リーゼ・マイトナーさんと世紀末ウィーン(17) M・ラヴェルさん

▼ラヴェルさんはリーゼ・マイトナーさんより3才年上。だから同時代人。WWIでつらい体験をしたのも共通だ。ラベルさんは40才にしての輸送兵として死線をくぐり、受けたダメージが大きかった。WWIの後、レジオンドヌール勲章の叙勲を拒否していることも関係がありそうだ。
▼海外に演奏に出たとき、自分の人気の高さに驚いたという。母国では音楽家の登竜門と言われる賞に5回挑戦し2回目に3位入賞したのが最高で、5回目は予選で落選という扱い。ところが『水の戯れ』などを発表した実績があるほどの作曲家なのに、こういう結果はおかしいと問題になった。伝統からはみ出る杭は打たれる(というか無視される)例。
▼左手のピアニストパウル・ヴィトゲンシュタインさん(10月28日)のためにコンチェルトを書いたのは55才のとき。
▼リーゼ・マイトナーさんはコンサートに行くのが好きだったので、ラヴェルさんの曲、例えば『ボレロ』とか『展覧会の絵』を聞いたことがあったのではないだろうか。あるいはウィーンの伝統的な音楽と違いすぎるから足を運ばなかったかも知れない。

ジョゼフ・モーリス・ラヴェル Joseph Maurice Ravel 1875-1937
1875年、フランスのバスク地方シブール生まれ。すぐ一家でパリへ移住。父は実業家のスイス人で音楽好き、母はバスク人。
教育
1889年(14才)パリ音楽院(14年間)。フォーレ先生らに学ぶ。作曲家のシャブリエさんやサティさんに共感。
1898年(23才)国民音楽協会による第266回演奏会でデビュー。
1899年(24才)『亡き王女のためのパヴァーヌ』
1901年(26才)『水の戯れ』 フランスの音楽家の登竜門ローマ大賞に応募『ミルラ』で3位に入賞。
1902年(27才)尊敬するドビュッシーさんと面会。ドビュッシーさんもラベルさんを高く評価。
1903年(28才)『ソナチネ』。パリ音楽院を卒業。
活動
1907年(32才)『博物誌』『スペイン狂詩曲』
1908年(33才)『マ・メール・ロワ』『夜のガスパール』
1909年(34才)ロンドンでの演奏会で自分の作品の人気を知る。
1910年(35才)国民音楽協会を脱退し、仲間と新しく独立音楽協会を創設。ドビュッシーさんの『牧神の午後への前奏曲』をピアノ用に編曲。
1911年(36才)オペラ『スペインの時』初演。不評に終わる。
1912年(37才)『ダフニスとクロエ』
1914年(39才)WWI。空軍のパイロットに応募するも体重不足で不採用。
1915年(40才)フランス軍のトラック輸送兵になる。
1917年(42才)母親が死去(76才)。『クープランの墓』
1918年(43才)WWI終戦
1920年(45才)レジオンドヌール勲章叙勲を拒否。
1922年(47才)ムソルグスキーのピアノ曲『展覧会の絵』をオーケストラ用に編曲。
1923年(48才)『ヴァイオリンソナタ』
1927年(52才)軽い記憶障害や言語症が始まる。
1928年(53才)渡米して演奏会。大成功。オックスフォード大学名誉博士。『ボレロ』
1930年(55才)『左手のためのピアノ協奏曲』。パウル・ヴィトゲンシュタインさん(10月28日)のために作曲
1931年(56才)『ピアノ協奏曲 ト長調』
1932年(57才)パリで交通事故に遭う。以前からの記憶障害と失語症が進む。
1933年(58才)パリで最後の演奏会を行う。自分の名前もサインできない状態。『ドゥルシネア姫に心を寄せるドン・キホーテ』
1934年(59才)保養施設に入るも回復せず。
1936年(61才)周囲とのコミュニケーションができなくなる。
1937年(62才)脳内出血を疑い手術するも症状なし。そのまま昏睡状態になり死去。

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