リーゼ・マイトナーさんと世紀末ウィーン(14) L・ヴィトゲンシュタインさん

▼ヴィトゲンシュタインさんはリーゼ・マイトナーさんより11才若い。ヴィトゲンシュタイン家が当時のウィーンを濃縮したような家。濃縮度がすごいので還元に時間がかかる。
▼このブログでは紹介している人のことを、結局、何一つ理解できないまま、いつ・どこで・何をした・誰に会ったといったような事実や仕事から雰囲気を見ている。今回のヴィトゲンシュタインさんの仕事(哲学)は全く分からない。27才のチューリングさんがケンブリッジ大学で50才のヴィトゲンシュタインさんの講義を聞いた。チューリングさんは自分の考え方とヴィトゲンシュタイン先生との違いを感じたようだ。そこの違いも分からない。
▼分かるのは天才と言えど(だから)、苦しんだ、乗り越えた、また苦しんだ、の繰り返しだった、ということ。
▼ヴィトゲンシュタインさんは軍の兵士としては非常に適性があったようで、二度、優秀な働きで勲章を貰っている。一方、学位論文や著作についてはなかなかうまく行かず、関係者と衝突を起こしている。衝突を繰り返しながら、味方になってくれる人が最後までいたのは幸いだ。死去する前の最後の言葉が、会いに来ようとしている友人たちへの伝言「素晴らしい人生だったと伝えてくれ」だった。

ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ヴィトゲンシュタイン Ludwig Josef Johann Wittgenstein 1889-1951 哲学者
1889年、オーストリア・ハンガリー帝国ウィーン生まれ。父は製鉄産業の富豪。
兄は戦争で右手を失ったピアニスト。ラヴェル、リヒャルト・シュトラウス、プロコフィエフらが左手のための作品を作曲。ヴァイオリニストのヨアヒムさん(10月20日)は親戚。家族で彫刻家のロダン、画家のクリムトらと交流。母はブラームスさん(10月16日)、マーラーさん(10月22日)、ブルーノ・ワルターさんと親交。
1893年(4才)やっと喋り始める。重度の吃音症なので教育を家庭内で行う。
教育
1903年(14才)家庭内での教育を終え、リンツの高等実科学校に入学。アドルフ・ヒトラーがいた。
ボルツマン先生の講義録を読んでウィーン大学の進学を希望するも、1906年に先生が自殺。
1906年(17才)高等実科学校を卒業。航空工学に興味があったのでベルリン工科大学に入学、機械工学を学ぶ。
活動
1908年(19才)ベルリン工科大学を卒業。博士号取得のためマンチェスター大学工学部へ入学。
1911年(22才)ターボプロップエンジンの特許を取得。数学基礎論に興味を持ちフレーゲ先生の下で短期間、数学を学ぶ。フレーゲ先生の勧めでケンブリッジ大学トリニティ・カレッジのラッセル先生と面談。
1912年(23才)ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学。ラッセル先生やムーア先生のもとで論理の基礎を研究。経済学のケインズさんと知り合う。
1913年(24才)父が死去。相続を受ける。ケンブリッジ大学に戻らずノルウェーの山小屋で隠遁生活。博士論文の書き方についてムーア先生の指導を受け入れず罵倒して人間関係を破壊。
1914年(25才)WWI。オーストリア・ハンガリー帝国軍の志願兵になる。兄が戦闘で右手を負傷。
1915年(26才)軍の工廠の仕事に回る。
1916年(27才)対ロシア戦で砲兵連隊員。勲章を受け伍長へ昇進。
1917年(28才)ロシア革命。戦況が落ち着いたため休暇でウィーンに戻る。
1918年(29才)イタリア戦線の山岳砲兵部隊の偵察兵二度目の受勲。描き続けていた『論考』を完成。イタリア戦線に戻る。イタリア軍の捕虜になり収容所生活が始まる。WWI終戦
1919年才)捕虜収容所から釈放。ウィーンに戻り全財産を放棄。『論考』の出版がうまくいかず。教員養成学校に入る。
1920年(31才)小学校の教師資格を取得。
1921年(32才)ラッセルさんや友人の哲学者オグデンさんらが『論考』出版のために奔走。
1922年(33才)『論理哲学論考』出版。「ウィーン学団」で輪講される。
1924年(35才)オッタータルの小学校に赴任。子供が正しい綴りを覚えやすくするために『小学生のための正書法辞典』に着手。ウィーン学団の創立者シュリックさんと文通開始。
1926年(37才)『小学生のための正書法辞典』出版。子供に与えた体罰が原因で小学校教師を辞任。修道院の庭師になる。
1927年(38才)シュリックさんと面会。
1928年(39才)ケインズさんと文通が始まる。
1929年(40才)ケインズさんの客としてケンブリッジ大学を再訪。『論理哲学論考』を博士論文として提出。トリニティ・カレッジのフェロー、講師になる。
1936年(47才)シュリックさんがウィーン大学内で反ユダヤ主義者の学生に射殺される。ウィーン学団との縁が終わる。
1939年(50才)WWII。ケンブリッジ大学の哲学教授。チューリングさん(27才)が講義を受ける。イギリス市民になる。
1945年(56才)WWII終戦
1946年(57才)ケンブリッジ大学キングス・カレッジの会合でカール・ポパーさんと激論。
1951年(62才)死去。

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