライ大学と物理学者アインシュタインから届く。『制止、症状、不安』を発表。
1927年(71才)宗教を取り上げた『幻想の未来』を発表。
1929年(73才)『ドストエフスキーと父親殺し』を発表。
1930年(74才)『文化への不満』を発表。
1931年(75才)ウィーン医師協会の名誉会員。
1932年(76才)ナチスのユダヤ人迫害が始まりウィーンから弟子たちが脱出。
1938年(82才)ナチがオーストリア侵攻、ゲシュタポから自宅を捜査される。ロンドンに脱出。『モーセと一神教』を発表。
1939年(83才)死去。WWII

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%88
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%BC
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%A6%E3%83%B3%E3%82%B0

L・マイトナーさんと同時代の科学者(32) C・ヴァイツマンさん

▼マイトナーさんがカイザー・ヴィルヘルム研究所にいた時期、ハーバー・ボッシュさんが所長を務めていた。1933年にナチスの圧迫が始まったとき、ボッシュさんはベルリンを出る。ヴァイツマンさんの誘いを受けてエルサレムに新設するダニエル・シーフ研究所の所長になる予定だったからだ。しかし、移動の途中、ハーバーさんは死去する。そのためヴァイツマンさんが自ら所長に就任する。
▼ヴァイツマンさんは有機化学者であり、初代イスラエル大統領である。ヴァイツマンさんはイスラエルの若者の教育環境を整えるためヘブライ大学やダニエル・シーフ研究所を創設した。イスラエルが情報技術の先進国になったのは、教育・研究機関とノイマンさんやアインシュタインさんらの協力があったから。

ハイム・ヴァイツマン Chaim Azriel Weizmann 1874-1952

187年、現ベラルーシ(旧ロシア)のモタリ生まれ。ユダヤ人。15人兄弟の3番目。父は材木商。
教育
1878年(4才)ユダヤ教やヘブライ語を教える伝統的な学校 cheder に入学。
1885年(11才)cheder を卒業。ピンスクにある高校に入学。イスラエルの地へ帰還・開拓運動に参加。
1892年(18才)高校を優秀な成績で卒業。ドイツに行きダルムシュタット工科大学に入学、化学を学ぶ。生活費を稼ぐためユダヤ人寄宿学校でヘブライ語を教える。
1894年(20才)ベルリン工科大学に転学。ベルリンでシオニストの知識人と交流。
1897年(23才)スイスのフリブール大学に入学。
1898年(24才)第二回シオニスト会議に参加。
1899年(25才)フリブール大学で PhD(有機化学)。ジュネーブ大学の有機化学を教える(1904年まで)。
活動
1904年(30才)英国マンチェスター大学で化学のsenior lecturer。
1907年(33才)パレスチナを訪問。
1910年(36才)英国市民になる(48年まで)。バクテリア発酵法の開発に成功、発酵工業の父と呼ばれる。
1914年(40才)WWI。シオニズム運動を始める。
1917年(43才)イギリスがパレスチナでのユダヤ国家建設を約束。
1918年(44才)WWI終戦。シオニスト委員会の代表としてテルアビブを視察。
1919年(45才)イラク王国ファイサル1世とファイサル・ヴァイツマン合意。シオニスト運動の指導者。
1921年(47才)世界シオニスト機構(World Zionist Organization) 代表。
1925年(51才)エルサレムにヘブライ大学を創設。
1934年(60才)ダニエル・シーフ研究所(Daniel Sieff Research Institute)設立。ハーバーさん(9月13日)を所長に迎えようとする。ハーバーさんが死去したため所長に就く。
1935年(61才)WZO代表に復帰(46年まで)。
1939年(65才)WWII。イギリス軍需省の名誉顧問。合成ゴムとハイオクガソリンを研究。
1945年(71才)WWII終戦
1948年(74才)イスラエルの初代大統領
1949年(75才)ダニエル・シーフ研究所がヴァイツマン科学研究所に改名。
1952年(78才)死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%84%E3%83%9E%E3%83%B3
https://en.wikipedia.org/wiki/Chaim_Weizmann