リーゼ・マイトナーさんと世紀末ウィーン(5) R・シューマンさん

▼シューマンさんは20才のブラームスさんが出会ったドイツの作曲家。世紀末ウィーンのちょっと前の時代の人。ここで取り上げたのはブラームスさんとの縁に加え、多くのピアノ曲を作曲していたので、マイトナー家で演奏されていた可能性があるから。
▼30代から精神障害の波に苦しむ。40代になってからブラームスさんやヨアヒムさんとの出会いはシューマンさんにとって、とても良いものだった。

ロベルト・アレクサンダー・シューマン Robert Alexander Schumann 1810-1856 作曲家
1810年、ドイツのザクセン州ツヴィッカウ生まれ。父は書店と出版業を営む裕福な家庭。住み込みの家庭教師から教育。
教育
1816年(6才)私立の小学校(1820年まで)。
1817年(7才)父に連れられベートーヴェンの交響曲を聴いて感動。ピアノで舞曲の作曲を始める。
1819年(9才)父に連れられイグナーツ・モシェレス氏のピアノ・リサイタルを聴いて感銘。ピアニストを目指す。モーツァルトの『魔笛』にも感動。
1820年(10才)ギムナジウムに入学。学校内で音楽活動を活発に行う。父もサポート。
1821年(11才)合唱と管弦楽のためのオラトリオ『詩篇第150番』を作曲。
1823年(13才)父が刊行する雑誌に短文を寄稿。
1825年(15才)「ドイツ文学」サークルに入る。
1826年(16才)父が死去。
1828年(18才)ギムナジウムを優秀な成績で卒業。ライプツィヒ大学法科に進学。
ピアノ教師のヴィークさんに師事、娘クララさん(9才)と親しくなる。
1829年(19才)ハイデルベルク大学に転学。ピアノと作曲に没頭。ピアニストとしての評判が広がる。
1830年(20才)『アベッグ変奏曲』完成。ニコロ・パガニーニさんのヴァイオリン演奏に影響。ハイデルベルクを出てライプチッヒのヴィーク家に住込みでレッスンを受ける。音楽理論も学ぶ。
活動
1832年(22才)手の不調もありピアニストから作曲家に転向。
1834年(24才)音楽批評の水準を上げようと仲間と「新音楽時報」を創刊。『謝肉祭』『交響的練習曲』
1835年(25才)クララさんとの恋愛が始まる。クララさん(16才)がゲヴァントハウスでピアニストデビューを果たす。
1836年(26才)クララさんの父ヴィークさんが二人の恋愛に怒り。
1837年(27才)『ピアノソナタ第1番』『幻想小曲集』『ピアノソナタ第3番』『子供の情景』『クライスレリアーナ』『幻想曲』
1839年(29才)ヴィークさんが結婚を許さないので法的手続きを開始。
1840年(30才)シェイクスピアと音楽の論文でイェーナ大学から哲学博士。シューマンとクララの結婚を許可する判決が出て結婚。式にはフランツ・リストさんも出席。『リーダークライス』『ミルテの花』『女の愛と生涯』『詩人の恋』
1841年(31才)クララさんとバッハ先生の『平均律クラヴィーア曲集』を研究。交響曲の年:『交響曲第1番』『序曲、スケルツォと終曲』『ピアノ協奏曲第1楽章』『交響曲第4番』
1842年(32才)室内楽曲の年:3曲の弦楽四重奏曲、ピアノ五重奏曲、ピアノ四重奏曲。過労で倒れる。
1843年(33才)オラトリオ『楽園とペリ』 ヴィークさんがシューマン夫妻に和解を求める。
1844年(34才)クララさんのロシア演奏旅行に同行。その後疲れが出て倒れる。
1845年(35才)ドレスデンに転居。バッハ先生を再び勉強し直す。『練習曲』『スケッチ』『BACHの名による6つのフーガ』
1847年(37才)オペラ『ゲノフェーファ』に着手。精神障害に苦しむ。
1848年(38才)『子供のためのアルバム』
1850年(40才)「バッハ協会」の設立に尽力。デュッセルドルフの音楽監督。『チェロ協奏曲』『交響曲第3番 ライン』
1852年(42才)神経症の症状が出て仕事に支障。
1853年(43才)ヨハネス・ブラームスさん(20才)と出会う。激賞。ヨアヒムさんも合流。ヨーゼフ・ヨアヒムさんとの交流で『ヴァイオリン・ソナタ』『ヴァイオリンと管弦楽のための幻想曲』『ヴァイオリン協奏曲』
1854年(44才)ブラームスさん、ヨアヒムさんとオランダで演奏会を成功させる。入水自殺を図るも救出され療養所に入る。
1856年(46才)クララさんに看取られ療養所で死去。

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