ヨウ素Iの発見者 B・クールトアさん

ヨードチンキの原料になるヨウ素。これを発見したのはフランスの化学者クールトアさん。お父さんが化学者で起業家。火薬で儲けようと硝酸工場を持つものの見事に失敗して借金が残る。息子のクールトアさんが工場再起のため頑張るものの戦争のため原料の木材が欠乏。代替として海岸で捨てられていた海藻に目を付けたのが幸運を呼ぶことになる。発見者の名前が歴史に残ったのは、ゲイ=リュサックさん(6月16日参照)とH・デービーさん(6月26日参照)の騎士道精神というか科学者道のおかげ。フランスとイギリス、国を超えた化学者の信義が光っている。

ベルナール・クールトア Bernard Courtois 1777-1838 フランスの化学者。

1777年、フランスのディジョン生まれ。
教育
父の仕事場がディジョン・アカデミーという申し分のない環境で育つ。
一家は小さなホテルを研究室に改装した住居に住んでいた。
クールトアさんの父親は、フランスの化学者でディジョンの議員ルイ=ベルナール・ギトン・ド・モルボーさんの助手を務めながら、アカデミーの薬剤師も兼任していた。
1789年(12才)父がフランス革命で火薬の需要が起こると見込み、サン-メダールという町にある硝酸塩の製造工場を購入。一家で転居。クールトアさんも父親の工場で硝酸カリウムの製造方法を学ぶ。
1795-98年(18-21才)実家からオーセールの街に出て化学者の見習い修行に入る。この間、パリのエコール・ポリティークで働き口を見つける。

社会
1799年(22才)軍病院の薬剤師として勤務。
1801年(24才)ルイ・テナールさん(6月17日参照)の研究室で働くため、エコール・ポリティークに戻る。
1802年(25才)エコール・ポリティークでアルマンド・セグインさんとアヘンの研究を行う。セグインと共にモルヒネの単離に成功する。
1804年(27才)エコール・ポリティークでのアヘン研究を終え、父が行っている硝酸カリウム製造事業に参加。
1805-07年(28-30才)父が事業に失敗。借金が返せなくなったため債務者刑務所に入る。この間、クールトアさんは硝石ビジネスマンとして家業の復興に尽力。

ヨウ素の発見
1811年(34才)戦争のため硝酸カリウムの製造に必要な木材の灰が不足し、硝石事業が低迷。
そこで木材の代替としてノルマンディとブルターニュの海岸の(捨てられていた)海藻を試みる。クールトアさんが海藻灰からナトリウムとカリウムの化合物を分離するため硫酸を加えたとき、目にしたことがない紫色の蒸気が発生し銅製の容器が腐食した。これがヨウ素だった。
サンプルを受け取ったゲイ=リュサックさんとH・デービーさんが、新元素を確認。クールトアさんをヨウ素の発見者と認定。

命名
1813年(36才)ゲイ=リュサックさんがギリシャ語の紫「Iode」と命名。蒸気が紫色を示すのにちなんだ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A2
https://en.wikipedia.org/wiki/Bernard_Courtois
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%A6%E7%B4%A0