リーゼ・マイトナーさんと世紀末ウィーン(10) A・マーラーさん

▼リーゼ・マイトナーさんとマーラーさんの年齢はマーラーさんが年上で18才違い。マイトナーさんは1907年までウィーンの実家にいて、それからベルリンに出る。マーラーさんは1898年から3年ほどウィーンフィルで指揮者をしているので、もしかするとマーラーさんが指揮をしている演奏会に一家で行った可能性がある。ということがなかったにしてもあり得るのだから、世紀末ウィーンはすごい。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の存在があったから。その皇帝とマーラーのお祖母ちゃんは縁がある。
▼マーラーさんのお祖母ちゃんは80才になっても行商して歩いていた。そのとき何かの法律に触れて刑罰を受けた。しかし、これに納得がいかないお祖母ちゃんは、フランツ・ヨーゼフ1世に直訴。皇帝は80才にして現役の行商人からの訴えを聞いて特赦にしたという。
▼マーラーさんはユダヤ人だったので、それが故の攻撃を受けることがあった。ナチスが台頭した背景にユダヤ人に対する反発が社会の中にあったことが伺える。
▼マーラーさんは精神的に参ったとき、フロイトさん(10月13日)の治療を受けている。治療効果があったという。

グスタフ・マーラー Gustav Mahler 1860-1911

1860年、オーストリア帝国ボヘミア王国の村に生まれる。ユダヤ人。父は行商人から身を起こし酒類製造業を営む。
教育
1864年(4才)アコーディオンが弾けるようになる。
1865年(5才)ピアノに興味を示す。父が息子の音楽的才能に気づく。地元イーグラウのキリスト教教会の少年合唱団員。
1869年(9才)イーグラウのギムナジウムに入学。
1870年(10才)イーグラウ市立劇場の音楽会でピアニストとして出演。
1871年(11才)プラハのギムナジウムに転校。
1872年(12才)イーグラウに帰郷。ギムナジウムの式典ホールでピアノ演奏を披露。
1875年(15才)ウィーン楽友協会音楽院(現ウィーン国立音楽大学)に入学。
1876年(16才)ピアノ四重奏曲を作曲。ウィーン楽友協会音楽院のコンクールでシューベルトのピアノ・ソナタを演奏しピアノ演奏部門一等賞、ピアノ曲で作曲部門一等賞を獲得。
1877年(17才)ウィーン大学でブルックナーさん(10月18日)の和声学を受講。交流が始まる。
1878年(18才)ウィーン楽友協会音楽院を卒業。作曲賞を受賞。
活動
1883年(23才)カッセル王立劇場の楽長(カペルマイスター)になる。
1884年(24才)音楽祭で指揮者として成功。
1885年(25才)『さすらう若者の歌』。プラハのドイツ劇場の楽長になる。
1886年(26才)ライプツィヒ歌劇場で楽長。『子供の不思議な角笛』作曲。
1888年(28才)ブダペスト王立歌劇場の芸術監督になる。
1889年(29才)指揮に高い評価を受ける。両親が死去。
1890年(30才)ブラームスさん(10月16日)が『ドン・ジョヴァンニ』の演奏を聞いて高評価。
1891年(31才)ハンブルク歌劇場の第一楽長になる。
1894年(34才)『交響曲第2番ハ短調』
1896年(36才)『交響曲第3番ニ短調』
1897年(37才)ユダヤ教からローマ・カトリックに改宗。ウィーン宮廷歌劇場(現ウィーン国立歌劇場)の第一楽長、芸術監督になる。
1898年(38才)ウィーン・フィルハーモニーの指揮者。
1900年(40才)『交響曲第4番ト長調』
1901年(41才)反ユダヤ主義の聴衆・評論家・楽団員と軋轢のためウィーン・フィルの指揮者を辞任。ウィーン宮廷歌劇場の仕事は継続。
1902年(42才)結婚。『交響曲第5番嬰ハ短調』
1903年(43才)フランツ・ヨーゼフ1世から第三等鉄十字勲章が授与。
1904年(44才)シェーンベルク氏らが「創造的音楽家協会」を設立、マーラーさんが名誉会長になる。『交響曲第6番イ短調』
1905年(45才)『交響曲第7番ホ短調』
1907年(47才)NYメトロポリタン歌劇場の招きで渡米。『交響曲第8番変ホ長調』
1908年(48才)『大地の歌』
1909年(49才)ニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者。『交響曲第9番ニ長調』
1910年(50才)神経症に悩みフロイトさんの診察を受ける。劇的に改善。
1911年(51才)ウィーンで死去。

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