リーゼ・マイトナーさんと世紀末ウィーン(6) J・ブルックナーさん

▼世紀末ウィーンで文化が栄えたのは皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の方針によるところが大きい。ブルックナーさんは晩年、足が悪くなり自宅の階段の昇降が難しくなった。それを知ったヨーゼフ1世は宮殿の宿舎をブルックナーさんに提供した。身分の差、人種の違いで差別が大きかった時代に、心温まる話だ。
▼ブルックナーさんは20代は小学校の先生や農業手伝いをして生計を立てる時代を経験している。それが嫌になり、本来やりたかったオルガニストになって道が開けた。道が開けたのは数多いオルガニストの中で、ダントツに即興演奏がうまかったから。即興演奏はその場で作曲することなので、作曲の才能を活かすため30代からブルックナーさんは作曲家を目指して本格的に勉強する。
▼ブラームスさん(10月16日)とブルックナーさんの間は対立のようなものがあった。しかし、心の交流があったように見受けられる。
▼さて、マイトナー家でブルックナーさんの曲が演奏されたかどうかについては、されなかったのではないかと思う。理由は、ブルックナーさんはオルガン奏者出身の交響曲作家なので、マイトナー家のピアノのレパートリーには入りづらかったのではないかという推測。

ヨーゼフ・アントン・ブルックナー Joseph Anton Bruckner 1824-1896
1824年、オーストリアのリンツ近く生まれ。
教育
1834年(10才)教会で父の代理でオルガン演奏。
1835年(11才)ブルックナーの名付け親でオルガニストのヨハン・ヴァイスの門下生になり音楽教育を受ける。
1836年(12才)父が死去。ザンクト・フローリアン修道院の聖歌隊に入る。
1840年(1才) リンツの教員養成所に入り、小学校の補助教員免許を取得。
活動
1841年(17才)ボヘミア国境近くの村の小学校の補助教員。授業、教会オルガニスト、畑仕事の手伝い、農民の踊りのヴァイオリン伴奏など多忙。バッハの『フーガの技法』を研究。肥やし撒き作業を拒否して転勤。
1846年(22才)ザンクトフローリアン修道院の教師。
1851年(27才)修道院のオルガニスト。
1855年(31才)リンツ大聖堂の専属オルガニスト。ミサで必要な即興演奏技術に優れる強みを発揮し、国内外で評判を得る。改めて作曲を学び直すため非番時にウィーンのジーモン・ゼヒター先生の弟子になる(1861年まで)。
1861年(37才)楽式や管弦楽法を学ぶためオットー・キッツラー先生に弟子入り(1863年まで)。
1863年(39才)ワグナーに傾倒。
1868年(44才)ウィーン国立音楽院の教授。パリ・ノートルダム大聖堂での演奏でサン=サーンスさんの絶賛を受けたりロンドンでのオルガンコンクールで第一位になるなど、オルガニストとしての国際的地位を固める。
1873年(49才)リヒャルト・ワーグナーさんと会見。良好な関係を築き『交響曲第3番ニ短調』を献呈。
1874年(50才)『交響曲第4番変ホ長調』
1875年(51才)ウィーン大学で無給講師(音楽理論)。マーラーさんが聴講。
1876年(52才)『交響曲第5番変ロ長調』
1877年(53才)『交響曲第3番』の初演をマーラーさんが聞く。
1879年(55才)『弦楽五重奏曲ヘ長調』
1880年(56才)ウィーン大学から授業料が支払われるようになる。
1881年(57才)『交響曲第6番イ長調』『テ・デウム』
1883年(59才)『交響曲第7番ホ長調』
1884年(60才)『交響曲第8番ハ短調』に着手。
1891年(67才)ウィーン大学から名誉博士号。
1892年(68才)『交響曲第8番ハ短調』初演に成功。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に献呈。ヨーゼフ1世は階段の上り下りが困難になったブルックナーさんにベルヴェデーレ宮殿内の1Fの住居を提供。死去するまでその部屋で作曲を行った。
1893年(69才)『ヘルゴラント』
1896年(72才)『交響曲第9番』の作成中に死去。

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